バルコニーに現れたその人は
がちがちに緊張しているマリアの頬を、生ぬるい夜風が撫でてゆく。
伯爵令嬢マリア・シルヴェストレは、グラシア城のバルコニーで、薄明かりの中ひとり佇んでいた。
(声をかけられたら笑顔、笑顔……)
緊張をほぐすように、先ほどから何度も何度も、自分へ笑顔を言い聞かせている。しかしそんな意気込みとは裏腹に、固い顔はさらに強ばっていってしまうのだけれど。
出会いを求めて、久しぶりに出席した夜会。
今宵の衣装は、肩が大きくあいたワインレッドのドレスを選んだ。
そのデコルテは大ぶりのネックレスで彩られ、淡い亜麻色の髪は華やかに編み上げられ……彼女の白いうなじは惜しみなく晒されている。
それは二十歳の彼女なりに精一杯、全力を尽くした装いだった。
マリアは、夜会のように華やかな場所が苦手だ。露出のある大胆なドレスにも慣れてはいない。
本来目立つことが好きではなくて、普段なら落ち着いた色味のワンピースやブラウスを好んで選ぶほど、地味な娘であったから。
しかし今夜ばかりは目的のために、多少……いや、とても、無理をしている。
周りを見渡すと男女寄り添いあう姿が何組か見えて。薄暗くても、彼らが良い雰囲気であることは容易に分かる。
そのような雰囲気のなかで、ひとりポツンと立ち続けるというのは、なんとも心細いものだった。
(私からも、どなたかへお声がけしたほうがいいのかしら……)
ここは夜会中のバルコニー。男女が出会う場として知られている。
しかしこのまま置物のように立ち続けていたとしても、自分が声をかけられるなんて思えない。精いっぱい着飾ったとはいえ、飛び抜けて美しいわけでもないのだし。
夜会にも滅多に顔を見せないものだから、とりたてて話をする人もおらず、もちろん『誰かいい人』を紹介してくれるような人脈も無い。いわば飛び入り参加に近いようなもの。
マリアはスタート時点で、出会いから程遠いところにいるのだ。
心細さはどんどん膨らんで、マリアの足はバルコニーの隅へ隅へと逃げてゆく。周りはさらに暗がりで、ホールの明かりもほとんど届かない。
こんな目立たない場所にいては、声をかけられることなど無いと分かってはいるけれど。
(やっぱり私には無理だわ……誰かをつかまえてくる、だなんて)
マリアが今夜の目的を諦めかけて、帰りたい気持ちと共に踵を返すと。
思いがけず、すぐそばにスラリと背の高い人影が立っている。
「君、まさかマリア・シルヴェストレか……?」
なんと、男性から話しかけられた。出会いの場として名を馳せる、このバルコニーで。
マリアの目的はひとまず達成された。あとは、この男性になんとか興味を持ってもらわなければ。
暗闇と逆光のせいで肝心の顔が見えず、どのような方なのかよく分からないのだが……どうやら向こうの男性は、マリアのことを知っているらしい。
「はい。私のことをご存知で?」
「知っているもなにも……なぜ君がこんな所に? いくら真面目な君でも知ってるだろう、ここは女漁りに来た男共の巣窟だ。さあ、早くホールへ戻るんだ」
彼の声色はどこか焦っているようだった。マリアはその細い手首をグイと握られ、足早にホールの方向へと手を引かれる。
マリアはがっかりした。声をかけられはしたけれど、目の前の人は自分を望んでいるわけではないらしい。
「待ってください、それでは私、今日ここへ来た意味がありません」
「来た意味? 君の目的とは一体何だ?」
「ええと……結婚相手を探しに……」
ぐいぐいと手を引かれて、やがてホールが近付いて。煌びやかな明かりの漏れる場所まで差し掛かった時……マリアは手を引く人の後ろ姿に、ふと違和感を持った。
この方、やけに髪が明るくないだろうか?
