-18
紅子の額から汗が流れ落ちた。呼吸もだんだんと荒々しくなる。
紅子は最初、自身の傘を用いて結界を形成していた。傘とはその使用者を守ることに関して、非常に有能であり、物を使い自身を守る存在にとって数多く用いられる道具であった。
それは小さな自身を守るだけなら十分な広さを持った結界である。しかし成人男性もそこに入るとなると、それは途端に窮屈であった。
混乱し痛みを隠せない礼御は、間違いなく自分が狙われているのだろうと勘違いしているのだが、実はそうではなかった。
赤しゃぐまという妖怪は人の家を守る妖怪である。それが住み着いた家は繁栄し、災害災厄から守られる。赤しゃぐまとはつまり人の家を守ることにかけて、右に並ぶものがいないほど上等な存在であった。
では紅子により中層の幽鬼と呼ばれた存在とは、どうなのか。上層の幽鬼。これは鬼の中でも最低ランクの雑魚である。逆に最下層の幽鬼と銘打たれるものは、最高ランクの鬼である。そして紅子と礼御の前に現れたのは、中層の幽鬼である。つまり赤しゃぐまの紅子からしたら断然劣る存在である。
仮に赤しゃぐまが守る屋敷に災厄をもたらそうとする鬼がいれば、それは間違いなく最下層の幽鬼である。中層程度の鬼では屋敷に入ることはおろか、近づくこともままならないだろう。それほどまでに格差がある。
しかしそれは、赤しゃぐまが家を、その主たる人を守るときの話であった。
「そう恐怖することもない」
紅子は震える礼御にそう告げた。礼御は自身の命の危機だと恐れたが、山羊面の鬼の目的は人の子ではなく、赤しゃぐまであった。
礼御が背中の痛みに耐えながら、その理由を彼女に尋ねると、紅子はひどくあっさりとした口調で現在の状況を語り始める。
「何か勘違いしておるようじゃから、まずそれを正してやるとじゃな。あれはお主を狙っておるのではない。目的はわしじゃ」
ようやく自身の間違いを指摘された礼御は、それでも瞬時にそれを納得はできなかった。
「お主はわしに言ったの?『低級妖に食われるのか』と。その通りじゃ。低俗な雑魚どもは高貴な妖の心臓を臨む。――まぁ、あれは妖と言うより、魔と言ったほうがよいか」
礼御は呆気に取られたが、その内容が初耳とは言えなかった。
紅子は続ける。
「お主は異能者の端くれかもしれんが、それでも聞いたことはないかの。そのモノの力を得る方法の一つとして、そのモノの心臓を喰らうということを。・・・その顔、知らぬわけではないようじゃの。なら詳細など話さん。
故に奴はわしを狙う。あやつからすれば、わしは鴨がネギを背負っとるのと変わらん。なぜだかわかるか。・・・わしの力は守る主とその屋敷があってこそ発揮されるからじゃ。家出中の赤しゃぐまなど――つまりはそうゆうことじゃ。あの唐傘があれば、擬似的に本来の力を呼び起こせるのじゃが・・・。お主の力を忘れておった。お主に異能は効かぬのじゃったな。その内にとどめておけば良かったが、少しでもお主の肌がわしの力に触れると、たちまち力が揺らいでしもうた。
今も簡易的な結界を張ってはおるが、これは長く続かん」
そこで紅子の話は途切れた。その表情は悲しげである。それを見て礼御は胸が苦しくなった。背中の痛みなどどうでもいいくらいに。この状況に陥ったことで礼御は自責した。
自分が無駄に紅子についてこなければ、紅子に今のような危機をもたらさなかった。
しかし紅子は怒るわけではなく、悲しむこともしなかった。ただ当然といった表情であった。それはすべてを受け入れている顔である。まるで想像していたかのようにである。
それを見て礼御は自責するのをやめた。他に捻出すべき感情があることに、礼御は気づいた。
「俺を責めないのか?」
礼御は単調に、そう紅子に尋ねた。すると紅子は少し驚いた顔で笑って答えるのである。
「なぜじゃ? ……あぁ、お主は自分のせいでこうなったと思っておるのか。・・・まったく無知とは可愛くも、誠愚かであるな。
お主が何もせずとも、遅かれ早かれこの状況になっておったのじゃ。わしの力など一歩外に出されれば通じぬ相手は数多おる。追い出された赤しゃぐまなど、所詮は餌みたいなもんじゃ」
紅子は視線を落とし、力なく笑っていた。そんな紅子の心身を追い詰めるように、触手は異音を立て、少しずつ、けれど確実に紅子に迫っている。
「礼御。お主、もう動けるじゃろ?この結界をもうすぐ解こう。そうすれば汚らしい触手は全部わしに降り注ぐはずじゃ。その隙に逃げろ。お主なら、たとえ少々触手が伸びたところで死にはしないだろう」
紅子はそう言って礼御の刺された背中を見て、さきほどの自分の言葉が正しいと言わんばかりに、満足そうな表情を礼御に見せた。




