裸でサボテンに抱きついた男は怒られる
ジェレミーは、あてがわれた部屋のベッドに寝転がりながら、友人であるピウスとエレオノーラを描いた名作小説「ある愛の詩」を読んでいた。
だが、そのページをめくる手は、遅々として進まない。
1ページ毎に突っ込む所があって、それどころではないのだ。
「なんでこの二人は、一々詩を読んで愛を語らってんだよ……傍から見たら阿呆じゃねーか」
ジェレミーは室内の机に山のように積まれた書籍を前にしてため息を一つ吐く。
別れ際に、レネから渡された、ジェレミー達の仲間を主役に据えた小説と伝記の数々である。
やはりと言うべきか……レネもまたジェレミー達に対して過度な憧れを抱いている一人のようだった。
結局あの後も、ジェレミーは彼女の熱望に応えざるを得ず、延々と300年前の体験談を語り続ける羽目となった。
予定していた会議に現れないレネを心配した若い女性秘書官が、彼女を呼びに来た事でようやく解放された次第である。
その際に、件の女性秘書官から物凄い目で睨まれた事が、気になって仕方がなかったジェレミーである。
「まあ、この時代については追々聞けば良いか」
特段、焦る必要はないとジェレミーは思っている。
いつ死ぬかも分からないような状況に置かれているわけでもないし、何か為さなければならない事があるわけでもない。
のんびりとこの時代に馴染んでいけば良いだろう。
仰向けになって天井を見上げるジェレミー。
そこには、「電灯」と呼ばれる、この時代の照明器具が設置されている。
「魔法なしで、こんな事が出来るなんてな……」
この時代においては、魔法は廃れていると言っても過言ではない。
軍人ですら魔法を扱う事はなく、「銃」という新しい兵器を用いて戦うらしい。
剣の技量と、魔法の技術を競うのが「戦の華」だと考えているジェレミーにとっては、少々寂しい話ではある。
だが同時に、それも悪い事ではないとも思う。
必要なものは残り、不要なものは廃れる。
つまるところ、その取捨選択は、ジェレミー達の子孫が生活を豊かにしようする努力の証左でもあるのだから。
「電気ってーのは、便利なもんだよなー。魔法が使えなくても、簡単に明かりが取れるんだから」
この時代においては「科学」というものが、社会において大きな力を持っているらしい。
レネの話を聞くに、この世界ではさらに素晴らしい「家電製品」という物が存在するそうだ。
それを明日、教えてもらう予定なのだが、それが楽しみで仕方がない。
しかし、同時に申し訳なさを感じてもいた。
この時代の教皇は、以前に比べて仕事量が激増しているらしい。
昔のように、昼間から葉っぱと酒にうつつを抜かせるような状況ではないという事だ。
それにもかかわらず、ジェレミーを助けてくれるというのだから、聖職者の鑑と言っても良いだろう。
「何か、お礼でもできれば良いんだけどな」
そんな事をぼやきつつ、ジェレミーは背伸びを一つした。
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丁度その頃……。
ルーイン大聖堂では、一人の少女が静かに神に祈りを捧げていた。
少女の他に人はなく、彼女の小さな息遣いしか聞こえない。
微かな空気の流れに揺れている蝋燭の明かりは、白い質素な法衣に身を包んだ少女を幻想的に照らしている。
皇国国教会の主神である「ユリゼン」の像に跪き、身じろぎ一つせずに祈りを捧げる少女は、一つの彫像のようにすら思える。
第39代教皇レネ=フォルクルは、今年で17歳になる少女だ。
2年前……15歳という年齢での即位は、歴代教皇の中で2番目の若さである。
ちなみに、1番若いのは彼女の直系の祖先である、第27代教皇ユゼウ=ピウスなのだが……まあ、今は関係のない話である。
即位した直後こそ、その若さを心配されもしたが、現時点ではその様な懸念を抱く者は皆無であった。
皇国民からは神の代弁者として尊崇の念を抱かれており、同胞たる聖職者からは教会の旗印として敬意を抱かれている。
ジェレミーの前でこそ、怪しげな敬語と豊かな感情を見せはしたが、それは極めて希有な状況である。
事実、ジェレミーとレネの会談の場にやって来た女性秘書官は、初めて見るレネの表情に呆気に取られたほどであった。
