まさかの来客
遅い朝。
現実感のない夜会から一夜明け、マリアは日が高くなってからやっと起き上がった。
眩しすぎた昨夜のことを思い出すとまだ目がチカチカするくらいなのだが、ずっとこのまま寝ているわけにもいかない。
仕方なく身支度だけを整えて、廊下をノロノロ歩き出したのだが……なにやら屋敷中がバタバタと慌ただしい。
いつもならこの時間は掃除や朝食の片付けも終わっていて、メイド達もゆっくりとひと息ついているはずだった。
それが今日はどうだろう。年嵩のメイド長までが張り切って、屋敷を右へ左へと走り回っている。
「……ねえ。なにがあったの?」
「分かりません。旦那様から朝一番に指示が出まして……『すぐに応接室を磨き上げろ』としか」
何事かと思い、廊下を忙しなく行き来するメイドをつかまえて尋ねてみるが、その返事はなんともハッキリしない。
「応接室? お客様がいらっしゃるの?」
「おそらく、そのようで……朝早くに先触れがいらっしゃったようですから」
(先触れを出すような『お客様』がいらっしゃる? うちに?)
メイドの手には、めったに登場しない特注品の花瓶が抱かれていた。これは父であるデメトリオの宝物で、並大抵のことでは引っ張り出されることがない。
けれど、きっと今からやって来る『お客様』のために、応接室へと飾られるのだ。
なんだろう。
浮ついた屋敷の様子に、なにか……ひどく胸騒ぎがした。
(まさか……)
マリアはぶんぶんと首を振って、頭に浮かんだ不安を振りはらう。
昨日の夜会では、ルーヴェルトと一度だけダンスを踊ったあと、彼が知り合いに呼び出されることで解放された。
ホッとしたのも束の間、別れ際にルーヴェルトからは「では、また」と名残惜しそうに微笑まれ。
一人になったマリアは刺すような注目を浴びるなか、逃げるように夜会を後にしたのだった。
そして夜会からの帰り道、マリアは馬車の中で考えた。
ルーヴェルト王子は、夜会でお酒でも飲まれていたのだろう。
酔って、正気を無くして、酔い覚ましにバルコニーへ出たところで、丁度よく一人きりの令嬢が立っていて。彼は酩酊したまま、マリア相手にあのようなことを言い出したのだ。
きっと明日になれば、何もかも忘れている。
マリアは昨夜そう結論づけて、とにかく眠ることにした。そうでもしないと、夜会の混乱から抜け出せそうになかったから。
だってまさか王子ともあろうものが、自分のような地味人間と結婚なんて有り得ない。本気にして悩むだけ馬鹿馬鹿しいと思ったのだ。
けれど一夜明け、シルヴェストレ伯爵家の異様な様子に……その考えは外れていたのかもしれないと、自信が揺らぐ。
「マリア! やっと起きてきたのか!」
慌ただしい光景を呆然と眺めていたら、いつものんびりとしている父デメトリオが血相を変えてやって来た。これはもう、ただ事では無い。
「マッ……マリア……おま、おまえは……昨日一体……」
「お父様、どうか落ち着いて」
「おま、おまえは何も言ってなかったじゃないか……!」
こちらへめがけて走ってきたデメトリオは、なかなかの興奮状態である。マリアは思わず、父の背中を強めにさすった。おかげで少し落ち着いてくれたようである。
「これはどういうことだ」
「どういうことって、どういうことですか。私にも分かるように説明して下さい」
「結婚相手を見つけておいでと、夜会へお前を送り出しはした。だが、まさか王子を捕まえてくるとは思わないだろう!」
(ああ……)
マリアの胸騒ぎは的中した。
これから迎える『お客様』とは、おそらくルーヴェルトのことなのだ。
確かに昨夜、ルーヴェルトからは「では、また」と言われて別れた。
しかし彼は王子様だ。雲の上の人間だ。「では、また」と言われても、それは社交辞令のようなものであると考えるのが普通ではないか。まさかまた本当に会うつもりだなんて思いもしない。しかも昨日の今日で、展開が急すぎる。
「これから、ルーヴェルト殿下がいらっしゃるらしい。私とおまえに話があると」
「……そうなのですか」
「マリア、心当たりは」
「あるような、無いような」
「あるのか……」
マリアと父デメトリオの間に、しばしの沈黙が訪れる。
「とにかくマリア。すぐに殿下はいらっしゃる。至急、粗相のないよう支度をしてきなさい」
「は、はい」
マリアが急いで自室へと戻ると、そこにはすでにメイド二人が待ち構えていた。
鏡台にはいつの間にかメイク道具がずらりと並べられ、ドレッサーからは一番値の張るワンピースがピックアップされている。
「さあマリア様。早くこちらへ」
メイド二人はさっさとマリアを座らせると、驚くほど手際良く支度を始めた。
夜会があった昨日でさえ、こんなに気合いは入っていただろうか。鬼気迫るメイド達の様子に怯んだマリアは、ただただその気迫に身を任せたのだった。
