ここはどこでしょう?
まとわりついていた霧が徐々に晴れていく。
異世界の輪郭がはっきりしていくにつれて、ジェレミーは全神経を研ぎ澄ましていく。
「ピウスが何を言ってたか分からないけど……」
最後に聞いた親友の言葉には理解不能な点があるが、とりあえずは置いておく。
そんな事に思考を割いて、命を落としたら笑うに笑えない。
問題は、この世界が生きていくに可能な土地かどうかだ。
「異世界送り」が執行された事は、ジェレミー以前にはなく、当然ながらどのような世界に飛ばされるのかは未知なのである。
いきなり目の前に化け物がいるかもしれないし、臓腑を腐らせるような空気に満ちた世界かもしれない。
まあ、その場合は……諦めるしかないか。
とは言っても、生きる努力はするべきだ。
ジェレミー自身は、死ぬ事を恐れてはいないが、決して自殺願望があるわけではない。
そして、完全に霧が晴れたのだが……。
「あれ……?」
彼の視界には、だっだ広いホールが広がっていた。
しかも、そのホールには見覚えがある。
無駄に高い天井には皇国国教会が崇める聖書の一場面が描かれている。
その天井を支えているのは、合計27本の大理石の柱であり、その一本一本には、天井と同様に聖書の一場面が刻まれている。
絵画にする事が不可能、とすら称される緻密な細工がふんだんに使われた装飾であった。
「ルーイン大聖堂……?」
ジェレミーの口から洩れたのは、先程までいた刑場から徒歩で二十分ほどの地点にある、皇国国教会の本山とも言える場所である。
「なんで……こんな場所に?」
必死に頭を回転させるジェレミーに、ふと声をかける者がいた。
「お待ちしておりました。ジェレミー=ヴィルヌーブ様。ご尊顔の拝謁する栄誉を賜りまして、身に余る光栄に存じます」
柔らかく、どこか陽だまりを覚えさせるような声だった。
声の主の年齢は、二十代……いや、十代後半と考えた方がしっくりくる。
質素な法衣に身を包み、凛とした佇まいの少女であった。
銀色の柔らかそうな髪が、窓から差し込む夕陽をきらきらと反射させている。
本物の銀糸でできていると言われても、納得してしまうだろう。
顔立ちは、その優しげな声と同様に、見るものに安心感を与えるようなものだった。
信仰心が薄いジェレミーですら何度か見た事のある、聖母像とダブるような感覚を抱かせる顔立ちであった。
とは言っても、ジェレミーにとっては理解不能な状況であった。
異世界に流れたと思ったら、まともな人間が存在するし、彼に理解可能な言語……つまり皇国における共通語を話している。
そして何よりおかしいのは、流れ着いたこの場所である。
一つだけ安心できる事があるとすれば、前の前の少女……恐らくは聖職者……に敵意が感じられない事だ。
それどころか、ジェレミーに対して親愛という単語を、これでもかという程に発散している状況だ。
「俺を……知ってるのか?」
最初の言葉は、どこか間抜けな調子のものだった。
しかし、問いかけられた少女は、壊れた玩具のように何度も首を縦に振る。
「もちろんです! ジェレミー=ヴィルヌーブ様を知らぬ者など、この国にはおりません!」
ぐっと拳を握り、テンション高めで返答する少女。
彼女の表情は、どこか興奮気味であり、熱い視線をジェレミーに向けている。
視線を正面から受け止めたジェレミーは、どこか気圧されたように一歩下がってしまう。
「そ、そうか……。えーっと……」
さて、何から聞けば良いものか?
とりあえず、目の前の少女との意思疎通は、十分可能だと理解して良いだろう。
ならば、最初に為すべきことは友好関係の構築。そして、それに必要な情報とは……。
「とりあえず……」
相手の名前を尋ねようとするジェレミーだったが……。
「あっ、申し訳ありません!」
ジェレミーの視線を受けて、少女が勢いよく頭を下げる。
「レネ=フォルクルと申します。不肖の身なれど、皇国国教会第39代教皇の任を託されている者です」
第39代教皇……?
後頭部を鈍器で殴られたような衝撃が、ジェレミーを襲った。
現時点でも混乱しているのに、それ以上に理解不能な情報が提示されたのだ。
「ピウスが……27代教皇だったはず」
顎に手を当てて呟くジェレミーに対して、レネは何度も頷いている。
あの悪友から流れる事、12代目の教皇を称する者が目の前にいる。
1代の教皇の在任期間は、平均で三十年弱だったとジェレミーは記憶している。
となれば……。
「あのさ……ちょっと聞きたい事があるんだけど」
まずは事態を整理しよう……。
幸いにして、目の前のレネは、ジェレミーの問いには答えるつもりはあるようだ。
投げられる問いを、今か今かと待っている様子だ。
友好的……いや、それ以上の感情を彼女が持っているのは気がかりではあるが、不利益になはらないだろう。
「ここは……ルーイン大聖堂で良いよね?」
警戒を緩めて、柔らかい普段通りの口調で問うジェレミー。
「はい。ルーイン大聖堂です」
「ということは……ここはダーレイ皇国?」
「仰る通りです」
ここまでは、予想通り……。
納得はできないが、理解はできる。
理由も分からないし、何が起きたかも分からない。
しかし、この状況を受け入れざるを得ないだろう。
「じゃあさ、今の皇歴って何年?」
レネはたっぷりと5秒の時間をかけた後、胸に手を当てて柔らかく、かつ簡潔に回答してくれる。
「1948年です」
「冗談だよね……?」
「はい。現在は、ジェレミー様が姿を消されてから、300年経っております」
レネの言葉に対して、ジェレミーは呆けたように、ぽかんと口を開けることしかできなかった。
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さて、その後は慌ただしかった。
色々と質問したい事はあったのだが……
「ご質問には、誠意を以ってお答えしますが……。これ以上、ジェレミー様を、そのようなお姿にしておく事はできません」
敬語になってるんだか、なってないんだか良く分からないレネの台詞には、抗いきれぬ強制力があった。
もちろん、ジェレミー自身に、唾液と血で汚れたままでるのは、ご免こうむりたいという思いはあった。
レネに呼び出された僧達の案内により、大聖堂内に隣接する僧院の浴室へと向かうジェレミー。
彼を案内する僧達は、一様に質素な僧服に身を包んでおり、悪友の遠い弟子とは、とても思えない。
明らかに不審なジェレミーについては、レネが何がしかの説明をしていたらしく、特段の警戒を見せる事はなかった。
それどころか、何やら同情的な視線すら送ってくる。
(レネは、俺の事をどう説明したんだ……?)
