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「結局、玉藻殿は目を覚まさぬかったの」
そう紅子に言われて礼御は苦笑いする。流石に強く殴りすぎただろうか、玉藻はあれから目を覚ますことなく、ついには紅子の家出再開時刻となった。
しかし頭を殴ったくらいで、こうも簡単に人が――人型ではあるが人ではない――気を失うものだろうか。日常で人の頭を殴るという異常行為に対し、礼御は経験がなかった。そのため玉藻の気の失いっぷりには参った。殴った本人である礼御だが、焦りを隠せず玉藻の頬を叩いて起こそうとしたが、どうにもその気配がない。白目で気絶した美少女というのは、見ていて様々な感情があふれるものなのだな、と礼御は自己嫌悪に陥った。
「あれ、死んでないよな」
礼御が無感動を装って呟くと、紅子は中途半端に真面目な口調で答える。
「どうじゃろの。お主の一発じゃ。相当痛いと思うぞ。まぁ、それでも死んではおらんじゃろ」
喧嘩なんてほとんどしたことないが、俺も男だからな。そりゃそうか。
礼御は紅子の言葉に納得した。帰ったら不貞腐れた玉藻の顔が迎えてくれるのだろうな、とまた強ばった笑が漏れる。
「しかし、紅子。お前、これからどこに行くっていうんだ?」
礼御の部屋を出てすでに三十分近くは歩いただろうか。フラフラと道を選択して歩く紅子に付き添う礼御は一体どこまで彼女を送れば気が済むのだろうと自分自身にちょっとした不安を抱き始めていた。
「そうじゃな……。わしはあの辺境の土地からあまり出たことがなかった。一生あの田舎で暮らすものじゃと思っておったのに、気づけばこんなところにおる。妖といえど、この命は永遠ではない。死ぬ前に見たいものもたんとある。――果ての北国と言うもの悪くないやもしれん」
そう言った紅子の視線は遠く、哀愁を漂わせるのであった。
やっぱり長年過ごした家を離れるのは寂しいよな、と礼御は紅子のその表情におよそ見当外れな思考をするのだった。
「今からでも俺の家に来ないか?」
礼御はダメ元で再度そう尋ねたが、紅子は「くどいぞ」と抑揚なく言うのであった。
それから礼御は紅子に別れの挨拶ができぬまま、また数分紅子の歩調に合わせていた。それに紅子は何も言うことはなく、ただぼんやりと彼方を見つけ歩いていた。
そろそろ日が暮れる。礼御が僅かに残った西日を眺め、そう思った矢先である。紅子は暗く重たい口調で言葉を出した。
「……客かの」
何を言っているのか礼御は理解できなかった。そして深くその意味を考え始める前に、紅子は行動を開始した。
手にしていた紅色の唐傘を舞うように開き差す。紅色の着物を着た幼子には不似合いなほど大きな傘。
雨か、と反射的に思って停止する礼御の手が握られた。色白の小さな手である。それに引っ張られ、礼御は紅子と相合傘をする格好になった。その幼子の横顔は真剣そのもの。そして礼御の手を握った彼女の手は微かに震えていた。
「なんだよ。どうし――」
その紅子の変調の理由を礼御が尋ねようとしたときである。その答えは後方から不意にやってきた。
何かが熱で縮み上がるような、そんな異常音。
礼御は咄嗟に振り向いた。しかし紅子は振り向かない。まるで当然のようにそこに佇んている。
礼御が目にしたのは、幾本もの触手であった。いや、触手というと語弊があるかもしれない。それは植物の蔓のように滑らかで艶かしいものではなかった。もっと歪で角ばった、例えるなら昆虫の手足が何本も繋がったような、いくつも節のある触手である。
それが礼御の目の前にあった。それはなおも異常な音を上げ、礼御の目の前でうごめいている。まるで見えない壁に行く手を妨げられているようであった。
