マリアの初恋
今日もシルヴェストレ伯爵家の庭では、所在無さげなペトロナがじっと佇んでいた。
彼女はぼんやりと空を見つめたまま、何か思い悩んでいるように見える。
(心配なのだけれど……私が行っても、何も話してくれないのよね。ニコラスに、相談したりはしないのかしら)
マリアは二階の自室から彼女の姿を眺めていた。
ペトロナを無理やり連れてきてしばらく経った。
フロレンティーノ男爵家ではあのような事があったものの、ここではペトロナにつらく当たるような人間はいない。痛々しかったペトロナのアザも薄くなり、ひとまず落ち着いた日々が続いている。
この屋敷にやって来てからのペトロナは口数も少なく、以前のように猫をかぶることも無くなった。ニコラスは大好きなペトロナがシルヴェストレ伯爵家にいることで、いくらか持ち直したようにも見える。
二人共まだまだ戸惑いはあるものの、少しづつ言葉を交わす姿も見られるようになってきて。
ペトロナを連れてきたことは間違っていなかった。マリアは、そう信じている。
あまりじろじろと見ていてもペトロナに悪いので、マリアは手元の本へと視線を戻した。今日手に取っているのは、何度も読んだ異国の物語だ。
シルヴェストレ伯爵家二階にあるマリアの自室には、本好きな彼女のために大きな書棚が備え付けられていた。
書棚にぎっしりと詰めこまれた本の数々は、幼い頃から月日をかけて選び抜かれたマリアのコレクション達だ。繰り返し読んでも面白いと思う本を、大切に並べてある。
最近のマリアはというと、図書館にも行かず自室に篭もる日々を送っていた。
書棚のコレクションの中から読み慣れた本を選んでは、物語の世界にふける。
頭に浮かぶ何かを振り払うかのように。
「……さん、姉さん」
頭上から声が聞こえると思ったら、心配げなニコラスがこちらを見下ろしていた。
「ニコラス。どうしたの」
「どうしたの、じゃないよ。さっきから何度も呼んでいるのに」
「えっ……そうだったの? 全然気が付かなかった」
マリアは一度本を読み始めると、その世界に入り込んでしまう癖があった。周りの音も気配もすべて遮断して、意識は物語へと集中してしまう。
図書館でもそのせいで、ルーヴェルトの視線にもまったく気付くことなく過ごしてきた。彼はずっと、マリアのことを見ていたらしいのに。
「俺は空気だ」なんて言って、落ち込んでいた彼を思い出して、マリアの頬は自然と緩む。普段はあんなにも堂々としていて凛々しい人が、自分の隣でうなだれていた姿は少し可愛らしく感じられて──
(ま、またルーヴェルト殿下のことを考えてしまっているじゃない……)
ペトロナのことがあるというのに、浮かれまくっている自分に顔が青ざめる。
どうしてもルーヴェルトのことを考えてしまうマリアは、諦めたように本を閉じた。
ここ数日は鬼気迫る勢いで本に目を通してきた。メイド達が話しかけるのをためらうほどに。
けれど、どんなに大好きな本を読んでも、彼のことは頭の片隅から消えてくれないのだ。
『お義姉さま、もしかしてルーヴェルト殿下のこと好きになった?』
ペトロナの言葉を思い出すだけで、動悸が激しくなる。
あの時、とっさに否定してしまったけれど。
恐ろしいことに思い当たることはいくつもあった。
ルーヴェルトを意識して、避けてしまうのも。
彼からの視線を恥ずかしく感じてしまうのも。
もう少し一緒にいたいと寂しく思うのも。
恋愛経験こそ無いけれど、これまで恋物語を数え切れないほど読み漁ってきたマリアは、すべて本の中で読んだ覚えがあった。
そして十中八九、ヒロインはこのあと自分の気持ちを自覚する。
(ああああ……!)
マリアは手に持つ本に、勢いよく額を打ち付けた。
「ね、姉さん……!?」
ニコラスが姉の奇行に引いている。けれどあいにく彼に気遣う余裕などはない。
いつのまにかルーヴェルトのことを好きになっていたなんて。
そのうえ、彼もマリアの気持ちに気づいていたようなフシがある。
『……あれほど恋物語を読んでいるというのに、自分の気持ちとなると分からないのか』
ルーヴェルトの呆れたような、それでいてあたたかい眼差しを思い出す。
独り言のごとく呟いていた彼の言葉を、あの時は理解出来ないでいた。しかし今なら良くわかる。マリアの矛盾ある不自然な言動は、すべて恋心から成るもので、ルーヴェルトもそれにピンときたのだろう。
「恥ずかしい!!」
恥ずかしさのあまり、爆発して消えてしまいたい。
ふたたび衝動的に取り乱しそうになったマリアの手から、ふいに本が消えた。
「姉さん、どうしちゃったの?」
「ニ、ニコラス……本は」
「大事な本なんでしょ? 駄目だよ」
手の中から本を取り上げたニコラスから、代わりに温かいお茶を手渡される。手に伝わるカップのぬくもりに、いくらか落ち着きを取り戻すことができた。
「……ありがとう、ニコラス」
「姉さん。このところ、部屋に篭もりきりでしょ。気分転換に図書館でも行ってきたら」
「で、でも、ペトロナが心配だし……」
「ペトロナなら大丈夫だよ。みんないるし……僕だっているから」
(だって、図書館には……)
「なにか、行きたくない理由でもあるの?」
「今はうちにいたい気分なの……」
「なんで? 図書館にはルーヴェルト殿下がいるから?」
ニコラスが直球で来たものだから、言葉に詰まる。
当てられた。ルーヴェルトがいるかもしれないから行きたくない。その通りなのである。
マリアは仕方なく、赤い顔のまま頷いた。
図書館へ行きたいのは山々だが、もしそこにルーヴェルトがいたらどうする。
恋を自覚してからというもの、自制が利かない自覚はあって。
もし会って、微笑まれてしまったらどうする? 彼のことを今よりもっと好きになってしまったら? そして恐れ多くも、彼と結婚したくなってしまったら────
考えるだけで、頭が破裂しそうになるのだ。
頭を抱えながら俯くマリアを見て、ニコラスは心配げな表情を浮かべている。
(ごめんねニコラス……こんな姉で)
心配をかけているのは弟ニコラスだけでは無い。親や使用人達、そしてきっとルーヴェルトにも。
遅い初恋に翻弄されて周りに心配をかけながらも、ここから踏み出す勇気が出ない。
マリアは、ルーヴェルトに会わない口実を探し続けた。それが卑怯だと知りながら。