レネは知らないが、件の女性秘書官は……レネを教皇と言うよりも「可愛らしい妹」と認識していたりもする。
現時点で、女性秘書官の詳細は省くが……ジェレミーを彼女が「物凄い目で睨んだ」というのは、嫉妬と言う感情によるものであった。
とにかく、普段のレネを周囲の人々が評するならば「物静かな人」というものが、最も多いだろう。
だがその実、レネという少女は同年代の少女に比べて、感受性が強い人物なのである。
彼女の趣味は、ジェレミーを始めとした「最初の21人」に関する伝記、小説、演劇、映画を観賞する事である。
血沸き肉踊る「戦記物」も嫌いではないが、それ以上にレネが好んだのは、いわゆる「恋愛物」と呼称される作品であった。
その「恋愛物」の中でも、特に熱を上げているのは、ジェレミーとアリアにまつわる作品であった。
それこそ、皇国内において、ジェレミーとアリアに関する作品については、自分が最も詳しいという自負すらある。
益体もない言い方をすれば、ジェレミーとアリアの「フリーク」となるだろう。
これは彼女にとっての最高機密なのだが、自作の小説すら書いている始末である。
そうであるならば、今日という日を彼女が、どれ程に待ち望んだのか想像するのは容易いだろう。
教皇に即位した後、先代教皇からジェレミーが今日この日に現れると聞かされた際の記憶は、彼女の中には存在しない。
余りの興奮と歓喜のために、そこだけに空白が挟まれているのである。
彼女としては、今日の自分は良く頑張った方だと思っている。
何を頑張ったかと言えば、憧れていた英雄を前にしても、理性を失わずにいられた事である。
もちろん、ジェレミーが聞けば「あれで、我慢してたの?」と驚くだろう。
そんな彼女は、日課である就寝前の祈りを捧げている所であったのだが……。
(駄目です……。雑念が、どうしても無くなりません……)
今までに無かった事である。
どれ程に体調が悪くとも、心を痛める出来事を知っても、祈りの時だけは空白になれた。
一度でも彼女が言う所の「空白」という状態になれば、どれだけ長い時間祈りを捧げようが体感時間としては一瞬の事でしかない。
下手をすれば、生物としての限界まで、身じろぎ一つせずに祈り続けるだろう。
しかし、それが今夜に限って出来ない。
理由は分かっている……。
(今日だけは……主もお許しくださるはず)
伝説とも言える人から、その伝説の一幕を直接に聞く事が出来る。
それは彼女にとっては、言葉に出来ない程の喜びである。
(主よ……本日も……ああ、そうだ。明日は……明日こそ、全てに人々に幸せを……ジェレミー様にサインを頂けるように頼んでみよう。争いもなく、全ての赤子が母親の……出来れば一緒の写真を撮っていただいて、現像したらそれにもサインを頂いて……)
といった具合に、祈りなのか明日の予定の確認なのか、本人ですらよく分かっていない事に思考を囚われている。
(それでも……残念でした)
そして浮かんできた思考は、彼女にとっての人生最大のがっかり体験であった。
(まさか、ジェレミー様とアリア様が恋愛関係になかったなんて……)
それは彼女にとっては、天が落ちてくるほどの衝撃であった。
先にも述べた通り、レネにとってジェレミーとアリアの悲恋は、最も心を動かされる物語であった。
皇国国教会においては婚姻は禁止されておらず、それは教皇といえど同じである。
そのため、レネはいつの日か、ジェレミーのような男性と出逢い添い遂げるという夢を未だに抱いている。
その夢の根幹が、まさに音を立てて崩れてしまったのであるから、当然と言えるだろう。
(はぁ……駄目ですね)
今の自分に呆れつつ、祈りを止めるレネ。
こういった見切りの良さは、彼女の長所とも言えるだろう。
その意味では、先祖であるピウスによく似ているのだが、それは当の本人が知る由もない事である。
そして、正にその時……レネは違和感に気付く。
彼女の正面にうっすらとした黒い霧がかかり、それが徐々に密度を濃くしていくのだ。
「まさか……転移魔法?」
その霧は、数時間前に彼女が目撃した物と、まるで同じ物であった。
「どうして……? 他に使用された記録はないのに」
やがてその霧は、徐々に一つの人影を形どる。
その人物が身にまとっているのは、白銀の鎧であった。
その鎧は潜り抜けた死線を誇示するかのように、傷だらけでお世辞にも綺麗とは言えない。
