何年経っても憎いし、愛してる
歩く。止まる。下を見る。女が倒れていた。
俺は溜め息を吐く。この一連の行為はもう何度目だろうか。
「おい。生きてんのか? くたばってんのか? どっちでもいいから返事しろ」
返答はないが、心臓が動いている。出血はしていない。どこか変に折れ曲がっているところもない。
薄暗い通りで最低限確かめておいて、俺はその女―――フィナを抱える。そうして暫く歩いておけば、フィナは笑いの衝動に駆られて小刻みに揺れ始めた。
「―――ふふっ。ああ、もう駄目。耐え切れない」
「毎度毎度、よくもまあ飽きねえもんだ」
「だって、面白いのだもの。それにロウもそうでしょ? 同じ言葉、同じ行動しているじゃない。あら、珍妙な顔しちゃって。ほら、笑って笑って?」
ぐにぐにと頬を掴まれて無理矢理表情を作らされる。
起きて早々元気なものだ。まあ、狸寝入りなので何も不思議ではない。
「やふぇろ」
「大の大人の、しかもおじさんがなんて情けない声」
やられたままでは気が済まなく、細い腕を掴んで強制的にやめさせる。
「あんまり調子乗ってると落とすぞ」
「このまま運んでくれるつもりだったの? 今日はいつもより優しいのね」
首に腕を回され、魅惑の笑みを見せられた。
耳にかかる吐息が熱かった。栗色の柔らかな髪が頬に触れ、甘い香りが鼻をくすぐる。
俺は実行した。
「前言撤回。優しくない」
一瞬の空中浮遊で体勢を整え着地していた。微風はあるが音はない。
「俺は誰にだって優しいぜ。平等に例外なく、お前さんにもな」
「―――そう」
つまらなさそうに背を向ける。哀愁が漂うが、俺は何も声をかけはしない。
それから暫くしてフィナは振り返り、「ねえ、どこにいけばいいの?」と俺の今日の居住を尋ねた。
「俺が通るルートを分かるんだから、そんぐらい調べられるだろ?」
「ロウのルートなんて知らないわ」
「じゃあなんで何回も遭遇できんだよ」
「勘ね。それに私、とっても幸運なの」
「へえへえ、それはけったいなことで」
俺は先行するフィナを脇目に右の隘路へ曲がる。
「あ、ちょっとっ」
慌てて追いかけてくるところが面白い。そして今度は騙されないようにと裾だけを掴むのは、女の色香を漂わせていた先程とは反対の愛らしさがある。
なんてちぐはぐだろうか。
そんな風に考えていたせいか、目的地に通り過ぎそうになる。
「ッと、着いたな」
「ここが今日の居城ね」
「あ、こら。先に入ってくんじゃねえ。というか入るな」
「心配しなくても平気よ。もう慣れっこだもの」
話を聞いていない。鼻歌混じりで廃墟に入っていく。仕事柄の関係で罠を張っているのだが、どこに俺が仕掛けるのか癖は熟知されていた。
見事全て発動することなく躱していった女は、早々にソフアーに寝転がる。
「占領すんな」
「むー」
「唸っても無駄だ。せめて起きろ」
「……しょうがないわね」
隣り合わせで座り込む。ここは家具が限られている。廃墟なので当たり前だが。
俺はシャワーと寝床さえあればいいとこの場所を選んだ居住であった。
「ねえ、喉乾いた」
「知らん」
「お腹空いた」
「知らん」
「……」
「ったく、しょうがねえな。そこの鞄漁って適当に食っとけ」
「ありがと、ロウ」
軽やかな足取りで駆けていく。食料を手に入れてそうそう頬張るのはリスのようであった。
よく分からない奴だった。
外見は立派な女であるのに、中身は度々幼さが現れる。フィナがガキである頃からの付き合いだが、昔の方が大人びて達観していたはずだ。
全身を血で濡らし、瞳は絶望に染まっていた。
敵愾心を込めて睨み付けられていた頃を懐古していると、フィナはどこに隠し持っていたのか小箱を取り出した。中身には丸いチョコレートであるリンドールが二つ入っている。
「……おい。自分で食いもん持ってんじゃねえか」
「? そうね」
わざとか、と思うがあどけなく首を傾げる様子から違うようだ。どうせチョコレートはデザートだからと別枠なのだろう。俺の食料を減らした気後れは何も感じていないようである。
「……気に食わないな」
フィナはリンドールを掲げ、その見目に夢中になっていた。呟きなど耳に入っていない。
だが、じとっと視線を向け続けていれば流石に気付いた。
