1-10 旅立ち
約三時間後、ジュリアンとエレインは戻ってきた。 背中の両脇にかごをぶら下げたロバを引いていた。 ジュリアンは俺と上代に薄茶色の厚手の綿の上着と黒の外套を渡した。
「今は初夏で暖かいですが、今後山越えが控えています。寒くなるので必要になります」俺たちはずっと、こちらに来たときのまま、白の半袖シャツと濃紺のズボンにスニーカーという姿だったのだ。 そのため朝方は肌寒さに少し震えていた。
俺は、間近でロバを見たことがないので、おそるおそる首をなでてみた。 ロバは臭い息をはきながら人なつっこく顔を近づけると、俺の顔をぺろりとなめた。 それを見たエレインが俺に言った。
「良かったな、好かれたようだぞ。 どうもあたしの言うことは聞こうとしないのさ。 そいつの世話はカケルに任せる」
「えっ」俺がロバの顔を見ると、「アーーーー」とも「ヒーーーー」とも聞こえるような奇妙な声で鳴いた。
「それでは、日が暮れないうちに、もう少し進んでおきましょう。 賢者様、ロバにお乗りになられると良いですよ」
「いや、私はこちらの方が良い」と言ったかと思うと、素早く俺の肩に乗った。
「えっ、なぜ?」
「私の体格だと、ロバや馬の背中では安定して乗っていられないんだ」
「モテモテだな」エレインが腹を押さえながら笑っていた。 俺は一人でブツブツ言いながらも、仕方なくロバの引き綱を引きながら歩き始めた。
我々は川を渡り、その後には低木が列状に植えられている一帯が広がっていた。 何の木かは分からなかったが、果樹園だと思われた。
「ところでエレインさん、このロバに名前はあるんですか」俺は前を歩いていたエレインにたずねた。
「知らないぞ」振り向くと答えた。
「じゃあ、俺がお前に名前を付けてやろう」ロバに向って語りかけた。 少し考えてから、急に思いついた「ロシナンテだ」
「えっ、ドン・キホーテなんて読んだことがあるのか?」ロバをはさんで反対側を歩いていた上代が反応した。
「なんだそれ、マンガの悪役のことか?」
「そうじゃない。スペインの昔の物語だ。 騎士にあこがれた男が、自分は騎士だと思い込み、ロシナンテというやせ馬に乗って冒険の旅に出るという話だ」
「へえ、じゃあお前がドン・キホーテか。 お前はこの世界で騎士になって冒険して、英雄になりたいんだろ」
「うーん、それは悪く無いかもな。なにせ向こうの生活は退屈でしょうがなかったからな。 こちらの方が僕には合っているかもしれない。でもドン・キホーテはカンベンして欲しいな。 僕がドン・キホーテなら、お前はその従者のサンチョ・パンサと言うことになるな」
「だれがお前の従者になんかなるか。 俺は帰るんだ。 黒ニャン俺を元の世界に帰してくれ」
「残念だが、それはできない。 向こうの世界に渡るには、大量のレムを消費する。 片道分だけでも回復するまでに半年はかかる。 それに危険も伴うのだ、同じ場所、同じ時に帰れる確証はない。 だからこちらに来た時に、あんなところに出るとは思わなかったのだ」
「はあーーー」俺は深いため息をつくしかなかった。
2時間ほど歩いた後、広い草原に出た。 水が透き通った小川が近くを流れていて、夕暮れには少し早いが、ジュリアンが今日はここで野宿しようと言い出した。
「今日は火を焚くことができる。 料理を作るからホーリーは鍋に水を汲んでくる。ユウキとエレインはたきぎを集めて。 カケルはロバに水を飲ませて、えさを食わせてくれ」
「えさって、何を食わせれば良いの?」
「柔らかそうな草のところへ連れていけば、勝手に食べるだろう」
俺はロシナンテの背から、荷物のかごを下ろすと、手綱を引いて小川まで連れていった。 その後、ロシナンテが草をうまそうに食べている姿をしばらく眺めながら背中をかいてやった。
ロバに草を食わせて、みんなのところへ戻って見ると、ジュリアンは鍋に一口サイズに切った肉を入れていた。 鍋の中にはジャガイモやニンジンなどが入っていた。 ホーリーは近くの木に寄りかかるように腰をおろして、剣の刃を砥石で研いでいた。 エレインはみんなから少し離れたところで、剣の素振りをしていた。 俺はロシナンテを近くの木の枝に繋ぐと、クロームと上代が火の近くに座って話しているそばに座った。
「クロームさん、レムの能力ってどうやって調べるのですか」上代がたずねた。
