*一
神様とは何だろう。
一般的なイメージは様々あれど、おおよそ次のような概念、偶像、媒体に当てはまるのではないだろうか。
例えば人型。その見た目は変われど、白髪に白髭を生やし、威厳に鎮座する。また黒髪ロングの女性が天から舞い降り、後光が指しているなんてものを想像すればいいだろうか。
例えば動物。代表的なもので言うと狐や蛇、狼や亀だろうか。蛇なんてその最たるもので、脱皮することで生の繰り返しを行えるなんて考えられている。
例えば植物。生物は多種多様なれど、この種ほど長寿なモノない。そこに特別な力を感じるのも頷ける。
例えばもっと広義での自然。山や海、天球に並ぶ星々。落雷、台風といった身近な自然現象も神として崇められるだろう。
考えてみれば、この神という名は、過去から現在まで、この世のすべて、ほとんどのモノに当てられているではないか。
山や海、宇宙に点在する天体を神だと崇めるのは納得がいく。おおよそ神という言葉を用いる一個体が独自にそれらを理解し切ることは不可能だろう。その膨大な差より、その名が付けられてもおかしくない。
また樹木もそうである。何百、何千と生きるそれが見てきた世界を、一個体が隣で見続けることは無理に等しい行為である。単純な生の時間の長短。生きるという、至極当然で、けれど超えることのできない一部。そこに敬意を持てば、それらは神の名に相応しい。
それから動物である。純粋な不思議、不可解さ。そこから生まれる恐怖や畏怖の念。また感謝や救済。身近であるからこそ、その種に神の名を与えることは、ひどく正しく思われる。
そして人の形を模した神。そのモデルは、おそらく過去に多大なる人徳を得た者に違いない。同じ生物あるにも関わらず、埋めることのできない差を感じたとき、きっと人は神の名を用いて己の矮小さを隠すのだ。
つまりそれらを考えた者達はこの一文で図ることができた。
『己では推し量れないモノに神の名を与える』という、逃避にも似た信仰。
故に彼らは神の存在を否定する。
星などただの巨大な石ころに過ぎず、海もまた巨大な水たまりである。特別な力を秘めてなどいない。
長寿がなんだろう。動かず、そこに立つだけのそれはただ長寿なだけ。長く受け継がれる意思と知恵がそれに劣るはずがない。
動物など、思考力の薄いただの獣である。それらにできることが、彼らにできないはずもない。
人などもってのほか。現在に生きる彼らは、その周りで神になったという者を耳にしない。過去より遥かに深まった彼らの能力をもってしても、そこにたどり着けていないというのなら過去いかなる同類だって到着していないはずだ。
だから彼らは見出した。ただの人では理解できない存在。彼らであるからこそ、近づける神の名に相応しいモノ。
ある存在の可能性が提唱された。そのモノこそ神とすべきである。全知全能にして、天地を創造し破壊する、不老不死の存在。
彼らはそのモノを『龍』と呼んだ。
そして様々な角度から龍を追う。存在を証明すること。存在に代わること。野望や知識欲が彼らを動かした。
その者たちは、人との一線を引くため、自らを次のように呼称する。
龍を追い求める者―――魔術師、と。