友人の子孫と語り合う その1
どうにかこうにか入浴を終えて、再びレネと相対するジェレミー。
通されたのは、彼女の執務室であり、応接セットに対面する形で腰掛ける。
教皇という地位にあるにも関わらず、レネの執務室は質素と形容するしかないものであった。
特段の装飾も、過度な調度品もなく、必要最低限の物しか室内にはない。
当然ながら、ジェレミーの悪友である十数代前の教皇のように、葉っぱだったり、酒瓶は散らばってはいない。
執務室の壁には、大型の本棚が置かれており、所狭し書物が納められている。
ピウスの執務室しか知らないジェレミーとしては、奇妙な感覚を抱いてしまう。
悪友たる教皇が書物を読んでいた所など、ジェレミーはついぞ目撃する事はなかった。
先程からずっと、レネはどこか落ち着かない様子であった。
何度か口を開きかけるものの、彼女は結局何も口にする事が出来ないでいる。
さて、どうしたものか……?
向こうから説明してもらえると、ジェレミーとしては有難いし、何より話が円滑に進むだろう。
しかし、どうにもそれは望めないようだ。
「あのさ、この服なんだけど……」
とりあえず……と言った感じで、話題を提供するジェレミー。
「あっ……申し訳ありません……」
何故かは分からないが、レネが柳眉を寄せて俯いてしまう。
「えっ……? どうして謝るの?」
ジェレミーとしては、こんなに高価な服を与えてくれた事に礼を言おうとしたのだが……。
「ジェレミー様にとっては、粗末な服かもしれませんが……」
「粗末……? この服が?」
両手を広げて自らの着ている服を眺めるが、粗末どころか極めて緻密な裁縫によって仕立てられた一級品にしか見えない。
「こんなに上等な服なんて、そうそう見られるものじゃないよ。むしろ、こんな服を着せてもらえて恐縮するくらい。高かったでしょ?」
「いえ、むしろ安価だと思います……」
「えっ……? 安いの? この服が?」
「はい。量販店で一着1000ルピア程度の物です」
「1000ルピア? それって何?」
そこでレネはようやく気付いたらしい。
300年という時間の長さを。
「ルピアというのは、100年ほど前から使用されている通貨の単位です。えーっと、300年前は……」
「シュルツ金貨、シュルツ銀貨、シュルツ銅貨だったね……」
「そうでしたよね……。えーっとですね。どう言えばいいのかな?」
「パン一切れって、今いくら? 多分、それで比べれば良いと思う」
「そ、そうですね。現代ではパン1枚で……大体100ルピアです」
(つまり……この服はパン10切れということか。確かに安い……って!?)。
と考えたジェレミーだったが、慌てて計算をし直す。
しかし、何度計算しても結果は変わらない。
身につけている服が、10切れのパンと同価値だとは、彼にとっては信じられない事であった。
300年前ならば、金貨2枚程度の価値があって然るべきレベルの物なのだ。
「へっ……? 本当? これが……パン10切れ?」
冗談だろうと思うものの、当のレネはえらく真面目な表情をして頷いている。
この世界の常識と300年前の常識には、天と地以上の差がある事を改めて痛感するジェレミー。
ただの会話のとっかかりだったはずが、予想以上に気力を削る結果となってしまった。
疲れたように椅子の背もたれに体を預けていると、心配げにレネがこちらを伺っている。
「お疲れですか?」
「いや、そういうわけじゃないけど。ちょっと驚いただけ」
気を取り直して姿勢を正し、本題に入る事を決意するジェレミー。
すると、それを察したかのようにレネが先に口を開く。
「まずは、先にも申し上げましたが……ジェレミー様がいらっしゃるのは、300年後の未来です。これは……」
「大丈夫。信用するよ」
と言うよりも、信用せざるを得ない。
レネが皇国語を話している事や、ルーイン大聖堂が存在する事、この世界の未知の技術などを鑑みれば、そうなってしまう。
そして何より、目の前の少女が嘘を言っているようには見えない。
別に、ジェレミーが可愛らしい女性に甘いとか、特別にお人好しと言う訳ではない。
他人の嘘を見抜く技術に長けていると、自負しているだけなのだ。
と言うよりも、そういった嘘を見抜く技量がなければ、彼はとうの昔に命を落としていただろう。