「なあに? あげないわよ」
リンドールを口に運び、ふにゃりと表情をとろけさせる。
「うめえかよ」
「ええ、とっても」
「実はよ、俺も腹減ってんだが」
「鞄から何か取りに行ってあげましょうか?」
「いい。近くにあるんでな」
フィナを押し倒す。のし掛かってしまえば、もう逃げられはしない。
「ロウ?」
「お前さあ、無防備すぎんだよ」
今だ幼子のようにきょとんとしている。
何も意識していないのだろうか。それとも信頼してのこの態度か。
それは駄目だろう。
「フィナが悪いんだぜ?」
体に触れる。女というのは柔らかい。
フィナはようやっと真っ赤に顔を染め上げた。理解するのが遅すぎる。
「いただくぞ」
ぐっと体に力が入っていた。可愛らしい抵抗だ。
そして、俺は食べた。
がぶりと。箱に残るリンドールを一口で。
「甘いな」
チョコレートも、初なフィナもどっちもだ。二つの甘さがくらくらと脳が揺れる。
「な、な、な、なッ!」
激情が爆発するのを予期し、フィナの上から逃げる。
先程までいた場には拳が振り放たれていた。ごうっという音から、手加減のなさが窺える。
「このっ! 素直に一発食らっときなさいよ」
「それは食らいたいとは思わないんでね」
そう言った途端、ナイフが顔の真横を通り過ぎた。
やべえ、からかいすぎたというのは後の祭りである。俺はまともに一発もらう羽目になった。
「ああもう、まさかロウがチョコを食べてしまうなんてね」
「いてえ……っ、少しは手加減しろよ」
「自業自得じゃない?」
白眼視されるが、マゾではないので何も効きはしない。どかりとソファに腰掛ける。
図々しいわねという評価に加え、フィナは俺から距離をとり警戒した。
「次からは一言かけてよね。チョコが欲しいなら」
「言ってもくれなかっただろ?」
「そうよ。だって貴重だったもの。……それに、もし毒が入っていたらどうするのよ」
「自分の食いもんに毒入れる奴がいんのかよ。耐性つける為だったら分かるがよ」
「ピリピリとした感じを好む人がこの世にはいるらしいわよ」
「風変わりな奴もいるもんだな」
ふわあと欠伸をする。猛烈に眠い。
結局、まともな食事にありつけてはいないが、襲う睡魔に負けて微睡む。
仕方ないわねと暖かな毛布を肩からかけられたのが、途切れる記憶の最後となった。
「ロウの方が無防備じゃない」
ぐうと眠ってしまった男の頬をつつく。軽く手で払う仕草をするので、浅い眠りではあるようだ。
流石、名のある刺客である。
睡眠薬入りのチョコレートでも、殺気をぶつければ直ちに起きそうだ。それも反撃込みで。
「私が寝たいぐらいなのに……もう」
睡眠薬を摂取しないと、眠れない体質だった。慣れすぎて強力なものでしか効果がない程である。
だから二つ分のリンドールであったが、片方を食べられてしまうとは。襲うような見せかけで、完全に注意が逸れてしまった。
「……私、脅しだって分かってるのよ」
男と女の関係だと意識させたところで、致す気がないのは知れていた。下心があるなら、とうの昔にやっている。
齢八に出会い、どれだけ共に過ごしたと思っているのだ。
そりゃあまさか本当に? と動揺したのは認めるが。
「ロウ以上に安心できるところはないのに、馬鹿ね」
彼は優しい。害する行動をしなければ、何も手出しはしない。死に損ないの私を救ったぐらいである。
内心殺そうとしても、実行さえしなければ恩恵を与えてくれる。
標的にさえならなければ、ロウの側より安全場所はなかった。だから私はロウを探し求め、何度もこの戯れを繰り返すのだ。
決してそれ以上の目的はない。ないのだ。
私は忘れたりはしない。
ロウは親の敵だ。
また、皇女たる私をきらびやかな世界から墜したのだから。
恨みの他をもってはいけない。
いけないのに、なぜこれほどまでに違う想いが出てきてしまうのか。
直ぐ様振り払い、杳とした感情に浸かる。
「殺しはしないわ。せっかく生き延びた命をふいにはしたくないもの。でも仕返しとして、せいぜい利用させてもらうわ」
ソファに寝転がる。ロウの膝を枕になってしまうのは徒広く占領しているからだ。
好意故ではない。
逞しい脚に何も感じたりなんかしていないのである。
