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英雄の帰還(ただし、前科4犯)  作者: 菅野鵜坂
第1章 英雄、帰還する(前科1犯)
8/20

初めてのおつかい その1

 ジェレミーとアリアが、この時代に来て一週間が経った。

 

 その間彼らは、この時代の「常識」を学ぶ事に、その時間のほとんどを費やしていた。

 二人は完璧なまでの「異邦人」であり、この時代に生きるのであれば、必要不可欠な知識だと言える。


 教師役を務めたのは、当然ながらレネである。

 多忙な身であっても、彼女は嫌な顔一つせずに、二人の学習に付き合ってくれていた。

 講義を受けているジェレミーとアリアからすれば心苦しい事ではあったが、その実レネ本人にとっては、至福の時間と形容できるものであった。

 レネにとっては、一分一秒でも長くジェレミーとアリアに接していたい、その切実な願望を叶えていただけでしかない。

 教師役のレネ、生徒役のジェレミーとアリア、ある意味では完璧な互恵関係だと言える。

 

 そして、その講義は今日一つの結果を見せる事になる。

 **********************************

 雲一つない、抜けるような青空。

 降り注ぐ初夏の日差し。

 そして、それを受けて輝く、鮮やかな新緑。

 

「本当にいい天気だな」

 

 ジェレミーが右手でひさしを作りながら、眩しそうに空を見上げた。

 彼は、薄手の長袖Tシャツに水色のジーンズをはいて、黒のキャップを被っている。

 そこまでデザイン性に優れている服装ではないが、身につけている本人の素材が良いために、ダサいと評する人間はいないだろう。

 

「ええ。正に、外出日和です」


 答えたアリアは、少しだけ強く吹いた風に弄ばれる髪を、右手で抑えている。

 リボンベルト付きの花柄のワンピースと、ニット製の透かし編みカーディガンを身にまとっている。

 こちらはジェレミー以上に素材の良さが相まっており、その姿を初めて目にしたレネが黄色い声を上げた程である。

 

 さて、そんな控えめに言っても美男美女のカップルが何をしようとしているのかと言うと……当然ながらデートなどという浮ついた物ではない。

 

 彼らの目の前には、この一週間の成果を発揮する大事な試験があるのだ。


「本当に大丈夫ですか?」


 この確認はこの10分間で13回目になる。

 この国における最大宗教の指導者であるレネは、心配性な母親のようであった。

 生来、彼女は母性本能の強い少女であり、それがいかんなく発揮されていると言えるだろう。


「大丈夫だって。スーパーだかって所に行って、トイレットペーパーを2つに、シャンプーとリンスを1つずつ買えば良いんだろ?」

「前線への物資補給に比較すれば、造作もない事です」


 レネの心配をよそに、ジェレミーとアリアは余裕の表情を浮かべている。

 

「本当に本当に、大丈夫なんですね?」

「うん、大丈夫大丈夫」

「全く問題ありません」


 それでもなお心配げなレネであったが、やがて二人の手を交互に握る。


「変な人に声をかけられても付いて行かないでくださいね。それから、お渡ししたお金は落とさないように、ちゃんと財布に入れておいてくださいね」

「任せておいてよ」

「レネの期待に添えるよう、全力を尽くしますので」


 そして二人は、僧院の裏門から外へと一歩踏み出す。

 いよいよ、二人は300年後の世界と触れ合うのだ。

 この一歩は人類にとっては小さな一歩だが、二人にとっては大きな一歩なのである。


「よし、行くか」

「はい。お供いたします」


 かくして英雄は、晴れ晴れとした表情で歩み始めるのだが……。

 

「車には気をつけてくださいねー」


 

そんな声が背中を追いかけてくるのだった。

**********************************

「大丈夫でしょうか……」


 しっかりとした足取りで離れていく背中を見送るレネの視線は、そわそわとして落ち着かない。


「やはり、ついて行った方が良かったのかもしれません……」


 いくらジェレミーとアリアが、彼女の憧れる英雄といっても、この時代では赤子のようなものである。

 過剰とも思えるようなレネの「心配」は、ある意味では理解できるものだ。


「ついて行けば、お二人と一緒に、お買い物もできますし……」


 ただし、先程の「心配」には、レネがジェレミーとアリアと共に過ごす時間が、どんどん削られていくという「心配」が4割くらいの割合で含まれている。



(いや、今からでも遅くはありません……。ばれないように後をつけて)


 そう思ったレネであったが……。


「猊下。何をなされているのですか?」


 背後から冷たい声で問われて、レネは思わず身を竦ませた。


「チェルシーさん……」


 振り返った先には、レネの秘書官である「チェルシー=バーネット」が、銀縁の眼鏡を陽光に光らせつつ、レネに咎めるような視線を向けている。


「いえ……別にその……。大丈夫です、この後の会議を忘れていたわけじゃありませんよ」


 慌てて言いつくろうレネは、まるで悪戯を隠す子供のようだった。

 対するチェルシーは、きつい表情を緩めはしないのだが……


(ああ……今日も可愛らしい)


