#2 言えない言葉
──どうして。
巧まずして出た言葉が、キミの耳に届いてしまったらしい。
「うん? なあに?」
「あ、いや。どうして噴水が見たかったのかなって」
東京駅から三〇分以上かかるこの公園は、ふらっと立ち寄るには距離が遠くて不便過ぎる。土筆野原噴水公園は、土筆野駅から徒歩一〇分歩いた場所にあった。一〇分以上歩いてから、更に、広い敷地を歩かせるとは。普段の運動不足が骨身に沁みる。
公園の隅に流れる川の土手に、大量の土筆が芽吹くことから、『土筆野原』の名前が付いたらしい。電車の中で、キミから訊いた情報だが、いまの季節、土筆を見ることは叶わない。
観光スポットとしては、少々地味な部類だろう。
土に筆と書いて〈つくし〉と読む。洒落がきいて、素敵な当て字だ。
公園の至る所に『つくしを取らないで下さい』と注意書きが書いてある。理由は単純で、土筆を食材として訪れる者たちを拒むためだ。土筆野原噴水公園なのに、土筆がなくなれば、ただの『野原噴水公園』になってしまう。景観が損なわれてしまえば人気も低迷して、周辺にある飲食店の売り上げにも影響し兼ねない。だからこそ、『つくしを取らないで下さい』なのだ。公園付近に個人経営の天ぷら屋があったけれど、まあ、憶測で語るのはやめておこう。
「アキラくん、噴水は嫌い?」
「いや、嫌いじゃないよ」
好きでも嫌いでもないが、冬の季節に訪れるべき場所ではないとも思う。デートコースを考えるのは、本来、私の役目だけど、こういうことには疎くて、酷く無能だ。デートと言えば、映画館、遊園地などのテーマパークと相場が決まっているのに、キミはそれを良しとしないものだから、思案に暮れる日々の連続だ。最近では、私の無能っぷりを楽しんでさえいるようにも見えた。
「だよね。昨日だって、噴水させてたし」
まあ、大洪水だったけれど……。
落ち葉を蹴っ飛ばしながら歩くキミは、どんな表情で昨夜の情事を語っているんだろうか。
「公共の場で、そういう話はやめない?」
「えー? いいじゃん。周りはカップルだらけだし」
だからこそ、ここに来たいと思えなかったんだ。
私とキミの関係は、法に触れる。表立った行動は、控えるべきだが、キミはいつだって私を外の世界に連れ出して、知らない景色を見せてくれる。私は、そのスリルさえも楽しむようになってしまったのか、それとも、可愛らしいキミのことを、世間に自慢したいのか。どちらだろうか? おそらく、どちらも正解だ。
灰色の煉瓦を編むように敷かれた地面の所々に、黒い丸があった。
だれかが吐き捨てたガムに汚れが付着して、長年放置され続けてできた黒点は、煉瓦と一体化して取れそうにない。巷で話題のデートスポットと言えど、人が集まれば穢れが生じる。
キミだけは、穢れてしまわないように。
思う反面、キミを穢してしまったのは私だ。
この罪は、重い──。
「ね、あのベンチ空いてる」
指の方向を見やると、噴水を囲うように、木製のベンチが等間隔で並んでいた。ベンチを縁取る鉄製の黒枠は、劣化した木材で怪我をしないようにデザインされた物だろう。そこら辺にあるような、見慣れたフォルムだ。キミが指定したのは、右奥にあるベンチ。さっきまで、大学生風の男女が楽しそうに談笑していた。
「サンドイッチとコーヒーを、コンビニで買ってくればよかった」
件のベンチへ向かいながら、ぽしょりと呟く。
「そんなに長居する気だったの?」
そろそろ、隣が寒くなってきた。
小走りで隣に行くと、キミはにこっと微笑んだ。
「おかえりー」
言って、満足そうに私の右腕に抱き着く。
寒さが、途端に消え失せた。
魔法みたいだ。
この魔法に、永遠と魅了されていたい。
「ただいま。……質問の答えは?」
私のダウンに顔を引っ付けながら、
「噴水を見ながらサンドイッチとか、デートっぽいかなって」
言って、もの欲しそうに上目遣いで私を見上げた。
「これは、ただの散歩?」
状況からしても、私はデートという認識だったが。
「でえと、です」
顔を隠すように、私の腕の中に頭を突っ込んだ。
歩きづらい、けど、可愛いからいい。
公共の場で、夜の営みを話すのは恥ずかしくないのに、『デート』と答えるのは恥ずかしいようだ。羞恥心の線引きを、どうしているんだろう。知りたくて、でも、訊けない。複雑な心境。
木製のベンチはひんやりと冷たく、履き慣れたジーンズの生地を貫通した。上半身は、ヒートテックのシャツと、薄手のダウンを着ているから問題はないとしても、足元はさすがに堪える。
学生時代は平気だったのに、年を取ったものだ。
緩やかな曲線を描く背凭れに、背中を押し付けた。傍らで、キミは背筋を伸ばして空を見上げている。噴水を見たくて、足を運んだはずなのに、キミは空ばかり見ていた。
「冬の空って、澄んでいて、見ていると心が穏やかになって、でも、この世界に一人だけだって感じて、怖くなる時がある。ああ、あたしってひとりぼっちなんだなって思うと、穏やかだったはずの心が、騒ぎ出して、不安でいっぱいになる。だけど、やっぱり好きだから、ぼうっと見上げちゃうの。……変でしょ?」
同意を求める眼差し。
私は、敢えて気づかない振りをした。
「とても素敵な詩だと思うよ」
「ポエマーじゃないもん」
むすっと膨れる頬。
太ももに置いている手は、寒さからか、ぎゅっと握られていた。
「授業はしませんって、さっき言ったじゃない。アキラくんのおたんこなす」
おたんこなすって、久しぶりに訊いた。
言葉選びが斬新で、つい揶揄いたくなってしまうんだ、と以前伝えたら、「うるさい、この呆助め」と怒られた。呆助、現代でいう〈阿呆〉のこと。どこでそういう言葉を仕入れてくるのだろうか? その熱を少しでも勉学に向けてくれれば、テストの点数も幾分上がるというのに。
「寒くない?」
訊ねると、キミは首を振った。
「体温は、アキラくんよりも高いんだよ」
だとしても、目の前に噴水があれば、風も余計に冷たく感じるもの。
「アキラくんは? 寒い?」
「お尻が冷たくて、ちょっと寒いかな」
「お腹も冷えちゃうね。……帰る?」
寒いけど、帰りたいとは思わなかった。
キミと隣同士でベンチに座るだけの時間でも、私にとってはかけがえのない大切な時間だから。
「もう少しだけ、こうしてようか」
硬く握ったままのキミの手に、ようやく触れることができた。手入れの行き届いた肌は、つるつるしていて気持ちがいい。何度も確かめるように触れていたら、「その手つき、ちょっとえっちっぽい」と笑われてしまった。
「帰ったら、私が温めてあげる」
ことん、と私の肩に愛おしいお重みがのしかかった。
キミの言葉を訊いて、やっぱり、もう帰ろうかと思ったことは、絶対に言えるはずがない。