しかし、だからこそ「美しい」とレネは思った。
そして、その鎧はレネが最もよく知る人物が愛用していた物でもあった。
ある人物と共に歴史から姿を消し、絵画や文献でしかその姿を想像する事が叶わない物である。
「嘘……どうして」
目を見開き驚愕に震えるレネだったが……彼女の視界から不意にその人物の姿が消える。
「かはっ……」
その刹那レネは、鎧姿の人物に組み敷かれていた。
圧迫感と抗う事を許さない敵意が、レネの背中を抑えつけていた。
いつの間に、と問うのは無意味であろう。
「彼女」の動きなど、レネに認識する事は出来るはずもないのだから。
青生生魂という、今では製法が失われた金属で生成された剣の刃先が、レネの首筋に静かにあてがわれてる。
一瞬の静寂の後、「彼女」は静かにレネに問う。
その声は、レネが寝床で空想した「彼女」の声と、不思議なまでに一致していた。
「動くな、騒ぐな、抵抗などするな。私の問いにだけ答えろ」
脅しの言葉だというのにもかかららず、その凛とした声を聞いただけで、レネは歓喜の声を上げそうになる。
恐怖を感じないのは、レネが過大な憧れを「彼女」に抱いているに他ならない。
「一つだけ聞く……。あのバカ……げふん」
取り繕うように咳払いをする「彼女」
「閣下はどこにいる?」
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「やばい……殺される」
丁度その時、ジェレミーは的確に「彼女」の来訪を感知した。
慌てて自らの気配を殺し、敏感な「彼女」の探知能力を誤魔化そうとするが、それも長くは保たないだろう。
長年苦楽を共にした仲だ「彼女」の力量は、誰よりもジェレミーがよく知っている。
ちなみに、この「気配」を読む技術は、この時代においては夢の技術であるのだが、それは置いておく事にしよう。
当然ながら、そんな事など知らないジェレミーは、焦りの真っただ中にいた。
(どうする?)
そう考えたのは一瞬だ。
現代においては過分に美化されてはいるが、ジェレミーは曲がりなりにも歴戦の勇士だ。
その決断力は、常人のそれを容易く上回る。
「うん。逃げよう」
どこか晴れ晴れとした表情で、ジェレミーは宣言する。
戦略的撤退というのは、将にとっては最も勇気ある決断である。
しかし、それを選択するに足る脅威が、直ぐそこにあるのだから仕方がない。
先程探知した「彼女」の気配は、むせ返りそうな程の殺気を纏っていた。
(間違いなく……やられる)
何がどうなって、「彼女」がこの時代に来たのかは分からない。
だが、それを考えるのは無意味で無用な事でしかない。
必要なのは、決断と行動。
その二つだ。
そしてジェレミーが決断を終え、行動に移ろうとした時……。
「おいおい……レネがいるのかよ。最悪だ……」
ジェレミーにとっての「脅威」は、どうやらレネと遭遇しているようだ。
自分の居場所を聞き出すために脅しさえすれど、直接的な危害をレネに加えるとは考えにくい。
だからと言って……
「我に余剰戦力なし……そこで戦死せよ」
などと言えるはずもない。
自らの命と、レネへの恩。
天秤にかける必要などない。
「あー、もう。行けば良いんだろ、行けば」
歴戦の勇者は溜息と共に、絶望的な負け戦に出陣した。
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「彼女」の気配を辿り、ジェレミーは目的地へと至る。
そこは、彼がこの世界に顕現したのと同じ場所であった。
ダーレイ大聖堂。
皇国の指定遺産であり、かつ国教会の本山でもある場所だ。
ジェレミーの目の前では、「彼女」がレネを組み敷いて、尋問を開始しようとしていた。
(てか、なんでレネは微妙に嬉しそうな顔してるんだよ? もしかして、マゾか)
「彼女」は、ジェレミーの気配に直ぐに気付いたようで、レネを解放した後ジェレミーの方を向く。
長年の付き合いであるジェレミーですら、ともすれば嘆息を吐きそうな程に整った容姿であった。
翡翠を思わせるそような双眸は、視線を合わせた者の心すら吸いこんでしまいそうに澄んでいる。
腰まで伸びた蜂蜜色の髪は、思わず手を伸ばしたくなる程に艶やかであった。
「えーっと……その。怒ってる?」
へっぴり腰のまま、ジェレミーが「彼女」に間抜けな質問をする。