 その実、心の中は緩みっぱなしであった。

 このチェルシーという、今年で26歳になる女性は、皇国で最も優秀な若者が集う事で有名なシュミザリン大学の神学部を首席で卒業した、文字通りの才女である。

 神学だけではなく、実務能力にも優れ、この若さで教皇の秘書官という大任を務めている。


 だが、この女性は、一目見た時からレネに熱を上げているのである。

 許されるならば、一日中レネを抱きしめつつ、寝食を共にしたいと本気で思っているほどなのだ。

 外見と口調、そして居住まいから勘違いされ易いが、身も蓋もない言い方をすれば「可愛い物好き」というパーソナリティーを持っている。

 

 チェルシーは、今でもレネに初めて会った時の事を、鮮明に覚えている。

 どんな宗教画に描かれている天使よりも無垢な少女は、一瞬にしてチェルシーの心を鷲掴みにした。


(自分が生を受けたのは、この可憐で無垢な少女を助けるためなのだ)


 正に、それは彼女にとっての天啓であった。

 レネの一番近くに侍り、彼女を助ける。

 それが、神から与えられた使命なのだと……。


 しかし、最近、極めて邪魔な人物が二人もいる。

 言うまでもなく、ジェレミーとアリアである。


 レネから質問は受け付けない、と言い渡されているため詮索は出来ないが、チェルシーは二人に強い嫉妬を抱いている。


 レネがジェレミーとアリアに付きっきりである事=チェルシーがレネと過ごす時間が失われるという事なのだから。


 しかし、今この時間は、その邪魔者はいない。

 チェルシーは、この一週間で枯渇しかけている「レネ分」を補給しなければ、今にも倒れてしまいそうなのだ。


「ええ、分かっております。猊下が、大事な会議をお忘れになるなど、考えてすらいません」

「そ、そうですか。ありがとうございます」


 可愛らしく低頭するレネを前にして、チェルシーは危うく身悶えする所であった。


「それでは、会議の打ち合わせを行う事にいたしましょう」

「はい。どちらで行いますか?」

「そうですね……」


 チェルシーは、わざとらしく顎に手を当ててみせる。


「第二応接室はいかがですか? 会議室に近いですし」

「そうですね。では、そちらで」


 実の所、第二応接室には、チェルシーの指示でティーセットが一式運び込まれている。

 表向きは、最近疲れているレネを労うという当たり障りのないものであるが……。


(猊下と……二人っきりでお茶をするなんて……)


 という、およそ宗教に関わる者とは思えない動機があった。


 何にせよ、この後の30分足らずのお茶会で、チェルシーは「レネ分」の補給に成功する事となる。

 それはつまり、ジェレミーとアリアに彼女が向ける、嫉妬や敵意が多少なりとも薄まる結果繋がるのだから、誰も文句を言わないだろう。


**********************************

 

 この外出をジェレミーとアリアは「試験」だと考えている。

 レネからこの一週間に学んだ事を、試す機会だと。

 傍から見ればただの「初めてのおつかい」でしかない。

 だが、この「初めてのおつかい」にかける二人の意気込みには、並々ならぬものがあった。


 レネの前だから余裕ぶって見せたが、その心に一切の油断はない。

 神経は鋭敏であり、あらゆる状況に対応してみせる、という意気込みがあった。


 だが……自分達の見込みが甘い事を、二人は早々に知る事となる。

 


 僧院から歩く事10分。

 二人はスーパーへと通ずる、表通りにいた。

 この通りは「ブリンクス通り」と言い、平日であろうとも人通りは多い。

 通りの東側にはオフィス街があり、西側にはいわゆる「若者の街」が広がっている。  

 そして、片側二車線で制限速度60キロの道路には、ひっきりなしに車が行き来していた。


「あれが……自動車か」

「話には聞いていましたが、凄い物ですね」

「ああ、馬が失業してしまうな……」


 奇怪な音と鼻に付く臭いの煙を撒き散らし、高速で移動する金属の箱。

 そう……自動車である。

 しばし、呆然と行き来する自動車を眺める二人。


 その時、立ち止まっていたジェレミーと、通行人の肩がぶつかる。

 

「あっ、すいません」

「いえ、こちらこそ」

 

 先に謝ったジェレミーに頭を下げつつ、通行人は足早に過ぎ去って行く。


 二人がいるブリンクス通りの人通りは、かなり多い。

 この時代でも「人通りが多い」と表せるならば、300年前の人間からすれば、正に次元の違うものであった。

 

