バレンタイン>バースデー
毎年この日は克美を悶絶させる。
本来であればバレンタイン、女が男に愛のこもったチョコレートを送る日、らしい。
(……愛のこもったとか、吐きそう……)
むろん、今思い浮かべた文言は、恋愛ゴッド・愛美の語りをそのまま復唱しただけのものだ。
克美の誕生日も二月十四日。実際の生誕日はわからないので、辰巳がこの日に決めたのだ。
(理由は教えてくれないけど)
なんでも、ものすごく大事な、記念すべき日だとかで。
『克美と初めて会った日だから』
というのは絶対ウソに決まってる。克美は辰巳の言ったそれを信じたことなど一度もない。本当に克美を最優先に思っているなら、夜ごと日ごと可愛い義妹の目を盗んで花街へなどいくはずがない。それが辰巳の弁を疑う根拠になっていた。
洗濯物のポケットに時折紛れ込んでいるピンク色の名刺。
洗濯物についている口紅の痕。敢えてどの衣類かは口にもしたくない。どう善意の目で見ても、その位置に口紅がつくにはアレとかコレとかソレとかのさなかじゃないとつかない、というヤラシイ位置にある。そこまでが思い浮かべられる限界値。
「……絶対、ボクに見せ付けるためにつけたな。あの女狐め」
今日もまた、辰巳のボクサーを素手でビリリと引き裂いた。
二月十四日。
巷ではセント・バレンタインズ・デー。
海藤家では克美のバースデー。今日で二十二歳の誕生日(らしい)。
前夜祭は辰巳だけのお楽しみ。当日は克美のために一日を用意してくれるから、前夜に花街でフィーバーする(らしい)。
「いちいちチクりに来んな――ッ! 年増のクソ女狐鬼婆シリコン巨乳――ッッッ!!」
と叫んだところで辰巳はいない。どうせ朝帰りなのだろう。
言い訳も克美にはすでに予測がついていた。
『プレゼント選んでたら、そのままの流れで飲みに行っちゃった』
この数年間、辰巳が言った“克美のプレゼントを一緒に選んでくれた相手”に確認すると、ほぼ全員が口をそろえて
『え? あ、ああ。うん。そうそう』
と解りやすい答えをくれた。
そしてだいたい店の留守番電話にメッセージが入っている。今年は三年前にもあからさまな挑発メッセージを入れて来やがった年増女狐シリコン女だ。
あのババアの隣で辰巳が寝息を立てていると思うと、どうしようもなく腹が立つ。
「ちったぁ女選べよ! 誰でもいいのかよ、万年発情パツキン親父!!」
この日くらいは喧嘩をしたくはないのに。そう思っていた克美の怒りは、とうとう辰巳本人に向かってしまった。
重い瞼を開けてみれば、まだ薄明るい程度の早朝。だが辰巳はほどなく、自分の目覚めた理由が妙な薄ら寒さのせいだと気が付いた。隣にいたはずの女が、今回もまた消えていた。
「なんか、ヤな予感がする」
時計を見れば、まだ六時を過ぎたところ。視線を窓の外に移せば、あいにくの天気で晴天のときよりさらに暗い戸外だと思わせる。
「しおんって、確か三年前のこゆときも、余計なお節介をした気がするな」
この部屋の主に一夜の宿と別件の借りがありながら、そしるような物言いで愚痴零す。
前回世話になったときも、確か克美(というか店の留守番電話にだが)に余計なことを言っていたはずだ。
『おたくのお義兄さんをお借りしてるわよ。でも、男心を解ってあげなさいね。怒らないでやること!』
思い出した瞬間、そのあとに散々手を焼いた克美の機嫌取りの気苦労まで思い出させられた。
「マジ、余計なお世話」
思わず声に出る。同時に大きな溜息まで。
そういう発言自体がよろしくないということを、この界隈の女は解ってない。
「ってグダグダ愚痴ってるよか、手を打たないとあとが面倒だっつうね……はあ」
そう思い至った辰巳は、渋々ベッドから身を起こした。
広いマンションのキッチンから、甘ったるい香りが漂ってくる。チョコレートの匂いだ。二月に入ってからこの匂いのせいで、チョコレートの山に押し潰される嫌な夢に起こされることが再三あった。その不快感が露骨に表れ、辰巳の眉を顰めさせた。
「しおんさーん、朝っぱらから嫌がらせですか」
口に咥えていたヘアゴムを手に持ち替え、束ねながら嫌味を言う。
「あら。お風呂はいいの?」
すっかり身支度を終えてエプロンをした同世代のしおんがそう返しながら、早々に立ち去る意向を強く示す辰巳の格好を見て目を丸くした。