「あ、ありがとうございます」
頬を上気させて、感極まったようにジェレミーの手を握ってくるレネ。
「いや、そこまで喜んでもらっても」
可愛らしい少女に手を握られて悪い気はしないが、少々行き過ぎている感がある。
「も、申し訳ありません……。あの……その。ずっと、憧れていましたので」
唐突な告白であった。
「へっ? 誰に?」
「ジェレミー様です」
はにかむようなレネの返答を咀嚼し、消化するまでたっぷり5秒はかかった。
「俺に……憧れている? 反逆罪で『異世界送りに』なった俺に?」
しかし、レネは熱い視線でジェレミーを見つめるだけだ。
その視線にジェレミーは、覚えがあった。
それは彼が『演じた』罪が露わになる以前は、幾度となく向けられた視線だ。
尊敬、尊崇、崇拝……そういった類の感情が込められた視線なのである。
「義兄を誅して、皇位を簒奪しようとした俺に?」
どこか皮肉気な口調で、ジェレミーは肩を竦めてみせる。
「確かに、150年程前までジェレミー様は、皇国一の不忠者という誹りを受けていました……」
「と言う事は、今では違うの?」
そこまで言って、ジェレミーは気付く。
彼がいた時代においても、こと「歴史」という物の解釈は、時間と共に変わるものだ。
学者が口にする「歴史の真実」と言うものは、得てして後世になって明らかになるものだ。
「ああ、そういうことか……。あれが『演技』だった事は、いつ頃分かったの?」
この国の歴史学者は中々に優秀らしい。
自分で言うのも何だが、あの一世一代の「芝居」は、極めて綿密な脚本の元に演じられたものだ。
ジェレミーの真意を示唆する資料、証言といったものは、なるべく残さないようにしていたのだが……。
「そうですね……100年程前でしょうか」
(割合、頑張った方なのかもな……)
だが、それならば問題ない。
大事なのは300年前の時点……正確に言うとジェレミーの義兄の治世において、それが露見しなければ良いのだから。
だからこそ、ジェレミーはレネに、どうしても聞きたい事があった。
「ちなみにさ……」
あえて何でもない口調で、ジェレミーはレネに言う。
「兄貴は……その……。上手くやったのかな?」
視線をさまよわせながら問うたジェレミーに対して、レネは柔らかな笑みを浮かべる。
「はい。現代では『賢王』と称されている方ですので」
「そっか……。それなら、問題ないな」
彼にとって大事なのは、その一つに尽きる。
とは言っても、そうであろうという予想はあった。
皇国が健やかに成長していなければ、300年後も存続し、先に体験したような謎の技術を社会は手にしていないだろう。
それを確認できただけで、ジェレミーとしては満足だった。
掛け値なしに、このまま死んでも構わない、そう思えるほどであった。
しばしの間、満足感に浸っていると、ふと疑問が頭に浮かんでくる。
第三者的視点から見れば、極めてクリティカルな疑問である。
「どうして、俺はこの時代にいるんだ? 異世界送りになったはずなのに」
「ピウス様を始めとする方々の意志かと思います。異世界送りが、歴代教皇しか使用できないのはご存知ですよね?」
「ああ、知ってるよ。むしろ、異世界送りが使えるから、教皇になるんだよね?」
「はい、その通りです。そして、その異世界送りですが……正確に言うと『2つ』の種類があります。もちろん、この事は、歴代教皇と歴代皇帝陛下しか知りません」
なるほど、とジェレミーは得心する。
「文字通り『異世界に送る魔法』と、『未来に飛ばす魔法』。この2つがあるってこと?」
「はい。そして、ピウス様が使用なされたのは後者です」
「だったら、俺に言ってくれれば良いのに」
そんな恨み事が、ジェレミーの口から洩れたが、直ぐに否定する……。
「駄目だな……本当の事を言われたら、頷かなかったな」
300年後の異世界に送ると言われたら、全力を以って抵抗しただろう。
過去の人間である自分が、未来に行くということは、極めて重大な意味を持つ。
言ってしまえば、ジェレミーは異分子だ。
未来の世界にとって、決して好ましい存在とは言えない。
しかし、異世界送り以外の刑に処す事もまた、難しいと言わざるを得ない。
例えば、罪一等を減刑して、死刑にすることなど出来るはずもない。
