初めてのおつかい 幕間
時間は、ジェレミーとアリアが「ドシドシスーパー」へと到着した頃に遡る。
カーテンが閉め切られた暗い部屋だ。
広さだけで言うならば、それこそ「ムダ」という形容詞を付けても構わないくらいだろう。
しかしながら、実際には「会議室」と形容する以外にない程、機能的かつ無駄な装飾のない部屋である。
悪く言えば、極めて無機質で、冷たい印象を与える部屋であった。
その部屋の中央に置かれているのは、1つの円卓だけである。
円卓自体は歴史ある物なのだが、無機質な会議室に置かれてしまえば、タダの丸い机でしかない。
そして、そこに座るのは、ダーレイ皇国国教会の頂点に立つ30人の聖職者。
皇国にある全29の教区のトップ、そして彼らを束ねれる神の代弁者が、そこにはいた。
会議の名前は「ダーレイ皇国国教会 全教区連絡定例会議」という無味乾燥な物であり、それに比例するかの如く中身も味気ない物である。
各教区の信者の増減、奉仕活動の方針、浄財の増減などを、既に用意された原稿に従って話し合っていく、というものでしかない。
どのような会議でも似た傾向があるが、出席者が高レベルになるに従って、話す内容は事前に決まっている事が多い。
現在開かれている会議もまた、その例に漏れないのである。
厳めしい顔をした一人の大司教が、低く張りのある声で、お抱えの秘書官が用意した原稿を読み上げている時……
「はぁ……」
か細いため息が、会議室に響いた。
どよめく室内。
彼らが動揺するのは当然である。
そのため息の主は、これまで「どのような会議」でも熱心に参加し、発言をしていた人物なのだから。
例え、今現在出席している会議が、既に1から10まで決まっている物だとしてもだ。
「はぁ……」
そして、再びのため息。
その主は、皇国国教会第39代教皇であるレネ=フォルクルであった。
彼女が周囲の動揺に気付く様子は見られない。
これもまた、異常な事であった。
この会議の首席者の何人かが「まさか、猊下によからぬ事が……?」などと、想像するのも無理はない。
この会議が始まった時から、レネの様子はおかしかった。
妙にそわそわしているし、どこか上の空である。
そして先程は、ため息まで吐く始末だ。
「えー、では……我が教区における治安の悪化は、信徒数の減少によるところが……」
咳払いをした後、資料を再度読み上げ始めるのだが……。
「はぁ……」
三度のため息で、中断する事となる。
またもやざわめく室内。
この時レネの胸中を占めていたのは、言うまでもなくジェレミーとアリアの2人であった。
果たして彼らは無事に買い物が出来ただろうか? 果たして無事に戻って来てくれるだろうか?
先程まで秘書官であるチェルシー=バーネットと談笑をしていたために、そのような心配事は薄らいでいた。
しかし、この会議室のような暗く陰鬱とした雰囲気に身を置けば、いくらレネといえども悪い方向へと思考は流れていく。
彼女の名誉のために補足するならば、もしも心配の種がジェレミーとアリアでなければ、これ程まで憂鬱になる事はなかっただろう。もしも、今日の会議がもう少し実りがあり、レネの意識を惹きつけるに足るものならば、こうならなかっただろう
出席者達のざわめきが納まった後、レネの右隣に座る最高齢の教区長であるティル=ランダース帝都大司教が、温かみのある声で問う。
「猊下。お体が優れないので?」
「えっ……あっ、先生……私がどうかしましたか?」
問われたレネは、数年前まで使用していた「先生」という呼称で、ティルを呼んだ。
このティル=ランダースという老人は、国教会における序列2位あると同時に、レネの神学の師匠でもある。
「聖職者」に限って言うならば、レネが最も尊敬する人物で間違いない。
それ故だろうか。レネはティルの事を、同じ聖職者になった時から、「先生」ではなく、その位階で呼ぶ事にしていた。
恐らく、それは「けじめ」とか「通過儀礼」とでも呼称できる事なのだろう。
だからこそ、それを師であるティルは、好ましく思っていた。
愛弟子が一人で立ちあがったのだ、これに勝る喜びなどないだろう。
しかし……。
その彼女が、ティルを「先生」と呼んだのだ。