「風呂ったらソープの匂いで克美にバレちゃうもん。ウェットタオル使ったからいい」
そう返すころには手櫛で器用に髪も括り終えていた。
「辰巳ってホント、屈折してるわよね」
「何が」
ブルゾンを羽織りかけた辰巳の手がぴたりと止まる。剣呑な目つきで睨むのに、しおんは辰巳の視線に怯むどころか意地悪な笑みを返して来た。
「克美ちゃんがいつも愚痴ってるらしいじゃない? 自分の髪の手入れぐらい自分でしろ、って」
そう言ってしおんがくつくつと笑う。
「それは……義妹としては居候よりマシだろうと思って、させてやってるだけ」
「意地でも上目線を貫く人ね。いまどきそこまで殊勝な家族なんていやしないわよ。っていうかそれ、思い切りダウト」
「……」
どこまでも人の揚げ足を取っては、取れると勝ち誇ったように笑う女だ。どう見ても、しおんにとっての自分もセックス・フレンドでしかないリアクションだと思う。
「文句ばっか言うくせに顔がほころんでるから、本音が丸解り。“だらしのない辰巳を知ってるのは自分だけ、って自慢してるみたいでムカつく”って、鈴音ちゃんが嫉妬してたわよ。ちょっと遊ぶ女の種類には気を付けなさいね」
と忠告されるとぐうの音も出ない。
「鈴音、克美になんかした?」
と問い質す辰巳の声からは、すっかりしおんに対する毒気が抜けていた。
「心配するくらいなら、克美ちゃんの傍にいてあげなさいよ」
「余計なお世話ですー。それよか、質問に答えてよ」
「そこまで後輩の指導がヘタな私じゃないわよ。あなたが鈴音に粉掛けた段階で“あそこはブラコンじゃなくて辰巳のほうがシスコンなんだから、克美ちゃんに八つ当たりするな”って杭を刺してあるわ」
よき兄の芝居も大変ね、と言った彼女が、おもむろに型枠を掲げて辰巳に別の話を振って来た。
「克美ちゃん、本当は誕生日プレゼントをもらうより、辰巳にバレンタインのチョコをあげたいんですって」
そう言いながら掲げられたのは、型枠にあわせてすっかり固まっているハート型の板チョコレートだった。
「だから?」
と問う辰巳の声が、果てしなく低い。完敗の不機嫌をあからさまに、形ばかりの合いの手を入れた。
「今年はお店の留守番電話に、“今年のはやりは逆バレンタインよ”ってメッセージを入れておいたから。これ、持ち帰る前に自分でメッセージを入れなさい」
ただし「ごめん」「ハピバス」などの文言は厳禁。しおんは上目線でそう命じながら、辰巳にキッチンの一角を譲った。
「なんでみんな、菓子業者の陰謀に乗って舞い踊るんですかね。バカバカしい」
と言いつつブルゾンをソファに放り出す。ホワイトチョコレートの詰められたビニール袋を手に取り、小さな穴を底の一部に開けて簡易のチョコレートペンを即興で作る。まだ温まり切っていないキッチンの中、とろとろに溶かされたホワイトチョコレートの熱が、かじかんだ辰巳の手をほどよく温めた。
「近ければ近いほど、何かにこじつけないとホンネが言えないものなのよ」
――特に、克美ちゃんみたいな女の子はね。
「女の子、ねえ」
もう二十二歳なんだけど、という辰巳の屁理屈は無視された。
メッセージを入れ終えてから、今度はしおんのためにコーヒーを淹れる。彼女の好みはマンデリン。そこに生クリームを浮かせたウィンナが一番のお気に入りだ。結局辰巳はそんな形で彼女にささやかな礼をしたい心境になっていた。
「今日は特に何をするか話をしてないって言っていたでしょう? 自分の目の前でチョコレート菓子を作ってもらうってのはどう? あなたが横から口出しさえしなければ、ホントは克美ちゃんだってそういうの、好きよ」
という提案に、なぜか妙に心躍る自分を認識してしまったせいだ。
いつも口うるさく教えてしまうので、克美には調理中にキッチンへ入るのを禁じられている。店の場合は商品になるので我慢しているようではあるが。
しおんからのその一言が、辰巳の中で今日という特別な日の過ごし方を決めさせた。
チョコレートの入った包みを片手に、そっとアパートの扉を開ける。まだ克美が起きた気配はなさそうだ――というのは気のせいだったらしい。
「コラ不良中年、妹の誕生日にも堂々と朝帰りかよ」
内開き仕様になっている玄関の扉の後ろからドスの利いたアルトが響き、それが辰巳の足許に絡みついた。辰巳のこめかみから嫌な汗が一筋落ちる。
