私を救ってくれた人
ペトロナ視点のお話です。
シルヴェストレ伯爵家のダイニングルームで、ペトロナは晩餐の席についていた。
どこか気まずさのある晩餐はシンと静かで、皆が黙々と食事をとる。そんな慣れない席の中、ペトロナも琥珀色のスープをひと口すくった。
(おいしい……)
真っ白なテーブルクロスに並ぶのは、焼きたての肉料理に野菜のグリル、ふかふかのパン、熱々のスープ……どれも出来たてのご馳走である。すべて食べてしまうのが勿体ないくらいの。
ここでは、フロレンティーノ男爵家のように冷めたシチューや固くなったパンなどが出されることは無い。シルヴェストレの人間ではないペトロナにもまったく同じ食事を提供してくれる。
贅沢な料理を当たり前のように口に運ぶシルヴェストレ伯爵家の面々を見ていると、つい距離を感じてしまって。ペトロナの口数はどんどん少なくなっていった。
(まただわ。またあの人、ぼーっとしてる)
ニコラスの姉、マリアは手にスプーンを持ったまま、スープをすくうことも無く、じっとスープの水面を見つめている。
食事中にも関わらず考え事をしているようで、その瞳は答えの見つからぬまま閉じられた。
ペトロナがシルヴェストレ伯爵家で居候を始めて、数日が経ったが、彼女はこの間からずっとこうだ。
心ここに在らずといったマリアは、しょっちゅうボンヤリと佇んでいた。歩けば壁にぶつかるし、物を持てばすぐ落とすし、食事の手はこうして止まる。
その度にニコラスが「姉さん?」と気を引いて、彼女の意識を呼び戻す、ということを繰り返していた。
(……馬鹿みたい)
ペトロナは、マリアのことが嫌いだ。
出会った瞬間から嫌いだった。
目の前から消えて欲しいと──シルヴェストレ伯爵家から追い出してやろうと思った。
澄ました彼女が、みじめに思う形で。
それは半年前。
マリアと初めて会った日のことは忘れない。
恋人ニコラスに連れてこられたシルヴェストレ伯爵家は、それはそれは見事だった。
庭は綺麗に刈り込まれて季節の花々が咲きほこり、大きな屋敷は調度品も一流で、教育された使用人達により掃除も行き届いている。
通された応接室も天井が高く、窓からは手入れの行き届いた庭が見える素敵な部屋だ。
フロレンティーノ男爵家とはまるで違った。
庭や屋敷だけでは無い。出てくるお茶や、流れている時間さえ違っていて。ゆったりと心を落ち着かせるような、そんな空気が漂っていた。
そもそも、住んでいる人間が違うのだ。
ここにはあの父親──酒に酔って暴れる、だらしのない男がいない。
早く、早く。
早くあの家から逃げ出したい。
ペトロナはその一心で、もう何度も手当り次第、男と関係を持っていた。
誰だって良かったのだ。あの父親の元から救い出してくれる人なら、どんな男だって構わない。
幸いにもペトロナは見目が良い。身綺麗にしてニコニコしていれば、男は面白いように言い寄ってきた。
だから結婚して家を出ることなんて、楽勝だと思った。最初のうちは。
しかし関係を持つ男達は皆、遊ぶだけ遊んだあとペトロナを捨てた。落ちぶれた男爵家の令嬢なんて、結婚対象にはならないのだろう。 皆ペトロナで遊びつつ、良家のご令嬢と婚約しては去ってゆく。
身を削って得たものは、惨めさと、絶望だ。
そんな時、ペトロナの前に現れたのがニコラス・シルヴェストレだった。
あまり目立たないけど温厚でやさしい同級生。それがニコラスのイメージであった。
特に見目が良いわけでもなく、ペトロナと親しかったわけでもない。けれど彼はずっと自分のことを想ってくれていて、卒業を機に告白したとの事だった。
ペトロナは、すぐさま彼にしがみついた。
やさしい性格。にじみ出る真面目さ。なによりペトロナだけを愛してくれそうな安心感。
清潔感のある服装からは、きちんとした生活を送っているのであろうということが見て取れる。それもそのはず、彼はシルヴェストレ伯爵家の跡取りだ。それはそれは大事に育てられてきたのだろう。
そんなニコラスの妻となれば。
自分も同じように、大事にされるのではないか。彼のように穏やかな生活を送れるのではないか。
そんな期待をしてしまったのだ。
しかし出会ってしまった。ニコラスの姉──『良家のご令嬢』マリア・シルヴェストレに。
ニコラスと同じ亜麻色の髪をした、線の細い女性。飾り気のないシンプルなブラウスとフレアスカートに、化粧しなくとも美しい顔。名はマリア。つけられた名前まで美しい。
自然体、というのはこういう人のことをいうのであろうか。精一杯飾り付けられたペトロナとは正反対の人──彼女は、仕草も笑顔も、なにもかもが自分とは違っていた。
内側からにじみ出るような育ちの良さ。何もしなくても幸せが約束されたような彼女。
こういう人が、『良家のご令嬢』として男達に選ばれてゆくのだろう。
ペトロナが必死で掴み取ろうとしている平穏を、彼女は生まれながらにして持っている。そしてそれを当たり前かのように享受しており、さらには結婚などせずここで穏やかな暮らしを続けようと考えている姿は傲慢に見えた。
マリアが目の前にいるだけでイライラした。
ニコラスと結婚しても、こんな人がずっと屋敷に居続けるなんて──
『私、マリアお義姉さまと上手くやっていけるかしら……』
ニコラスへ弱音を吐いたのも、ただただマリアのことを気に入らなかったからだった。
縁談ひとつ無いマリアが、相手に困って悩めば良い。女遊びの激しい男に嫁いで、苦しむのも良い。上手くいかない結婚に、泣けばいい。
苦労したことのない彼女に、どうにか苦しみを味わってもらおう。そんな出来心からだった。
自分のように取るに足らない人間の嫌がらせなど無視すれば良いものを、マリアは本当に婚活を始めた。大事な弟、ニコラスが望む結婚のために。
そして彼女はルーヴェルト王子と出会い、すんなりと求婚された。ペトロナがそのことを知ったのはガーデンパーティーの時だ。
本当に嫌な女だ。苦労もせず、王子さえ簡単に手に入れてゆく。
マリアを見ていると、必死で生きているのが馬鹿馬鹿しく思えてきて。ニコラスも何もかも、もうどうでもいいと、ペトロナはすべてを投げ出した。
けれど結局はマリアに連れられて、こうしてシルヴェストレ伯爵家の世話になっている────
(──ほんと、馬鹿みたい)
嫉妬と、嫌悪と、羨望と。
マリアと向かい合うたびに、惨めになる黒い気持ちがペトロナの胸を襲う。
彼女のことなど大嫌いなはずなのに。
その姿にイライラするのは、今だってそうなのに。
あのクズな父親から救ってくれたのは、ニコラスでも他の男達でも無く、大嫌いなマリア。ただ一人だけだった。