*
これは夢だ。
少女が俯せになって倒れていた。体や衣服、髪でさえも血がべったりとついている。
おそらく少女が流す以外の他者のものが混ざっているだろう。この量がただ一人のものなら、とっくに出血死している。
「おい」
息が絶え絶えとなってある少女は頭をもたげる。動きは鈍く、焦点が合っていない。この世を認識しているかも危うかった。
……こりゃ駄目だな。
少女は絶望していた。職業柄何人も見てきた状態である。
だからこそ、この質問をなげかけた。
「生きてんのか? くたばってんのか? どっちでもいいから返事しろ」
少女をひっくり返し、答えを求める。このままではこいつはただ死ぬ運命だ。
追手がいた。少女を逃がした者は皆死んでいる。
「……」
「声にも反応しねえのか」
せめて何かしら反応しろとナイフをくれてやる。地面と金属が擦れ、音が発生した。
「自ら後を追う選択肢もあるんだぜ」
殺されるか、自ら殺すかという二択に絞ってやる。
助けてやるとは言わなかった。こんなにも絶望している奴には救いとならないだろう。
少女はのろのろとナイフを引き寄せる。あまりに覚束無いので、手に握らせてやった。そしてその場から身を引く。
ぞろぞろと息を潜めていた連中が出てきた。
「ロウ。やっちまうからな」
知り合いが俺の顔色を窺った。俺は無言でいる。
鈍く光る剣が上げられた。
そして振り下ろされる瞬間、か細い声を聞くことになる。
「……、……い」
俺はその剣を止めた。咎めるような視線にすまねえな、と返しつつ口端を上げる。
一歩後ずさったのを仕切りに俺は少女の髪を一束斬った。知り合いに依頼達成の証明としてやる。
「……借り一つだ」
奴等はその場から去った。俺と少女だけが残っている。
「お前なあ、返答になってねえじゃねえか。生きたい、だなんてよ」
だが、救ってやらないことはない。
少女は軽かった。
食事も満足に取れない程の逃亡生活だったのだろう。痩せ細った体は皇女とは似つかわしくなかった。
そして時は流れていく。
敵愾心があった。俺の生業は見て明らかだったからだ。
両親の敵は俺だと伝えれば、殺意に変わった。だが、行動に移しはしなかった。愚かだと巷で有名な皇帝と皇后とは異なる、利口な少女であった。
傷が癒えれば、フィナはそのままくれてやったナイフと共に消えた。そして数週間後に現れることになる。また倒れていた。
生きてるというので再び世話をしてやる。
後は繰り返しだった。
消えて、現れて、消えて、現れる。
何をしているのかは風のたよりで聞いていた。フィナはそれを見事成し遂げる。
その後の邂逅時には死に体になっていた。お決まりの言葉は忘れ、本音が漏れる。
「とうとうくたばったか?」
「生きてる、わよ」
「まだ生きたいか?」
「ええ。だってまだ一人残っているんだもの」
「ああ。確かに、そうだな」
俺はいつものようにフィナを抱える。
見上げた根性に、こいつになら殺されてもいいと初めて思った。
それから数年が経つ。俺はまだ生きている。
「……なにやってんだよ、お前」
明晰夢から覚め、膝の上に重みがあると思ったらフィナがいた。どうして俺が膝枕していることになっているのか。
「おい、起きろ」
「ん……」
「フィナ、」
「……なあに? ロウ」
甘い。声や色香は勿論、俺を殺そうとしないことも。
「憎くねえのかよ」
「……憎いにきまっているじゃない」
頬に手を添えられ、そのまま下に移動する。
フィナは馬乗りになり、首は両手で絞められる状態になった。
「殺さないの?」
「お前をか? ……ハッ。昔じゃねえんだ。もう、できねえよ」
「ふうん」
擽るように、指先だけで首に触れていた。
睫毛を伏せて口を強く閉ざす様子から、ああ、お前もかと知れた。
「俺はこの関係、気に入ってるぜ」
「私は嫌よ。このままでいたくない」
「……なあそれ、都合よく解釈していいか?」
「さあね。でも、」
ひらりとステップし、意地悪く笑う。
「言った通り、食べるなら一言かけてよね」
「チョコレートを?」
同色である髪を手に取り、言い返す。
してやられた、と今はしっかり俺を映す瞳が大きくなった。
「―――ええ。とっても、貴重なんだから!」