このグラシア王国で、このように輝く金は王族のみが持つ髪色だ。それに金糸の刺繍が入った純白のマントは、グラシア王家が好んで身につけるもの。ゆえに、その辺の貴族が白マントを着るなんてことはあってはならない。暗黙の了解というものである。
なら……白のマントを靡かせる、この方は──
マリアが抱いた違和感は、急速に嫌な予感へと変わってゆく。
「……君が、結婚相手を探している?」
「ル、ルーヴェルト殿下!」
急にぴたりと歩みを止め、こちらを振り向いたその人に……マリアは目を疑った。
彼女の手を引いていたのは、ルーヴェルト・グラシア。この国の第二王子であり、マリアの通う王立図書館の常連であった。とはいっても、とくに面識は無いはずなのだが。
面識は無くとも、一方的にルーヴェルトの事は知っていた。
彼はマリアよりひとつ上の二十一歳で、とても勤勉で、本が好きで。窓辺で本を開き、文字を追うルーヴェルトの姿は、絵画のように美しいと評判だった。
ルーヴェルトが図書館へと訪れた日には、誰が彼の窓口になるか争奪戦が行われるほどで。マリアはその光景を遠巻きに眺めていたのだが……
まさか彼から自分のことを認知されていただなんて。
「私の名前をご存知だったのですか」
「当たり前だ、君とはいつも図書館で会っている」
「ありがとうございます……?」
会うといっても、ルーヴェルトが前に差し掛かれば頭を下げて会釈をする、ただそれだけであったのだが。名を名乗るほどのことはないはずだ。
「それよりも……結婚相手を探している? 結婚願望の無かった君が?」
「なぜルーヴェルト殿下がそのことをご存知で……?!」
「有名な話だ。シルヴェストレ伯爵家のマリア嬢は生涯独身を貫くつもりなのだと」
「有名な話なのですか!」
マリアはくらりと目眩がした。まさか自分の結婚観が、王族へ伝わるほど広まってしまっているなんて。
しかもマリアにはそのことを否定できない。結婚願望については、ルーヴェルトの言うとおりであったのだ。
「君にこの歳まで婚約話も出ないのは、そのせいではないのか」
「そうです。そうなのですが……」
それは子供の頃だった。
『本ばっかり読んで変なやつ。そんな結婚、出来っこないのに』
大好きなおとぎ話を読んでいたら、誰かに言われた言葉だ。
恋物語やおとぎ話ばかり読んでいた幼いマリアの胸に、その言葉はグサリと刺さった。
そして単純に思ったのだ。
『なら、私は結婚なんてしなくてかまわない』と。
幸いにも、結婚したいと思うほど惹かれる男性にこの歳まで出会うことはなかったし、正直おひとり様生活はとても気が楽だった。図書館通いの日々はゆったりと流れ、自由な時間はすべて大好きな本に費やすことができる。
許されるならば独身のまま生涯を全うしたいと願った。それを公言したりもした。
するとやがて縁談もぱったり来なくなり、自他ともに認める『結婚願望皆無の伯爵令嬢マリア・シルヴェストレ』が出来上がったのである。
「なぜ突然、結婚相手を探し始めた?」
「残念ながら、結婚したくない……とも言っていられなくなりましたので」
「というと?」
ルーヴェルトの追求は終わらない。
(もうそろそろ解放して……)
──なぜ、こんなことになってしまったのだろう。
今夜は出会いを求め、夜会中のバルコニーへ来たはずなのに。出会いどころか王子から手首を握られたまま、なぜか尋問されてしまっている。
ルーヴェルトが人目も気にせずじっと見下ろすので、マリアは困ってしまった。
バルコニーに人は少ないと言えど、ふたりの他に誰もいないわけでは無い。すれ違う者達が、マリア達をチラチラと横目で伺って行くのが分かる。こんなところを目撃されて、誤解されてはたまらない。
「シルヴェストレ家の事情がございまして……結婚しなければならなくなったのです、私は」
「結婚しなければならないが、目ぼしい相手が見つからない、と」
「……はい。お恥ずかしい話ですが、その通りです」
こんな場所でこんな話など早く切り上げてしまいたくて、マリアは急ぎ足で会話を終わらせようとした。
しかしなぜか繋がれた手が離されることは無く、むしろその手に力が込められている気さえする。
「それではマリア。俺と結婚すればいい」
頭上から降ってきた言葉に、マリアは一瞬息が止まった。
「ルーヴェルト殿下……今、なんと?」
「俺が君の結婚相手になろうと、そう言っている」
「何を仰るのです。ご冗談を……」
「冗談では無い」
ぽかんとルーヴェルトを見上げてみても、たしかに彼が冗談を言っているとは思えなかった。
彼は真顔だ。それとも真顔で冗談を言う人種なのだろうか。
「君はここへ、結婚相手を探しに来たのだろう?」
「は、はい。そうですが」
「そして俺と出会った。良かったな、結婚相手が見つかったじゃないか」
それがさも名案かのように笑みを浮かべると、ルーヴェルトは流れるようにさり気なく、マリアの指先へキスを落とす。
(良かった……???)
マリアは、抵抗も抗議もできなかった。想定外すぎる展開に、まったく頭がついていけていないのだ。
「結婚相手……ルーヴェルト殿下が?」
「そうだ」
「私の?」
「そうだ。さあ、ホールに戻ろう。皆に君を紹介する」
固まったまま思考が停止したマリアは、ご機嫌なルーヴェルトにそのまま手を引かれてゆく。
連れて行かれるがままホールに入った途端、視線は手を繋ぐ二人へと一気に集中してしまった。
女性の影など全くなかったルーヴェルトが、令嬢の手を引いて登場した。突然のことにざわつく会場は混乱を極めている。
かく言うマリア当人も、混乱の真っ只中にいた。平然としているのはルーヴェルトただ一人だけ。
混乱を鎮めるように、ホールには緩やかな音楽が流れ出す。
きらびやかなシャンデリア、見上げれば美しいルーヴェルト。
マリアはあまりにも眩しすぎる空間に倒れそうになる身を、ギリギリのところで耐え続けたのだった。