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自分の名を呼ばれるというのは、ひどく身体が反応するものである。それも、それが不意を付いているのであればあるほど。
礼御の身体は嫌がりながらも、自転車のブレーキを握らさた。それも強く、急ブレーキである。慣性に引きずられるように、自転車のタイヤと路面が擦れる音が鳴った。
背後の気配はどうしようもなく礼御に近づいている。
彼は礼御のことを呼んだ。しかし礼御に彼に対する記憶はない。呼ばれるはずもない者から、自身のフルネームを呼ばれたからこその萎縮である。
しかし礼御の頭は身体とは反対に強ばらずに作動した。ここ数日の体験を勝手に生かしたようだ。
そうだ。突飛なことなんて、起きないはずがないじゃないか。
そして咄嗟に猫の妖怪を思い出した。彼女も変化は得意だった。
それでも恐る恐る振り返る。男は紛れもなく礼御の後ろに立っていた。冷たくはあるが、鉄仮面のようではない。それがまだ人間らしくて、礼御は完全に恐怖に囚われずに済んだ。
「―――っぁ」
礼御が口を開こうとしたとき、男はなんだか礼御の周りを気にしていることに気がついた。それがちょっとした違和感となり礼御の言葉を封じる。
悪い人、もしくは悪い妖怪ではないのではないだろうか。これがミネリの化けた姿というのなら一発殴ってやらないと気がすまない。
そんな混乱する礼御を気にせず、先に言葉を発したのは礼御の前に立つ男であった。「なんだ、気を利かせたのか?」とぼそりと呟いた。
そして続ける。
「お前、徳間 礼御だろ?」
礼御の頭は一瞬で男の異質さに注意を向けさせられた。
違う。ミネリではない。
その結論が正解であると礼御は確信をもった。そしてすぐには答えない。偽ったほうが良いのか、それと偽っても無駄なのか。それ以前になかなか言葉を生み出せない。
そんな礼御の様子に、男は少々不思議そうな表情をした。そして「どうした?」と礼御の反応を待った。
「―――あなたは、何なんですか」
礼御は質問を質問で返した。男は明らかに面倒くさそうに息を吐く。
「お前は徳間 礼御で間違いないだろ? まずそれに答えろよ」
しかし礼御は答えられない。どうしていいかわからなかったのだ。
「肯定なり否定なりしろ」
脅し、ではないものの、男の口調にはそれに近いものがあった。
礼御はそれに屈するのである。
「……ええ」
それは肯定の意味であった。「お前は徳間 礼御か」と問われて、「そうだ」と返したのである。
「だよな。――まぁいい。要件はそうない。気まずく思うのなら気にするな。すぐ終わる」
その男の言葉に、まさか殺されたりしないよな、と礼御の脳は半ば諦めておどけた。
男は特に変わった動作を取ろうともしない。ただ口を開く。
「要件は忠告だ。ただお前は注意してくれ。お前の身の安全は保証されているが、その保証も時期に切れる。それなのにお前はトラブルに巻き込まれて、俺としても頭が痛い。が、気にするな。お前はそういう性質なんだ」
意味が分からない。礼御は単純にそう思った。
「ふむ。まぁ、要件だけ伝えると言ったか。なら今から言うことだけでも気にしてくれるとありがたい」
「…………」
「あの女には注意しろ。あれにとってお前は、ただの実験動物だ。用意が整えばすぐ始まるぞ。あれが聡明なのは事実であり、恐らくお前に危害と呼べるものを加える前にその行為そのものが無駄だと理解するはずだが、確実とは言えん。俺もさすがに手が回らん。かといって放っておくとこもできんしな。そのうち手を打つ。だからお前は注意しておけ。特に自分の行動にな。むやみやたらに近づくなよ」
あの女。そのフレーズが礼御の脳内に響く。おそらく彼にとって「あの女」とはある一人の女性を指しているのだろうが、そんな自由に誰彼を差す言葉を言われて察しがつくほど、礼御は隣人女性に驚異を感じていない。そのため礼御はいっそ不貞腐れた。
「以上、それだけだ」
そう言い終えると男は踵を返し、歩き始めた。しかし礼御は一向に分からない。分かることがあるだけ、なおさら分からない。
「ちょっと、待ってくれよ。いきなり呼び止めておいて、なんだよ、それ。意味不明だ」
男は立ち止まる。礼御の方を向くことはせず、完結に述べる。
「かもな。だが全部を求めるな。面倒だ」
「……」
礼御は言葉に詰まった。この見透かしたようで、しかし多くを語らない感じを礼御は一度体験していた。
森の中に建てられた古本屋。そこに住まう女性である。
「……名乗れよ」
また男が歩き出す前に、礼御は尋ねた。さきほどの質問。男の素性に関する質問である。
「あんた、何者だ?」
「…………」
男は顔だけ横に向け、そして沈黙を解除する。
「字深 蓮武。普段なら退魔師と名乗るところだが、今回は魔術師と名乗っておく」
最後に「またな」と付け加えると、魔術師・字深 蓮武は再び歩き出し、動けない礼御を置いていなくなるのだった。