当然ながら、その問いは「彼女」をさらに怒らせる。
「ええ、とても」
(不味い……完全にキレてる)
数多の男からすれば「彼女」の浮かべている笑みは、ずっと見ていたい程に魅力的なものだろう。
どんなに上等な酒よりも、深く強く男を酔わせるに違いない。
だからこそ、と言うべきか……ジェレミーにとっては、その笑みが恐ろしくて仕方がない。
「アリア……とりあえず剣を降ろさない?」
視線だけでジェレミーを殺しかねない、妹分にジェレミーは提案した。
微動だにしない切っ先は、ジェレミーに向けられている。
一瞬でも目をそらせば、そのまま突き殺されかねないとすら思える。
「そうですね……。これは少々物騒すぎます」
一つ頷いた後、流麗な動作で愛剣を鞘に納めるアリアを見て、ジェレミーは嘆息を漏らすのだが……その油断がいけなかった。
「ごふっ……」
認識できない程の速度で、ジェレミーとの距離を詰めたアリアの拳が、彼の腹部に深々と突き刺さった。
「おおう……もう……」
その場に倒れこみ、うめき声を上げるジェレミー。
とっさに魔法で肉体を強化していなければ、確実に内臓の2、3個は壊されていただろう。
「うわっ……痛そう……」
そんなレネの声が聞こえてくるが、今のジェレミーには答える余裕がない。
「いくら……なんでも……これは酷くないか?」
「副官に一切の相談もせずに、あのような事をしでかした人が言いますか?」
基本的にアリアは、口よりも先に手が出るタイプの人間である。
理不尽な事で怒りはしないが、一度怒れば理不尽なまでの制裁が待っている。
「いや……これでもお前の事を考えてだな……」
ようやくダメージが回復しつつあったジェレミーは、ゆっくりと立ち上がる。
「考えた? 何をですか?」
投げつけられる言葉は抑揚のない調子であったが、当然ながらそれは表面上のことでしかない。
「だから、相談すれば迷惑になると思ったし……。何より、ついてこようとしただろう?」
確信を持った上での発言であったが、アリアはわざとらしくため息を吐く。
次いで聞こえてきたアリアの返答は、ジェレミーが予想だにしなかったものだ。
「何を自惚れているのですか? ついてなど行くはずがありません」
そして、ジェレミーとの距離を一歩だけ縮めるアリア。
「閣下が熟考し判断なされたならば、それに従うのが私の役目です」
考えてみれば、そうかもしれない。
ジェレミーの記憶において、アリアが彼の決断に抗った事はない。
どんなに荒唐無稽で無謀でも、一生懸命説得すれば「しょうがないですね……」とため息交じりに同意してくれたものであった。
「じゃあ、なんで来たんだよ……。ついて来るつもりはなかったんだろう?」
不貞腐れたように視線を外そうとするジェレミーだったが、アリアは両手で彼の両頬を挟んでそれを許さない。
「勝手に私の心を想像して、的外れの結論を出した揚句、何の言葉も残さずにいなくなった、馬鹿な兄貴分に一言文句を言いに来ただけです」
正面からジェレミーを射抜く、アリアの双眸には怒りと呆れが混在した複雑な感情があった。
「概ね、閣下の判断は間違えていないでしょう。当時、皇国においては、必要不可欠な出来事だったと思います」
「だったら……」
「私が怒っているのは、私がそれを判断できないような愚か者だと、閣下が結論付けた事です。もしも、私に全幅の信頼を置いているならば、然るべき手順を踏んで、私に後を託すべきだったのではありませんか?」
アリアの反論を聞いて、ジェレミーは口をつぐまざるを得ない。
馬鹿みたい話であるが、「ぐうの音も出ない」というのが、この時のジェレミーを表すにうってつけの言葉であるだろう。
先程アリアはジェレミーを「自惚れ」と表現した。
その言葉が、酷く彼の心を苛んでいるのだ。
それはつまり、彼がアリアを過小評価していたという事に他ならないのである。
「それを踏まえた上で、お聞きします。私に何か言うべき事があるのでは?」
流石に、ここまで言われて選択を間違える程、ジェレミーは間抜けではない。
「ごめんなさい……」
子供のように素直な言葉と仕草で、自らの過ちを謝した後、ジェレミーは顔を上げる。
「それから……また会えて嬉しいよ、アリア」
「はい。私もです、閣下……」
そして今度こそ、心からの笑みを浮かべるアリア。
「本当に、しょうがないですね……」