しかも、それを本人は自覚していない。
彼にとっては、正に驚天動地の出来事である。
だが、何とかその狼狽を表に出さない事にティルは成功した、。
「お体が優れないのかと、お尋ねいたしました」
「私……がですか? その様な事はありませんが」
まるで今までの自分など、全く認識していない様なレネの仕草であった。
「猊下……先程のアモット大司教の報告を、お聞きになっておりましたか?」
先程、レネのため息によって報告を中断された者の名を口にするティル。
「はい。聞いていました。犯罪率の増加が、信徒の減少と相関関係にあると……」
どうやら話自体は聞いているようだ、とティルは認識する。
「では、それに対する意見はございますか?」
「そうですね……」
そして始まったレネの提案は、その場にいる全員を頷かせるには充分なものであった。
しかし、結局……レネのため息はそれから5分に1回は会議室に響く事となる。
だからこそ、会議が終わるまで、出席者の意識は憂鬱そうな教皇へと向けられるのだった。
**********************************
会議が終わった後、ティルにおずおずと尋ねる者がいた。
「翁……猊下はどうなされたのでしょうか?」
レネが出て行ったドアを見つめながら、そう問うたのはアモットであった。
最も懇意にしているティルならば、何か心当たりがあるのでは……そう思っているのだろう。
それはどうやら、この部屋にいる全員の思いと同じようで、ティルに縋るような視線を向けている。
「会議が終わった後、急いだご様子で退室なされましたし……」
普段ならば最後まで会議室に残るのは、レネと相場は決まっているのだが、今日は違った。
普段にはないレネの奇妙な様子を心配した出席者達が、彼女に声をかけようとするのだが……。
「申し訳ありません。この後、所用がございますので」
慌ただしく頭を下げた後、ポカンとしている出席者を尻目に、そそくさと退室してしまう。
そのような状況で、レネを心配するなというほうが難しいだろう。
「正直な話……分からん」
ティルとしては、そう答えざるを得ない。
彼自身、戸惑っていたのだ。
見た事のない、愛弟子の様子に。
「だが、何と言うのだろうか……。心配する程の事でもないと、思うんだが……」
付け加えるティルの言葉には、何とも形容しがたい複雑そうな心境が垣間見えた。
***********************************
レネは小走りで僧院の廊下を移動していた。
普段ならば、音も立てずに移動しているはずの教皇を、すれ違う僧達が怪訝そうな表情で見ている。
だが、今のレネには、そのような視線を感じる暇はない。
そして、弾む息と共に、見慣れたドアを勢いよく開けるレネ。
「あっ、猊下。お戻りになられましたか」
鼻歌交じりにお茶の用意をしていたチェルシーが、戻って来た主を認めて頬を緩ませる。
「お2人は、お戻りになりましたか?」
しかし、主から帰って来た言葉は、チェルシーの期待とは正反対の物であった。
一瞬だけ眉を顰めたチェルシーであったが、直ぐに表情を普段通りの物へと戻す。
「いいえ、まだです」
「はぁ……そうですか……」
疲れたように椅子に座りこむレネ。
弾む息を整えるようにして、何度か自分の胸を叩く。
気持ちが落ち着いて来ると同時に、レネの耳に普段は聞こえる事のない甲高い音が入って来る。
「何やら、外が騒がしい様子ですね」
「ええ、10分程前からでしょうか。パトカーのサイレンが鳴っていますね」
レネの前にあるカップに紅茶を注ぎつつ、チェルシーが疑問に答える。
「サイレン……? ああ、そうですね」
帝都……特にダーレイ大聖堂がある中心部は、皇国において最も治安の良い地域でもある。
もちろん、帝都においても、夜道を女性一人で歩くには危険な場所はある。
しかし、そのような地域は、レネが居住している地域からは離れているため、今のようにパトカーのサイレンなど聞こえる事はない。
「珍しいですね、この地域では」
「ええ、そうですね。今年になってからでは、初めてだと思います」
「何にせよ、警察の方々がお忙しいというのは、喜んで良い事ではありませんね」
