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「おはよう、礼御くん。今日は早いね」
礼御が自転車置き場に到着すると、すでにそこにいた女性が礼御に声をかけてきた。
「おはようございます。真夕さん」
礼御はその声の主に答えた。彼女は真夕といい、礼御との関係は部活の先輩後輩に当たる。
礼御は美術部に入っている。高校までの美術の成績は優れたものでなかったにしろ、礼御は思ったままに絵を描くこと好きだった。いわゆる幻想画というやつだろうか。美術部の連中には、よくわからないが面白い絵という評価を受けている。
「察するにバイト上がりかな?」
「そうです。そのまま来ました」
そう礼御が答えると真夕は「そうか」と呟き小さく微笑んだ。礼御の一つ歳の上になる彼女は、姫菜とは真逆、美人な女性であった。いつも長いスカートを履いて、誰よりも部室にいる人物だ。歳が一つしか変わらないというのに、礼御には真夕が自分よりずっと大人に見えていた。まとっている雰囲気がミステリアスで、キャンバスが彼女によく似合っている。そこに風でも吹いて、その綺麗な黒の長髪が揺れたりすれば、それこそが描かれるべき光景に思えてくるほどだ。
礼御は真夕と並んで部室に向かう。
礼御が通っている大学には部室棟が2棟あり、その内古い建物の中に美術部の部室は入っていた。新しい方の建物は入口が自動扉だったり、人を感知して明かりがついたりとまさに今時の建物であるのに対し、古い部室棟は一見すると廃墟である。扉は目一杯の力で押すことで鈍い音を立てながら開く。常に明かりは付いているはずなのに、電灯の数が少ないせいか、棟内はいつも暗らく、無駄な利点ではあるがお化け屋敷にはもってこいであった。
礼御はいつもどおり入口の重い扉を押して入ると、そのまま真夕を待ち、彼女とともに3階にある美術部の部室に向かった。
朝早いということもあり、まだ誰も来ていない。そうは言っても、もともと幽霊部員の多い部活であった。強制参加のイベントがない限り、二桁の人数が集まる方が稀である。
真夕が部室に入り、早々に絵を描く準備をする中で、彼女は礼御に話しかける。
「そういえば今、県立美術館で特別展が開かれているようだね」
礼御は適当に椅子に座りくつろいでおり、そう真夕に言われたことで部屋の中を見渡した。壁には今近隣でやっている特別展や企画展の広報チラシが貼り付けてある。絵画に限らず、工芸品や、博物館、果てはとあるアニメの原画展のチラシまであった。
真夕が言っているのは、スペイン出身の画家の特別展のことらしい。その案内チラシを見ると、哀愁漂うしっとりとした画風と色彩で、建物と、その下に小さな二つの人影が描かれていた。しかし人影というには語弊があるように思えてならない。どちらかというと、人の霊体と言った方がしっくりくる。そんな一見では意味のわからない絵画も、しかしどこか心惹かれるものがある。
「礼御くん、一緒に行かないか?」
真夕の誘いに少々驚いた礼御であった。美術部員の数名で一緒に美術館に行くということは何度かあった。けれど今回そのような話は耳にしていない。
ってことは、真夕さんの誘いは・・・。
「いいですけど・・・二人で、ですか?」
「何か問題でも?」
礼御の疑問に対し、当然といった口調で返事をする真夕であった。
礼御が部活の真夕という女性に好意を持っていることは間違いがなかったが、それが恋愛感情から来るものかは定かではない。また真夕もそういうつもりで礼御を誘ったのではないだろう。
部活動という括りでいくらかの時間を過ごす仲間である。時として、男女一人ずつのペアで、デートまがいの出来事が発生しても不思議ではない。
礼御もそのくらい軽い気持ちで真夕の誘いを受ける。
「いえ、行きます」
「ではいつ行こうか?」
「真夕さん。一番早くて、いつが都合良いですか?」
「そうだな。・・・・明々後日、かな?」
「じゃあ、明々後日にしましょう。十一時、県立美術館前集合でいいですか?」
礼御がそう提案したのは、美術部員で集まり近くの美術館を訪れる場合は、大体がそのような感じで話が進められるからだった。
「えぇ、それでいいよ」
真夕は礼御が提示した日時、集合場所に異存はないそうだった。その後、「楽しみにしているよ」と礼御に微笑んで言うと、絵に向かい始めるのだった。
礼御はなんだか、胸の中であらゆる思考、感情に絡んでいた不吉な存在が、少しだけほどけるのを感じた。
その多少の憂鬱が晴れたのがいけなかった。晴れた分だけ覗いた正の感情が礼御に筆を持たせた。そこまでは良かったものの、どうにも筆は動かない。結果、描きかけのよくわからない絵をただ見つめるだけの時間を過ごすのだった。そしてその動くに動けない礼御の不器用な心理状態は、また礼御の頭と心を曇らしていく。
とうとう我慢できなくなったとき、礼御は素早く後片付けに入った。
「もう、片付けるのかい?」
真夕が疑問を口にした。その一言で礼御が現時刻を確認すると、八時四十分を過ぎたところであった。準備の時間を始めるとほんの十数分しかキャンバスに向かっていないことになる。
「なんだか・・・今日は描けないです」
「そういう日はわりとあるさ」
真夕の励ましのような、適当な言葉に礼御は小さく笑って後片付けを進めた。
その後の礼御はぼんやりと他の人の絵を眺めたり、部屋の中に転がっている画集をめくって時間を潰した。
しかしそれで長い時間を過ごすこともできず、太陽が登りきる二時間前くらいに部室をあとにすることにした。それまで結局真夕と礼御以外の部員が来ることはなく、また二人きりという状況のためか、礼御は自分のあらゆる行動を真夕に目撃されており、真夕が自身への評価をそういった何気ない動作すべてより決定している、そんな錯覚に陥るのである。
早々に帰ることで明々後日の約束が反古になったりしないだろうか、と礼御は的外れな不安を持ちつつ、ちらちらと彼女の様子を窺い何か適当な話題を探した。このまま部屋を出るにはどうにもその場の空気が静寂すぎで、集中している彼女の耳に何よりもまず扉を開け閉めする音が入ると思うと、礼御は申し訳ない気がしてならなかったのである。
「真夕さんは、幽霊とかいると思います?」
礼御の口からそんな質問が出たのは、真夕と行く特別展の目玉作品にそうとしか思えないモノが描かれているからであった。部室の壁に無造作に貼ってある、あのチラシである。
真夕はキャンバスから覗き出すような格好で礼御の方を見た。「あぁ」と呟いたことから、礼御がどうしてそのような質問をしたのかを理解したらしい。
少し考え込んだ真夕は、なんだか彼女に相応しくないような、澱んだ言い方で答える。
「まぁ・・・、いるんじゃないかな」
その答えが礼御には意外であった。絵を描く人間は変わっている者も多いが、それでも真夕は現実を見続けている人だと、今までの礼御は感じていたからである。
「どうしてですか?」
「いや、まあね・・・」
これもなんだか真夕らしくない、歯切れの悪い一言であった。
礼御は何か言いたくないことでもあるのだろうか、と察すると無神経に問うたフォローを入れる。
「あの、言いたくないことなら別にいいですけど・・・。なんか真夕さんが幽霊を信じているのって予想外だったので・・・」
すると真夕は困った顔で口を開く。
「言いたいことでないのは確かだけどね。・・・まぁ、礼御くんにならいいか」
「はぁ」
礼御は要領を得ない音を漏らした。
「だって私は霊感あるから。たまに足が透けている人とか見るよ」