「突然お邪魔して申し訳ない、シルヴェストレ伯爵」
「いえ、ようこそおいで下さいましたルーヴェルト殿下。歓迎いたします」
マリアが身支度を終えると同時に、シルヴェストレ伯爵家へルーヴェルトが到着した。
ギリギリだが支度が間に合ったことで、メイド達はホッと胸をなでおろし、父デメトリオは安堵の表情を浮かべ──
マリアはというと、輝かんばかりのルーヴェルトの姿を前にしてからというもの、さらに気が重くなっている。
王立図書館でいつも見かけるルーヴェルトは、今よりずっとラフな服装であったのに。
目の前に座る彼はというと、夜会の時ほど華やかな装いでは無いものの、きっちりと格式のあるマントを纏っている。その佇まいはやはり神々しい。
ルーヴェルトの服装から、改まった話をしに来ているのだろうということは容易に見て取れた。──父と、この自分に。
「そちらは見事な花瓶だな」
「さすがルーヴェルト殿下はお目が高い。こちらは名のある職人に造らせました特注品で──」
今はただ、デメトリオとルーヴェルトで何気ない世間話が交わされてはいるものの……いつ、その『改まった話』が切り出されるかと思うと、マリアは気が気ではなかった。
そのせいで、まったく話の内容が頭に入ってこない。
「──ところでシルヴェストレ伯爵」
根気よくデメトリオの花瓶自慢に付き合っていたルーヴェルトが、突然、話題を切り替えた。
とうとうきた。
思わず、ビクリと身体が硬直する。
それは隣に座るデメトリオも同じであるようで、彼の動きがぴたりと止まった。
「昨夜の夜会で、マリア嬢が結婚相手を探しているという話を伺った」
爽やかな笑みを崩さぬまま、ルーヴェルトは前のめりで話を切り出した。
「どうだろう。マリア嬢を、私の妻として迎え入れたいのだが」
和やかであった応接室に、緊張がはしる。
ルーヴェルトは、父デメトリオに向かって単刀直入に言い切った。
困った。
これではイエスかノー、どちらかの選択肢しか道は無い。
目だけでちらりと隣を見てみれば、微動だにしないデメトリオの額からは、たらりと一筋の冷や汗が流れ落ちた。
はたして、この状態の彼に返事ができるだろうか。
実質、返事はイエスしか無い気がした。穏健派であるデメトリオが、王族相手にノーを言えるとは思えない。
「──それは私どもにとって過分なほどのお話でございます。ありがたいお話ではございますが……」
「そうか。ではシルヴェストレ伯爵、この縁談を受けてくださるか」
「いえっ、それは、その……」
(お父様! 頑張って!)
父としても、分不相応なこの結婚には消極的であるのだろう。
ルーヴェルトの手前、顔に笑顔を貼り付けてはいるのだが、デメトリオの表情からは困惑した胸の内がにじみ出ている。王子直々の申し出を、どうすれば穏便に断ることができるだろうかと。
「マリアはこのように地味で世間知らずなところのある娘でして……ルーヴェルト殿下のお相手には不足かと」
「そんなことは無い。見目も心根も美しく、教養も持ち合わせた素晴らしい女性だ」
「それにうちはしがない伯爵家にございます。お立場を考えますと、少々釣り合わないかと……」
「シルヴェストレ伯爵家は由緒ある名家ではないか。そのように卑下することは無い」
遠回しな言葉では、何を返してもルーヴェルトには響かない。遠慮の皮を被った断り文句を、彼は笑顔で打ち返してくる。
「マリアがルーヴェルト殿下の妻など……お役目を全うできるかどうか」
「マリア嬢は私を支えてくれるだけで構わない」
こちら側の謝絶を華麗にスルーし続けるルーヴェルトが、今度はマリアへと向き直った。
「マリア嬢。君はどうだ」
「わ、私でございますか!」
「結婚相手が見つからないと言っていたが……私では駄目だろうか」
「いえっ、そんな……滅相もございません……!」
口からは咄嗟に、そんな言葉が突いて出た。
だって、王子から「駄目か」と聞かれて「駄目だ」なんて言えるだろうか。いや、言えるわけがない。
「本人もこう言っている。シルヴェストレ伯爵」
「マリア、おまえは大丈夫なのか?」
「あ……私は……」
気遣わしげに娘を見やる父デメトリオと、期待に満ちた表情のルーヴェルト。二人の視線に追い詰められ、マリアの思考能力は限界を迎えていた。
「……時間を!」
「時間?」
「お時間を下さいませんか。よく考えてからお返事をさせていただきたいのです」
マリアは失礼を承知の上、返事を先延ばしにしてしまった。
今、この場では断ることも受けることも無理というものだ。
「そうか」
「はい。せっかくのお話、申し訳ありませんが……」
「いや、いい。良い返事を期待している」
おそるおそるルーヴェルトを見てみれば、彼は依然として機嫌良さそうに微笑んでいる。
その瞳は期せずして優しく、まっすぐにマリアを見つめていた。