とても気にはなるが、尋ねれば藪蛇となりそうな気配があった。
さて、案内された僧院であるが、大聖堂とは異なりジェレミーの記憶とは全く違う物になっていた。
まずは、建物自体の材質そのものが違う。
触ってみた感じでは石に近いのだが、どこか違う。
恐らくは、ジェレミーの知らない技術によって作られたものなのだろうが……
(魔法で作られたわけじゃないな……。波動が感じられない)
となれば、手作業で生成したことになるのだが……。
岩よりも固い材質を、いかにして建築資材たる形に切りだしたのか……全く予想が出来ない。
そして何よりジェレミーが驚いたのは、廊下に規則正しく配置されたガラス窓であった。
見た瞬間は、ガラスがそこにある事にすら気付かない程に透明であった。
これほどに見事なガラスは、ジェレミーがいた時代には、皇宮にすら存在しない。
300年という時間の流れは、ジェレミーの常識や予想、と言ったものを軽々と越えているらしい。
それは、通された浴場も同様だった。
「何だよ……これ?」
ジェレミーが知っている「浴場」とは違うものが目の前に広がっていた。
彼の知っている時代にも、大型の「浴場」はあった。
ただし、それらは極めて限られた者しか所有する事が出来ないものだ。
一部の貴族、裕福な商人……とにかく金がある者達だけだ。
「すげーな。教会って金持ちになったんだ……」
ジェレミーは知らないが、目の前にあるのは、この時代にしてみれば質素な共同浴場である。
しかし、300年前の人間からすれば、それでも豪華以外の何物でもない。
温かいお湯が張られた大きな浴槽。一体、どのような原理で、これほどに多量のお湯を保温しているのだろうか?
魔法を使用している形跡はない、かと言って火を焚いている様子は見られない。
全くをもって謎である。
そして、浴槽の脇にある、謎の装置は一体何なのだろうか?
謎の管が、金属製と思われる奇妙な物体の後部から伸びている。
管を触ってみると、何やら弾力のある物質で出来ているのが分かった。
その管は、これまた謎の金属製の装置に伸びている。
そして、その金属製の装置の両脇には、捻り口が二つある。
恐る恐る、ジェレミーが捻り口の片方を捻ってみると……
「うわっ……何だよこれ」
謎の器具の先端から、お湯が発射(ジェレミーの感覚では)された。
慌てて数歩下がった後、怯えつつ捻り口を元に戻すジェレミー。
すると、お湯があっさりと止まった。
シャワーと言う、極々ありふれた物なのだが、ジェレミーにとっては未知の機械でしかない。
また、よく分からないのは、その装置の近くに置かれた、一見すれば瓶のような物だ。
しかし、触ってみた感触は奇妙なものであった。
柔らかくも固くもなく、ジェレミーの知らない素材で作られているようだ。
頭の部分を押してみると、粘性の高い白い液体が飛び出してくる。
見た目だけで言えば……極めて卑猥な液体に思えてくる。
「いや、まさか……それはないよな」
恐る恐る鼻を近づけて嗅いでみると、何やら良い香りがする。
「香水……かな?」
だがしかし、それを手で弄ってみると、やおら泡立ち始めてしまう。
この時代では「シャンプー」と呼ばれるものだが、ジェレミーにとっては、どのように使うのか見当もつかない。
下手な物に触らぬ方が良いと結論付けたジェレミーは、大人しく無害そうな湯船につかる事にする。
「しかし、すげーもんだな……」
詳細な使用方法は分からないが、それらを把握すれば、先程の謎の装置も便利な物なのだろう。
良く分からない香水みたいな物も、きっと何らかの使い方があるはずだ。
「まあ、使い方なんて後で聞けば良いか……」
丁度その頃、ジェレミーを送り出したレネが、浴室の使用方法を伝えていなかった事に気付くのだが、それはまた別の話だ。
何とか体を綺麗に洗った(石鹸などを使用せずに)ジェレミーは、浴室を後にして、案内役の僧から渡された服に着替える事にするのだが……。
「──この服、馬鹿みたいに高いんじゃないのか?」
服の縫い目は、それこそジェレミーが見た事がない程に細かく、またしっかりとした物だ。
これ程の服を仕立てたのは、かなり腕の立つ職人なのだろう。
ざっと頭の中で、予測される売値をはじき出すが、直ぐにそれを消去する。
知らない方が、良い事もこの世にあるのだと、割り切る事にしたのだ。
しかしながら、その服はジェレミーが考える程に高価なものではない。
そこら辺の量販店で販売している、極めてチープな既製品なのである。
むしろ、ジェレミー程の年齢の少年であれば、ダサいという三文字で片付けるような物である。
そんな安物なのだが、ジェレミーは畏れ多い気持ちを抱きながら、袖を通すのであった。