あの時、一番大事だったのは「義弟だろうが、歯向かえば厳しくに処断する」という意思を示す事だったのだから。
その意味では、民衆の前で「異世界送り」に処するのが、最も効率的かつ唯一の方法だと言える。
となれば、最後のピウスの言葉も得心できる。
「あいつらが作った未来か……」
そう考えれば、ピウス達の采配に対して、感謝の念すら浮かんでくるから不思議なものである。
それと同時に、ジェレミーの思考が切り替わる。
どうして、この世界にいるのか? その疑問を消化する事は出来た。
ならば次に考えるべき事は……
「俺が、ここにいる事を知っているのは?」
「私と皇帝陛下の二人だけです。ジェレミー様が300年後に現れる事は、歴代皇帝陛下、そして歴代教皇にのみ口伝として残るだけですので」
となれば、下手なしがらみは存在しないという事になる。
ここにいるのは、かつてのジェレミーではなく、全くをもって別の人物だということになる。
「てことは、俺は自由にしても良いってことだよね?」
つまるところ、重要な点はそれである。
自由に過ごすとは言っても、ジェレミーはこの時代において、名声と上げるだとか、権力を握るといった事に興味はない。
むしろ、静かに、平穏に過ごしたいと思っている。
自分で言うのもなんだが、300年前はかなり働いたと思っている。
少しくらい、ゆっくり休んでも罰は当たらないだろう。
「お心のままに、お過ごしください。とは申しましても、300前とは時代が変わっておりますので、何かとご不便かと思います。可能な限り、私と皇帝陛下からご助力させていただこうと思っております」
「てことは……。一回、皇帝陛下に会った方が良いのかな?」
支援を受けられるなら、それは有難い話だ。
このまま着の身着のままで、独力で生きていけと言われても、中々に困難というものだろう。
流石に助けてもらうならば、それなりに義理を通すべきかとジェレミーは思う。
「そうですね……。皇帝陛下も、ジェレミー様と是非お会いしたいと仰っておりましたので。可能ならば、私の方で調整しようかと思いますが」
「本当? それなら、お願いしようかな」
ジェレミーの願いに、レネは嬉しそうに口元を緩ませる。
ジェレミーの役に立つのが、それほどに嬉しいらしい。
そんな彼女を見てこそばゆさと、少しの申し訳なさを感じてしまうジェレミー。
「ちなみにさ、今の皇帝陛下ってどんな人? 何歳くらい?」
「そうですね……。今年で25歳になられる、とても素晴らしい方です」
「若いね。兄貴と同い年だ」
「ええ、そうなりますね。臣民からの人気もありますし、顔立ちもグラハム様に似ていると言われていますね」
似ているどころか、瓜二つと言って良いのだが、それをジェレミーが知るのはもう少し後の話になる。
「へえ、それは会ってみたいな……。うん? となると、俺の子孫でもあるのか」
義兄の子孫であるならば、傍系ではあるがジェレミーの子孫と言う事になる。
そう考えると、どこか奇妙な感覚を抱いてしまう。
「となると、他の奴らの子孫もいるってことか……。うん。そいつらに会うのも面白そうだ」
友人達が、あれからどのように過ごし、どのような子孫を残したのか。
それを知るのは、この世界にいる者の特権と言えるだろう。
「あの……ちなみにですけど……」
おずおずと言った様子で、遠慮がちに右手を上げるルネ。
ジェレミーが視線を向けると、何かを決意したように一息に言う。
「私は、ピウス様の子孫に当たります」
言葉の意味が分からずに、しばらく呆然とするジェレミー。
300年後に飛ばされた、という状況ですら、割合素直に受け止める事が出来た。
しかし、レネの告白にはそれ以上の衝撃があった。
「嘘……。レネが……ピウスの子孫?」
「はい。15代目の直系です」
「それは……母方の親戚が、聖人だったんだろうな」
あの破壊僧と目の前の少女は、似ても似つかない存在だ。
葉っぱも吸わないし、酒もやらないだろう。
絵にかいたような、敬虔な聖職者と言っても良いだろう。
「いや、それ以前に……あいつと結婚するなんて、勇気のある女性もいたもんだな」
何より、あの男と結婚する気になった女性がいること自体に驚かされる。
