ヘレネシアの朝
ヘレネシアの朝は、通りのあちこちから響く、甲高い木琴の音で始まる。明けの鈴と呼ばれるこの音は、道の端に一定の間隔で置かれた明け鳥の飼育箱から聞こえていた。
リクレイは、喉元まで引き上げていた毛布を手の甲で払いのけ、重い瞼を擦った。昨日は、夕方には宿に来るはずの客の到着が遅れ、全ての仕事が後へとずれ込んだ。そのおかげで寝室に戻るのが遅くなり、寝つきの悪いリクレイが寝付いたのは深夜になってからだった。許されるならこのまま毛布にくるまって眠りの国に暮らしていたいのだが、宿屋の従業員が客より遅く起きるなど到底許されるはずもない。
リクレイは程よい固さで背中を支えるベッドから体を引き剥がすように上半身を起こすと、勢いよく両腕を突き上げ、伸びをして、ベッドを下りた。
朝の支度は急いで行う。これは、朝の弱いリクレイにとっては職を失わない為に必要な決め事だ。生あくびを繰り返しながら、リクレイはパジャマを脱ぎ捨て、仕事着のシャツとパンツに着替える。シャツの上に重ねたベストは、従業員の中でも女性だけが着用する、ようは胸隠しで、『鈴の音』の主人カーネルが客との些細なトラブルを失くすために必要と決めたものだ。ボサボサの黒髪を梳かし、盥に汲んでおいた水で顔を洗ってさっぱりすると、リクレイの頭はようやくしゃきりと目覚めた。
昨日、遅くに着いた客の他に、宿には客が四組ほど滞在している。カーネルはすでに客の朝の支度を整える為に動き出しているはずだ。
カーネルは、この暗闇に支配された朝であっても、常に正しく起床できるらしい。明けの鈴が鳴る前にベッドを抜け出し、厨房の火を起こし、暖炉と廊下の隅に置かれた蝋燭を交換する。他の宿では、明けの鈴で起きた使用人がこなすこれらの作業を、『鈴の音』ではカーネルは自分で行った。それが、この宿の朝を早めることになり、客の満足を得るのに役立っているのだから、宿屋の主人として生まれながらの才を与えられていると言えるのかもしれない。
リクレイは静かに部屋を出ると、階段を音を立てないように駆け下り、すでに厨房で料理を始めていたカーネルに声をかけた。
「おはよう、いい匂いね」
「おはよう、リー。多めに作っておくから、楽しみにしてろよ」
じゅうじゅうと音を立てるフライパンを器用に片手で煽りながら、カーネルはリクレイに笑いかけ、右手でフライパンの中の葉野菜に塩を振りかけた。筋肉質な広い背中から伸びた太い腕の先には、同じようにがっしりしたごつい手がついている。太い指は見た目の厳つさに似合わぬ繊細な動きを見せ、指の隙間からぱらぱらと落ちる塩がフライパンの上で回転する葉野菜の上にまんべんなく降り注ぐ。
今日の朝食の一品は、ハイルの炒め物のようだ。香ばしい香りの中に、独特な青臭さを嗅ぎ取って、リクレイは笑みを深くした。ハイルの炒め物はリクレイの好きなおかずの一つだ。
「厩にいってくるわね」
「ああ、頼む。」
朝から嬉しいことを見つけたリクレイは、機嫌よく戸口にかけてあったスモッグを取って肩にひっかけ、裏口から外に出た。
外に出てみると、朝を告げた高音の涼やかな音は、朝を知った厩の馬たちの朝食を強請る嘶きにかき消されていた。馬だけでなく、明けの鈴で起き出した動物たちや人間が紡ぐ賑やかな音で、外は活気にあふれている。
リクレイはこの朝の時間が大好きだった。今も、スモックを頭から被って腕を通し、「はいはい。今、ご飯をあげるからね」などと鼻を鳴らして餌を強請る馬に、機嫌よく話しかけている。
支度が整うと、リクレイは厩の隅の飼葉置き場からよく乾いた草を抱え、それぞれの馬の前の桶に運ぶ。その頃になると、厩の外が明るくなってくる。明けの鈴で起き出した街の人々が、それぞれの家の蝋燭に火を入れたのだ。街の役場が灯す街灯のおかげで、街の中は夜の間も真の暗闇になることはないが、家々に灯る火が暗闇を薄めるのに比べると、街灯のもたらす光は少なすぎた。
ヘレネシアには、『太陽』がない。そのせいで、ずっと闇が空を覆っている。太陽がないのだから、雪と氷に閉ざされてしまいそうなものなのだが、ヘレネシアは暗闇に覆われているだけで、寒い土地ではない。これは、遠い昔に西にあるサルダ火山の地熱を利用する仕組みを何者かが大地の奥底に広く張り巡らされたおかげなのだが、太陽を知らぬヘレネシアの民は、その事実を知らない。
ヘレネシアの民にとって、朝とは太陽の光ではなく、明け鳥のもたらす明けの鈴の音であり、人々が灯す蝋燭の明かりであった。
厩での仕事が終わると、リクレイは宿の外を掃除し始める。箒を持って庭と玄関周りを掃き清め、次いで広く張り出した玄関の屋根を支える柱を雑巾で磨く。カーネルは玄関は宿の顔だと言い、いつも綺麗に保ちたがるので、リクレイは朝と昼過ぎの二度、掃除することにしている。
毎日掃除を欠かさないおかげで、カーネルの言うところの宿の顔はいつも小奇麗に保たれ、遠方から旅して宿にたどり着いた客を喜ばせていた。こういった気遣いも、カーネルに与えられた才なのかもしれない。おかげで宿の評判は良く、王都から訪れる旅人の中でもわりあいに裕福な商人を多く客に迎えることができている。
そのおかげで、カーネルは宿代を他の宿よりも少しばかり高くすることができ、夕食時に宿泊客以外に食堂を解放せずに済み、それがまた、他の宿とカーネルの宿『鈴の音』の差別化を促しているのだからよくできている。
リクレイは、玄関の掃除を終えると、すぐさま宿の裏手にある井戸に向かい、掃除道具を洗って、周りを囲う柵にかけて干した。これもカーネルに仕込まれたことで、掃除が終わったら、必ず掃除道具も洗って干す。
せっかく掃除をしても、道具が汚れていては綺麗にならない。その理屈はわかるものの、背が高く、がっしりと大きな体をしたカーネルの神経がここまで細やかであるというのは、リクレイには不思議(本当は滑稽)に思えて、掃除道具を干す度に、笑ってしまうのだった。