異様な光景に礼御が唖然とする中、紅子はチラと礼御を見た。紅子の目に写った礼御は、彼女の期待を裏切り、ただの人であった。紅子の口元は無意識に引きつる。
礼御は自分の置かれた状況を未だ把握できぬまま、触手が一体どこから伸びているのか、その大元を目にする。
そんなもの、礼御は今まで見たことがなかった。
頭部は山羊。出鱈目に混ぜられた絵の具に黒色を混ぜたような、気色の悪い色をしている。そこにコントラストとして置かれたように赤い目玉が四つある。上半身は人。頭部と同じ色で染められた毛で覆われたその身体から二本の腕が伸びている。片手に指は三本しかついていない。その上半身から根のように生えた無数の触手。それが身体を支えていた。そしてその数本が礼御と紅子の眼前まで伸びていたのである。
「なんだよ……、何なんだよ、あれ!」
礼御は恐怖に囚われていた。そして思い出す、魔術師の言葉。『害意をもって君に近づく妖怪がいてもおかしくない』。溢れ出す緊張を、礼御は喉を鳴らして飲み込んだ。
「気にするな」
紅子はなおも重たい口調で一言放った。そして続ける。
「時期に諦める。それまで少しばかり長い夜歩きになるかもしれぬが――。お主は駆けて逃げた方が利口じゃの」
逃げるって……逃げられるのか、あんなものから。
礼御は紅子の話を聞くときも、それから目を離すことができずにいた。紅子の言葉はしっかりと耳に入っている。それを脳も理解することができた。しかし身体は動かない。礼御の身体は、ただ「なんだよ、あれ」と声を出すしか能がなかった。
そこで紅子が「ふん」と軽蔑するように鼻から空気を出した。首を少し捻って横目で礼御が怯える存在を確認する。
「中層の幽鬼といったところか。あの程度の奴からしたら、それは甘美に思えて仕方なかろうの」
中層の幽鬼?
礼御は紅子の解説を聞くも、当然納得し身体を満足に動かせるようにはならなかった。
――バチリ。――グジュリ。
そんな音は途切れることなく、礼御の目の前で響いていた。触手たちは紅子に届くことはなく、癇癪を切らしたようにその数を増やしている。
「おいおい……。仕様がない奴じゃの。あの玉藻前が付いている人間じゃと思うて油断したわ。こうも足がすくんでおる奴が隣におると、逆に安心じゃ」
紅子はくいっと礼御の手を引っ張り、彼の注意を異物でなく自分に向けさす。礼御が恐る恐るそちらを向くと、そこには困った表情で笑う紅子がいた。
礼御はそれに釣られて、申し訳なさそうに笑う。
紅子はそれで安心してしまった。礼御は大丈夫だ、そう思ってしまった。故にさらに強い力で礼御を引き、歩き出した。
外力により腕は伸び、されど脚は動かない。そして礼御の身体は傘から――触手を阻んでいた壁の内からはみ出てしまった。
突如、礼御の背に激痛が襲う。
容赦のない触手に吹き飛ばされた礼御の身体は、狙いすまされたように紅子に衝突した。傘は空中に放り出され、触手はまずそれを目掛けて伸びる。無残にも紅子の唐傘は穴が空き、そして触手に引きちぎられた。
傘に向かった触手とは別のそれが、今度は二人に迫る。
「まずい!」
突っ伏していた紅子はそう叫ぶと、瞬時に起き上がり着物の帯紐を解いた。それは輪となり地面に落ちる。その輪の中に礼御と紅子は入っていた。触手はまたも見えない壁にその目的を阻まれる。
しかし今度の紅子に今までの余裕はなかった。それを奴も理解したのだろう。礼御と紅子を守る筒状の見えない壁は瞬く間に触手で囲まれた。
その内の数本、礼御の背中に突き刺さった触手。それらの触手は先から数えたとして3節目――およそ三十センチのところである。
黒く濁った血液で染まっていた。