「お、おはよ。早起きっすね」
疚しさが辰巳の身を屈めさせる。咄嗟に守るべきチョコレートをブルゾンの中に押し込んで、お見舞いして来るであろう克美のゲンコツに甘んじる覚悟を決めた。
「寝てねーし」
意外にも、克美はプイと視線を逸らしたかと思うとすんなり辰巳に背を向けた。今年は殴られなかった。それだけでもよしとしよう。辰巳は自分にそう言い聞かせ、屈み気味だった姿勢を正した。
「寝なきゃダメじゃん。明日また店を開けるんだし。今日を寝て過ごすのはもったいないでしょ」
急いで靴を脱ぎ、キッチンへ向かう克美のあとを追いながら、つい説教が口を突く。
「そう思うなら帰って来いよ!」
克美は振り返りもせずにそう怒鳴った。
藪蛇。仰るとおり。リビングに向かって廊下を歩きながら、どう話題を逸らそうかと数秒ほど思案をめぐらせる。
「あ、そだ。克美」
リビングのカウンター越しからキッチンの食器棚と睨めっこをしている克美に声を掛けた。
「一切レクチャーしないってのが誕生日プレゼントって、どう?」
「は?」
辰巳は振り返った彼女の視線に注意を払いながら、脱いだブルゾンで椅子の上に置いたチョコレート入りの包みを隠した。
「克美の作りたいモノ、なんでも黙って食うからさ。作ってるところ、見させてよ」
コーヒーを淹れる用意をしていた克美の手から、布フィルターがことりとシンクに落ちた。
「今年はモノでごまかさない、ってこと?」
身を乗り出して尋ねる克美の頬に、嬉しそうな紅が淡く差した。
「うんうん。ちょっと人に相談したらさ、克美はモノよりも欲しいものがあるって」
それが、“うるさくない自分”と言ったときには、軽い自己嫌悪が辰巳を襲った。
「やっべ、ボク、今一瞬、あのシリコン女狐に惚れそうになった!」
(やっぱバレてるし……)
とは口が裂けても言えないので、「女狐ってなに?」ととぼけた。そのあと延々と説教込みの文句を聞かされる苦痛に耐えた。
「ひっさしぶりーっ。こうやって自分でやるのってさ、マナと一緒に作ったとき以来」
鼻歌が止まったかと思うと、克美は遠い昔に思いを馳せた。
「愛美ちゃんと、ってことは、八年振りか。作ればよかったのに。北木クンとか、プレゼント出来る相手には事欠かないじゃん」
ものすごく意地悪だと思いつつ、敢えてその名前を引き合いにした。予想通り、克美は一瞬苦しげに眉根を寄せた。だが辰巳と目が合った瞬間、それについては何も言わずにどうでもいい話を続けた。
「手作りは本命のアカシなんだぞ、ってマナが言ってたんだもん。ボクには作る機会がないし、とか思ってたんだけど」
しおんが辰巳に提案したそれは、ちゃっかり克美に打診済みだったらしい。「マナに八年も騙されてた」と膨れる克美に思わず笑った。
「く……ッ、なんか、チョコがなかなか溶けてくんないッ!」
何を焦っているのか、克美は乱暴にボウルをガチャガチャとせわしなく混ぜた。
「チョコが跳ぶよ」
「口出さないって約束だろ! 黙れ!」
「……はい」
ならば、なぜにカウンター席で見る許可を出したのか。という辰巳の疑問は口にされないまま、ホイッパーがステンレス製のボウルを弾く音だけが早朝のキッチンにいつまでも響いていた。
「出来た……っ」
感無量と言った声が、辰巳の鼓膜を心地よくゆさぶる。克美が達成感を覚えた瞬間の声が、好きだ。幼いころとまったく変わらない声が自分の立場を再確認させてくれるから。
「ほいっ。朝ごはんもまだだから、ご飯を兼ねて、チョコレートアートのホットケーキとホットチョコ! ブラックチョコを使ったから、甘いの苦手な辰巳でも食えるように作ったよ!」
すごく、得意げだ。大きな丸を見てみれば、確かに見事としかいいようのない、崩れていないアートがホットケーキの面に描かれている。そこに描かれていたのは。
「……加乃……の顔、こんなにはっきりと覚えてるんだ」
克美に釣られたように弾んでいた心が、いきなり小さく縮こまった。
「ワガママかも、だけどさ。ねえ、辰巳」
――今日は、辰巳が加乃姉さんにプロポーズした日でもあるんだよ。
「辰巳にとって、大事な日なんだろう? だったらさ、今日くらい、女っ気なしの一日でいてあげてよ」
苦しげに、克美が言う。今にも泣きそうな声で言う。でも大きな吊り目に涙は浮かんでいなかった。
「……ごめんなさい」
