1-3 向こうの世界
1日前、向こうの世界
クロームは焦っていた。 こちらの世界へきてもう10日目である。 人族が多く通る道の傍らにたつ巨大な四角い石造りの建物の平たい屋根の角にすわり、右手の手のひら(というか肉球)にのった黒い石の反応を見つめていた。 右手にはレムの力を絶縁する特殊な布で作られた手袋をはめていた。 建物の下には、様々な服を着た多数の男女が、まるで何かに追われているかと思うようにせわしなく行き交っていた。
(本当にここの人族たちは幸せなのだろうか。 それとも誰かに奴隷のように使役されているのだろうか。 いずれにしても不思議なものばかりだ。 以前来たときとも大分違っているような気がする)
人々は建物の中に次々に吸い込まれていった。その建物には次々と巨大な細長い箱状の車が蛇のように身をくねらせながら入ってきて、胴から大量の人を吐き出したかと思うと、同じように今度は人を飲み込み、また身をくねらせながら、ものすごい勢いで遠ざかって行った。 これだけ大量の人がいるのだから、石に反応する人がいてもいいはずである。 直接触れるのが本当は良いのだが、触れなくても強い力を持つ者が近づけば、それなりに反応するはずである。 もう時間がない。 クロームは思った。 今夜はこちらの月の満月にあたる日である。 戻るには一番よいタイミングだ。 これを逃すと、過ぎるほど帰還地点の精度がさがる。 戻った時に、どこに飛ばされるか分からない、まだ大陸のどこかなら良いが、海のど真ん中だったら、命を失うかもしれない。
「場所を変えよう」そうつぶやくと、立ち上がり、浮空術により体を空中に浮かせると、街の真ん中に向かってゆっくり飛行していった。 服にもレムの秘術をかけてある、下から見上げても人には見えないはずである。 しばらく飛行すると、左前方に広く開けた場所が見える。 そこでは人々が走り回っているのが見えた。 なんとなく興味が引かれそちらの方に方向を変えると近づいていった。 上空に達すると、しばらくその様子を観察していた。 若い男の人族が十数人で、人の頭ほどの玉を蹴りながら追い回している。
(これは何をしているのだ。遊んでいるのか)と思いながら見ていると、広場の傍らの建物から鐘の音が聞こえてきた。 すると若い人族たちは、玉を追い回すことを止め、建物の方へ歩き始めた。 その時だ、右手に持った石の赤黒い鈍い光が、強い赤に変わり始めた。
「なんだと」驚いた拍子にクロームは石を落としてしまった。 慌てて拾おうとして、地面に降下していった時、歩いてきた男が石に気がついた。
「なんだこれ」男は石を拾い上げた。
「どうした、上代」と後ろから声がかかった。 とその時、石はまぶしいくらいの赤い光を放った。
(見つけた)クロームは歓喜した、と同時に男の手のひらから石を素早くかすめ取った。
「あれ、今拾った石が消えた。 今、赤く光ったのを見ただろ、九十九」
「 ああ、おまえの手のひらから赤い光が出たのは見たぞ。 どういう手品だ?」
(この場で連れ去るのは、今はまずい。 かといって見失うわけにはいかない)
「ハート、聞こえるか」クロームは言葉には出さず、頭に意識を集中し強く念じた。
「へい、何ですか」頭のなかに返事が返ってきた。と同時に頭の毛の中で、もぞもぞ動く感じがした。
「今が、宿主に対して常日頃の恩を返す時だ。 目の前の人族の男にとりつき、指示があるまで離れるな」念じながら命令した。
「へい、ようがす。旦那」と同時にクロームの黒い毛の中から、微小なものが飛び出し、足下の周りをなにか探している男の頭にとりついた。それは茶色の蚤であった。
やがて男たちは諦めたようすで、建物の中に入って行った。 クロームは、建物の屋根まで飛び、平たい屋根の上に降り立った。
(見つけたぞ。これで約束を果たせる、しかも今日もし連れて行くことができればなお良い。 さてどうしたものか)とあれこれ考えていたが、意外に早く好機は訪れた。
「旦那、男は屋根の方へ上がっていきますぜ」蚤からの念が届いたのは、1時間ほど経った頃だった。 しばらくすると、屋根に数人の男女が、屋根に通じる小屋の戸口から出てきた。 目的の男は、小屋の脇の日陰になったいすに座ると、本を読み出した。 そのそばには一人の男が、日陰の床に寝ていた。 ほかには少し離れた柵に寄りかかるようにして、遠くの景色を見ている者が2人ほどいた。
(今が好機だ。 男が立ち上がり降りて行こうと戸口へ向いた時に引き込もう)
クロームは精神を集中し、異空間への扉を開ける準備にかかった。
しばらく後、男は左手首につけた腕輪をみると、本を閉じて立ち上がった。 そして戸口へと向かいながら、寝ている男に声をかけた。
「おい、九十九起きろ。午後の授業に遅れるぞ」
(今だ)クロームは呪文を唱え、男のすぐ後ろの空間に扉を開けた。 それは、人の身長ほどの丸い穴で中から白い光が漏れていた。 クロームはその輪の中に入ると、杖の鈎のような形の部分を男の襟に引っかけ、思い切り光の中に引き込んだ。
(うまくいった)と思った瞬間、男の右手をつかむもう一本の手が見えた。
(何、もう一人いる)思った時にはもう遅いことに気づいた。 もう扉は閉まっている。 後は出口へ向かうしかない。
(なんてことだ)唇をかみながら出口へと向かった。
「旦那、シローネ様に怒られますぜ」 いつの間にか戻っていた蚤のハートの言葉が頭に響いた。
「うるさい」