「はい。仰るとおりです。軍人、警察、医者、それから裁判官は暇な方が宜しいですからね」
「それから、我々神の僕もですよ」
「そうでしょうか?」
主の言葉に対して反射的に疑問を呈しつつ、チェルシーは首を傾げる。
「我々が忙しいという事は、それだけ信徒の方々の心が乱れているという事ですから」
「なるほど……。不用意な発言をお許しください」
堅苦しい仕草で、頭を下げるチェルシーであるが……。
(やっべー。猊下ってば超優しい)
などと思っているなど、レネが想像する事すらできない。
「それにしても……徐々にサイレンの音が増えていきますね」
「はい……もしかすると大きな事件かもしれませんね。テロとは考えにくいですが……万が一の場合、猊下のコメントが要される可能性もあります」
「そうでなければ、良いのですが……」
瞳を閉じつつ、胸の前で両手を組みつつ、祈りを捧げるレネであったが……。
ピピピピピ……。
という無機質な着信音が、執務室に響き渡る。
色気も何もない、その着信音はチェルシーの公務用携帯電話の物だ。
「はい。バーネットです」
電話に出たチェルシーだったが、直ぐにその表情を険しくする。
「はい……。分かりました。では、付近一帯の警備を厚くするようお願いいたします」
形の良い眉を寄せつつ、通話を終えたチェルシーを見て、レネは嫌な予感を抱いた。
得てして、こういった予感は当たる物であることを、レネはよく知っている。
「ご報告したします。20分程前に、帝都中央部の『ドシドシスーパー』前の交差点におきまして、警邏中の警官が不審者2名を発見いたしました」
徐々にチェルシーの嫌な予感が、形を明らかにしていく。
「職務質問を行ったのですが、対象2名は抵抗の後、逃亡いたしました。なお、その際に行使された対象の魔法から、帝都警察は彼らを丙種上級2類の魔法使いと認識いたしました。なお、現在においても、対象2名の身元は分かっておりません」
「丙種上級2類ですか……? それ程までに力のある魔法使いならば、帝都魔法技術省で、身元を掌握しているはずですよ」
(……すっごく嫌な予感がします)
「対象2名」の身元に心当たりがあり過ぎるレネとしては、酷く自分の言葉が空虚に聞こえた。
「仰るとおりですが……現状では身元が判明していないのは事実です。さらに、意味が分からない事に……」
チェルシーは銀縁の眼鏡の位置を直しつつ、自らも信じられないといった様子で言葉を続ける。
「対象2名はそれぞれ……ジェレミー=ヴィルヌーブ、そしてアリア=スノウを名乗っているそうです。まあ、薬物に頭が侵された中毒者だとは思いますが」
(ああ……やっぱり……)
頭を抱えて机に突っ伏すレネ。
(一体、何が起きれば……こんな大捕り物になるんですか……)
何かトラブルが起きる可能性は、レネも認識していた。
迷子になるかもしれない、買い物に失敗するかもしれない……レネが心配したのは、その程度の物でしかない。
だが、現実はレネの予想の斜め下をいっていた。
(いえ、お2人を責めるのは間違いです。責められるのは、この私以外にいないのですから……)
自らの認識の甘さ、見通しの悪さ、事前準備の不手際など、レネ自身を責める言葉も数えきれない程にある。
しかし、今はすべき事がある、とレネは自らに言い聞かせる。
「怪我人は……いるのですか?」
「いえ、現状ではゼロです」
(という事は……お2人が明確な敵意を警察に向けているわけではないのですね……)
とりあえずは、安心できるチェルシーの言葉であった。
もしも、万が一……億が一だろうが無いとレネは思ってはいるが……。
ジェレミーとアリアが、明確な敵意を以って警察と対峙したとなれば、このような状況で済むはずがない。
その意味で言えば、まだフォローの効くレベルではある。
「あの……猊下……?」
机に突っ伏した主を心配したチェルシーが、その肩に手を置くのだが。
「チェルシーさん……お願いがあります」
顔を上げたレネの瞳は、正に殉教者のそれであった。
「はい、何でしょうか?」
主の視線に気圧されたかのように、チェルシーは身をのけぞらせる。
「皇帝陛下……ファビオ=ヴィルヌーブ様に連絡を取りたいのです」