素直に謝るしかない。そう思って口にしたものの、妙な苛立ちが辰巳を襲った。ホットケーキに添えられた無糖の生クリームを乱暴に広げる。
「あ! 折角描いたのに」
「見えてたら、加乃を食うみたいで食えないでしょ」
そう言い返しながら、ホットケーキを刻む。細かく、賽の目に、加乃ではなくなるまで小さく刻んだ。
「ちょ、やり過ぎ」
そんな克美の制する声が、カウンターの向こうにいるはずなのに、やたら近い位置から聞こえた。
「!」
「!」
ホットケーキから視線を上げると、コンマゼロとちょっと、という近い距離に克美の顔があった。そして初めて気が付いた。やっぱりチョコレートがあちこちに跳ねている。細かな粒で目立たなかったそれは、ほくろと見間違えるくらいにすっかり固まって克美の鼻先や頬、口許にもくっついていた。ふと突然思い出した。加乃の白い肌にも、いくつかほくろがあった。泣きぼくろと同じ大きさのほくろが左の口許を飾っていて、魅力的だと思いながら眺めていた時期があった。
「ほ?」
間抜けな声が部屋の静寂を一瞬破る。辰巳は克美の顎に掛けた手を素早く自分のほうへ引き寄せた。
「ん!?」
二度目の奇声は、なかった。克美の鼻先についたチョコレートは、無糖で確かに甘くない。頬に跳んだ大きな塊を舌ですくえば、ころりと剥がれて辰巳の熱でとろりと溶けた。
「たつみ……?」
自分の名を呼ぶ桃色に熟れた果実をついばみたい衝動に駆られる。刹那かち合った視線が、克美の瞼で遮られた。克美の喉に触れていた辰巳の手の甲が、こくりと生唾を呑み込んだ克美の喉の感触を受け取った。
「……」
熟れた果実ではなく、その縁を飾るビターな黒に舌を這わせる。つるりと取れたそれをついばんで自分と克美をごまかす。舌にまとわりついたビターチョコの味はあまりにも少なくて、すぐに溶けて消えてしまった。
「だから、跳ねるよって言ったのに」
そう言って平気な顔をして笑う自分に反吐が出た。喉まで真っ赤に染まる克美を見て、心拍を上げている自分を呪った。
――これじゃあ、前の日に発散させた意味がない。
呪文のように、繰り返し唱える。克美には決して聞こえないように。
“克美は加乃の妹だ”
“だから俺の妹だ”
「どうしたの?」
不安げに呼び掛けられた声で、はっと我に返った。真正面にはいつもの表情に戻った克美が、心配そうな瞳を辰巳に向けていた。
「なんか、ヤなことでもあったの? 甘えるなんて、珍しいじゃん」
そう解釈したか、と、ほっと胸を撫で下ろす一方で、彼女を騙す言葉が流暢に紡がれた。
「えへへー。ちょっと、自己嫌悪。以後、自重します」
そんな言葉でやり過ごす。克美の頭を優しく撫でる。昔、まだ幼い少女だった“克也”にしてやったときのように。
「克美のアートがゆがみなさ過ぎるから。加乃をリアルに思い出しちゃったじゃん。いぢわる」
「ごめん。そんなに落ち込むと思わなかったんだもん。それに、あんまりにも加乃姉さんが――っていうか! そうだ、そもそも辰巳が悪いんじゃん!」
「ちっ、気付いたか」
「ち! ちっつった! 加乃姉さんだって、好きであーいう仕事してたわけじゃないんだからな! いくら姉さんがアレだったからって、張り合うみたいに遊び狂ってんなよ!」
いつもの下らない喧嘩になる。笑って「ごめん」を繰り返す。そして相変わらずお茶を濁すようにモノでごまかす自分がいた。
「あ。そだ。今年は逆バレンタインがはやりなんだってね。しおんが教えてくれたんで、キッチンを拝借して作ったんだ」
そう言ってようやく包みを克美に手渡した。
「……“永遠の妹に、初のバレンタインギフトを。From Tatsumi”……」
プレートに刻んだメッセージを読む克美の声が小さくなった。
「早く兄貴以外に渡せるヤツが出来るといいね。我が家の若紫ドノ」
ありったけの微笑で、とぼけた寿ぎを口にする。
「……だね。早くもっとちゃんと、女らしい女にならないとね」
寂しげな笑みとともに、克美もまた喧嘩終了のゴングを鳴らした。
「ありがと」
「どーいたしまして」
「ボク、眠たくなっちゃった。お皿、洗っておいて」
「うぃっす。午後から映画でも見に行こうか?」
「うん」
「何がいい?」
「ベルセルク劇場版」
「またエログロなモノを」
取り留めのない会話が、どこか重い空気を漂わせながらいつまでも続いていた。