「そうだな、今ある物で調べるとすると、ジュリアン、鍋のフタと椀をかしてくれ」鍋のふたを前の地面に置くと、その上に水を入れた椀と短く折った木の枝、小石、薄汚れた銅貨を丸く並べた。
「両方の手のひらをこのフタの上にかざすように向けて、意識を集中するんだ。分かりやすくするために、動けと念ずるのも良いだろう。 適正があれば、その属性に対応するものに何らかの反応がでる。」上代が腕をフタに伸ばし意識を集中させていると、椀の水に波紋が起こり始めた。その他にその隣にあった小石がカタカタと動きだした。
「おお、どうやら水と土の属性に適正があるようだな。ほとんどの人は、一つの適正しかない。 二つの適正を持つ者はまれだ」
「本当ですか」上代はうれしそうに言った。
「これを使えるようにするには、どうすれば良いのですか」
「優れた指導者の下で修行しなければならない。個人差もあるが、実用的なレベルになるには、たいてい3年はかかる」
「3年ですか」少し落胆したようだった。
「呪文は唱えるのですか」俺がたずねた。
「唱える人と唱えない人がいる。と言うよりも私は呪文が必須だとは考えていない。 一般的には、レムの力を発動するにはその属性を司る精霊と契約しなければいけないと考えられている。 呪文はその契約の宣言であり、証であると。 しかし同じ事象の力の発現であっても、国によって、また種族によってもその呪文の言葉は違うし内容も微妙に違っている。 もし厳格に呪文を守らなければいけないとしたら、間違った呪文では発動しないはずだ。 しかもたいていの呪文は、古代語で書かれていて、おおかたの人々はその意味をほとんど理解せずに使っている」
「つまり、呪文はほかの理由で、方便として使われていると言うことですね」と上代言った。
「その通り。 レムの力を発現させるということは、体に取り込んだレムを自分の意識可において集約し、イメージした形で瞬間的に具現化させるということだ。 この具体的なイメージを作ると言うことが、とても難しい。 この方法を自らの力だけで修得しようとすれば、永年厳しい修行をした修験者でもないかぎり無理だ。 そこで先人たちは、初心者に教えるにあたり、呪文を唱えることによって、その力が発現させることができると信じ込ませた。 それによって、呪文を唱えながら意識を集中させることができ、体内のレムを集約する時間をかせぎ、発動のきっかけを作ることができるのだ」
「なるほど、それであれば呪文は何でも良いと言うことでしょうか」
「理屈はそうなる、ただし唱える本人はそれによって必ずできると信じ込んでいる必要があるがな。 それ故、上級者になればなるほど、呪文の詠唱は必要としなくなる。 ただし、それは比較的単純な法術について言えることだ。 高位の法術についてはそうはいかない。 一見矛盾していると思うかもしれないがな」
「つまりそれは、高位の法術はいくつかのレムの力を組み合わせ、いくつかの段階を踏まなければ実現出来ないため、その過程を確実にこなすために呪文が使われているということですね」
「そのとおり。 これだけ理解が早いとこちらも話していて楽しい」
上代は、もう一度鍋のフタの上の椀に向けて両手をかざすと意識を集中させた。 しばらくすると、椀の水面に波紋が広がってきたかと思うと、突然水が椀から吹きだした。 フタの上が水で濡れてしまい、椀の中には底の方に少しの水しかなくなっていた。
「なんと、才能のあるレム使いには、若くしてどんどん修得していく者がいるが、今話を聞いたばかりで、しかも呪文も知らず無詠唱でやってのけるとは・・・。 さすが、ラーベンス王が探し求めていた人物ということか」
「俺にも出来るかな」椀に水を入れると、同じように両手をかざして意識を集中してみた。 しばらく口をへの字に歪めながら、思い切り念じてみたが、しかし何も起こらなかった。
「カケルはどうやら適正はないようだな。 まあ落ち込まなくても良い。 使えない人間の方が多いのだから」
「がっかりだ。 もう帰りたいよ」
「そうがっかりするな。 お前にはロバ扱いの才能がある。 レーギアに行ったら、まあ下僕くらいなら使ってくれるだろう。 とにかく飯が出来たようだから飯にしよう」エレインが呼びに来て、俺に言った。
食事はうまかった。 鍋は塩とコショウとハーブの味付けだったが、久しぶりに暖かい食事をとれた事が、すごくうれしかった。