「ジェザ。私は先日、このブリンクス通りについて調査しました」

「流石だな、アリア。聞かせてくれるか?」

「はい。ブリンクス通りとは、今から150程年前に開通した、国道4号線と呼称される、幹線道の一部です。街路樹にはケヤキが植えられており、道路形状は幅員30メートルで中央分離帯が設置されています。片側2車線であり、時間によって制限速度が設けられている模様です」

「なるほど……。つまり、帝都においての交通の要所という事だな」

「その通りです。加えて、この通りの東側には労働者の職場が多い地域が存在し、西側には若年層のたまり場があるようです」

「だから、ここまで人通りが多いのか」


 立ち止まったまま、深刻そうな表情で会話をする二人を、通行人は奇異の目で見ている。

 なまじ、二人とも容姿端麗であるために、周囲の好奇心を刺激してしまう。


「しかし、交通の要所にしては、警備が手薄じゃないか? それほどまでに、この時代は平和なのか」

「ええ。300年前ならば、即座に間諜の破壊工作が行われていたでしょうね」


 ぶっそうな事を言いつつ、二人はようやく歩みを再開する。


「しかし、この時代の労働者がつけている『ネクタイ』は、どうにかならないのかねー」


 すれ違うスーツ姿の労働者(サラリーマンを見ながら、ジェレミーがぼやく。

 

「同感です。あのネクタイというものは、隣国であるバルク連邦の奴隷を思い起こさせます」

「そう言えば、読んだ本にそんな表現があったな。奴隷の鎖とネクタイは同じだって」

「私も似たような本を読みましたね。この時代の労働者は『働くために生きている』と痛烈に批判されていました」

「便利になった世の中なのに、どうして死に物狂いで働かんと駄目なのかねー」

「ええ、不思議な話です。楽になるために便利になった社会なのに、労働量は増えていく。全くをもって不可解です」


 地味に深い話をしつつ、二人の「初めてのおつかい」は進んでいく。

 

**********************************


「ついに、来たな……」

「はい。来ましたね……」


 死地に向かうような面持ちの二人は、ある地点で足を止める。


「これが、横断歩道か……」

「確か……赤が止まれで、青が進めですね。黄色は……」

「急いで渡れじゃなかったか?」


 そう。二人の前にあるのは、信号と横断歩道であった。

 しかし、二人にとっては、極めて警戒するべき場所でもある。

 横断歩道を横切るのは、時速60キロ程度で走る重さ1トンの鉄の塊である。

 騎兵の突撃よりも、恐ろしいと言えるかもしれない。

 万が一、衝突すれば、笑い事では済まされない……そう本気で思っている。


「まずは、渡るタイミングだな」

「ええ、少しでも誤れば……面白くない事になりますね」


 極めて真剣に議論する二人だったが……


「はーい、みんな。横断歩道を渡るときは、どうしますかー?」


 二人の隣にやって来た女性保育士が、引率していた数人の幼児に対して明るい声で問う。


「みぎをみて、ひだりとみて……またみぎをみます」

「それからー、おててをあげて、わたりまーす」

「はい、よくできましたー」


 幼児たちの無邪気な言葉を聞きつつ、ジェレミーは自らの失態を思い出す。

 

「そうだ……青信号になっても気を抜いては駄目だった」

「ええ、私もうっかりしていました。右を見て、左を見て、また右を見る必要がありましたね」

「ああ。そして、手を上げて運転手に、俺達が横断歩道を歩いている事を示さなければならなかったな」

「この時代の幼児は、極めて高い知性を持っていると認識すべきですね」


 傍から見れば、馬鹿げた会話であるが、本人達としては大真面目なのである。

 

 そして、歩行者用の信号が青に変わり……。


「まずは……周囲の確認だ」

「了解しました」


 二人は自らの持つ、探知能力を最大限に高める。


(半径50メートル以内に、危険な自動車は存在しない)


 それを確認した後、ジェレミーは視力を高める肉体強化の魔法を使用する。

 千里眼と呼ぶに相応しい視力を以って、目視でも脅威の有無を確認する。

 

「右……左……そして右」


 問題がない事を確認し、同じ作業をしていたアリアと視線を交わす。

 

 そして……


「行くぞ……アリア」

「はい。ジェザ」


 今年で17歳になるジェレミーと16歳になるアリアは、その右手を文句のつけようがないまでに、垂直に伸ばす。

 その右腕は、神話の時代に神に逆らった英雄が、地上から放った矢の如くであった。

 

「みんなー。おててをあげましょねー」

「はーい」


 そんなやり取りをしている幼児たちと並んで、横断歩道を無駄なまでに隙のない足取りで横断するジェレミーとアリア。


 幼児たちを引率する女性保育士が、奇異な視線を向けているのだが、二人にはそれを感じる余裕などありもしなかった


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