友人として付き合うなら面白い男だったが、2等親以内にいて欲しくない男でもあった。
「ピウスと結婚した、豪気な女性って誰?」
「ピウス様の奥方は……エレオノーラ=ハンクス様です」
「冗談……」
レネが口にした女性は、ジェレミーの義姉である、当時の皇后陛下の付き人であった女性である。
下手な貴族よりも高潔であり、公序良俗を何より重んじる……ジェレミーが知る限りでは、この国一番の堅物でもある。
確かに顔立ちは整っているし、堅物な所に目を瞑れば、よき伴侶となるだろう。
しかし……いや、だからこそ……あのピウスと結婚するとは考えられない。
「何がどうなったんだ……? あの二人が結婚? ありえないって。ピウスが手籠めにでもしたのか?」
「文献によれば、ですが……。元々、エレオノーラ様は、ピウス様をずっとお慕いなさっていたようです」
「……うっそ。そんな素振り、全然なかったぞ」
あの二人の絡みで思い出されるのは、「皇宮で葉っぱを吸って、エレオノーラにしこたま怒られている教皇ピウスの図」くらいなものである。
傍から見ていれば、かなり相性の悪い二人だったのだが……。
「えーっと、その二人が結婚したのはいつになるの?」
「ジェレミー様がこの世界に飛ばされてから、一年と言ったところでしょうか」
「詳しく聞いても良い?」
野次馬根性が鎌首をもたげてきて、ジェレミーは思わず身を乗り出す。
口元には、意地の悪い笑みが浮かんでおり、親友の色恋沙汰で楽しもうという気が満々であった。
しかし、レネは顔を赤くしたまま、言葉を紡ごうとしない。
「あの……ちょっと、私の口から話すのは憚れると申しますか……そのですね……」
しばらく漂っていたレネの視線であったが、部屋にある本棚の一角でそれを止める。
「これを、お読みになられた方が良いかと」
立ち上がりレネが、本棚から取り出したのは一冊の本であった。
それを受け取ったジェレミーは、その本を構成する紙の上質さに舌を巻く。
「凄いもんだな、300年後の技術ってもんは」
そう言いながら、表紙に踊る本の題名を見て固まった。
「ある愛の詩……? 何これ?」
「ピウス様とエレオノーラ様の、お姿を描いた小説になります。詳細な歴史考証と鮮やかな文体で、発行と同時に大増刷がかかった人気作です」
「いや、しかし……それにしても、この題名は……」
何と言うか……見ている方が恥ずかしい。
なまじ主役級の二人と懇意であっただけに、赤面してしまう。
「是非お読みください。私も、この小説が大好きなんです」
やや興奮気味に語るレネに促されるように、小説をめくるジェレミー。
「こ、これは……」
適当にめくったページであったが、早くも読むのを断念したくなる。
そのシーンは、ピウスとエレオノーラが人目を忍んで逢瀬する、と言ったものなのだが……。
(あの二人……こんな言葉遣いしねーぞ……)
ピウスは貴公子然とした好成年で、やけに美化されて描かれている。
翻ってエレオノーラは、思い人に素直に慣れない、いじらしい女性として描かれている。
(いや、これ……絶対に嘘だろ。話を盛ってるぞ……かなりの割合で)
と思うジェレミーであるが、レネはそんな彼に熱い視線を向けている。
「やはり、ピウス様とエレオノーラ様は、こういった方だったのでしょうか?」
「こういった方っていうのは……。深夜の大聖堂で、お互いに詩を読んで、愛を語らうってこと?」
「はい、そうです」
(いや……それはないだろう)
確かに、二人とも詩に関して造詣が深かった。
一度、詩を用いての会話をしていたが、その内容は極めて剣呑なものだった。
流麗な文体と、緻密な韻を用いた、聞くだけならば素晴らしい詩ではあったのだが……。
よくよく詩を分析すれば、暗喩を用いて罵り合うといった極めて高度な口喧嘩でしかなかった記憶がある。
だが、目の前の少女は、そんな事など知る由もない……。
当然ながら、そのような夢見る少女を悲しませるほど、ジェレミーは意地が悪くはない。
「ま、まあ……そんな感じだね。うん」
「やっぱり、そうだったんですね!」
「あ、ああ……。今になって思えば、エレオノーラもピウスに惚れていた様にも思えるな」
胸の前で祈るように両手を折る少女を前に、ジェレミーは乾いた笑みを浮かべることしかできなかった。