遠距離ルール
吐いた息が白い。辺りも一面銀世界…とまではいかないものの、道路の灰色が見えない程度には雪が降り積もっている。家の屋根も木も、白のデコレーションをされている。そこは充分に白の世界だった。
その中にぽつんと存在するポスト。白の中の赤い点。それは他の季節で見る、さまざまな色の中にある赤とは違った雰囲気があった。沙耶にはそれがひとりぼっちに見えて、寂しく感じられた。
寒さで鼻のてっぺんが冷たい。たぶん鼻も頬も真っ赤だろう。鼻水が出てきて、鼻の中が冷たくなった。ずずっ、と鼻から息を吸い込んで、沙耶はポストに駆け寄った。携帯電話を耳に当てる。電話は5分程前から繋がったままにしてあった。
沙耶はポストと同じ赤色をしたエナメルのバックから封筒を取り出しながら電話に向かって話す。
「もう出した?」
『んー?』
携帯電話のスピーカーから彼氏、和喜の間延びした声が返ってきた。生返事とも言うが、この際どう表現しようと関係は無い。あまり真面目に聞いていないように思えた。
「出した?手紙」
『うん、出したよ』
それを聞いて沙耶も目の前のポストに、持っていた封筒を投函する。羊のイラストが描いてある白っぽい封筒が、赤いポストに吸い込まれた。
「私も今出した」
『そう』
本当は「せーの」で投函したかったけれど、それはさすがに子供染みているかと思い、口には出さなかった。
沙耶は25歳、和喜は26歳。2人ともれっきとした社会人だ。沙耶は地元の大学を出、地元の会社に就職。反対に、和喜は県外の大学に進学し、東京の企業に就職した。高校のときから付き合っている2人は只今遠距離恋愛中である。よく6、7年も離れて過ごして分かれなかったな、と沙耶は我ながら感心している。
遠距離というのは寂しい。いつでも会えるというわけではないから。もちろん、すぐ近くにいたとしてもいつでも会えるというわけではないけれど、電話やメールくらいしか気軽にできないのはやっぱり寂しいものだった。
けれど寂しいとも言っていられない。世の中は恋愛で全てではないのだ。愛と恋だけでは世界は回らない。沙耶には仕事を辞めて和喜のそばに行くという選択肢は無い。そろそろ結婚してもいい歳にも関わらず、なんとなく結婚の話が出ないのは沙耶のそういうところがあるからかもしれない。和喜はどう思っているのだろうか。沙耶自身、気になってはいたが身の振り方を変えない自分があるので、聞くに聞けなかった。もしも向こうに結婚する気があって、そしたら私はどうするつもりなのだろうか。和喜の事は好きだが、もしプロポーズされてもOKするか、自分でもよく分からない。ひょっとしたら、そのまま別れてしまうかもしれないと考えると、やっぱりまだ踏み出せなかった。
『どう?やっぱりそっち寒い?』
「そりゃあ、北国だし」
ポストから一歩後ずさって、踵を返す。そのまま来た道を引き返して近くのスーパーへと足を向けた。今日はホウレンソウが安いのだ。さっき自分が付けた足跡をたどっていく。
「今年の冬は特に寒いってさ」
『冬にこたつで食べるアイスが懐かしいな』
ざくざくと雪をブーツで踏みならして歩く。アイスと聞いたら食べたくなってきたので頭の中の買うものリストに追加した。何のアイスにしようか、雪見大福もいい。
『あー、久しぶりに地元帰りてぇ』
和喜の切実そうな声に沙耶はくすりと笑った。それから他愛もない会話を、時間の許す限り繰り返す。
――私たちの遠距離恋愛にはルールがある。寂しい恋愛だからこそ、相手を際限なく求めないように、自分たちで科したルール。
それはおそらく、別れるか結婚するか、どちらか選ぶまで外れない鎖。
「…でね、って、あ。10分経っちゃった」
『本当だ。じゃあ切らなきゃだな』
ルールその1、"電話は1日1回10分まで"
「言っておくけど、次も私が勝つからね!」
『またまたそんなこと言って…』
「だって和喜、じゃんけん弱いじゃない」
『それは沙耶が鬼強いだけだ!…じゃあ、ほんとに切るからな!』
ルールその2、
ブツっと乱暴に通話を切断されて、画面に通話時間が表示された。
「や…っ。切られた!」
通話時間は10分30秒。30秒くらいはおまけしてくれてもいいよね、と誰に許しを請うわけでもないけれど、沙耶は空を仰ぎ見た。携帯電話を閉じてジャンパーのポケットに仕舞う。手袋をしていても手がかじかんであまり感覚が無かった。温かい飲み物も、買い物リストに追加した。
ルールその2、"月に一度、じゃんけんで勝った方が会いに行く"
「さて、結果は数日後ってところかなあ」
冬の空は高い。澄んだ空気が首筋を通り抜ける。沙耶は冬の風が好きだった。身を切るように冷たい風だけれど、なんとなく自分の中の悪いものをそぎ落としてくれるように感じるのだ。携帯電話をもう一度取り出して、その空を携帯のカメラに収めて再び仕舞う。
沙耶の携帯電話のデータファイルは、空の画像で埋まりつつあった。
◆◆
――僕らのじゃんけんにはルールがある。2人の距離が遠いからこそ、それを寂しく思わないように、自分たちで課したルール。
それは楽しくなければならない、ゲームのルールと一緒だ。
ポストに手紙を投函してから数日後の休日。和喜はマンションの窓から郵便配達のバイクが出て行くのを確認してからロビーへと降りて行った。そのときスウェットのままだったので着替えたほうがいいか一瞬迷ったが、マンションの外に出るわけでもないしそのまま出ることにした。
外は寒い。上着の一枚でも羽織ってくればよかったとエレベーターに乗ってから後悔する。一つ一つ階が下がって行くのを手のひらに息を吐いてこすり合わせながら眺めた。吐く息は白くは無かった。
自分の部屋の番号の郵便ボックスを開けると、やはり何通かの封書が入っていた。全て取り出して一つ一つ確認する。幸運のネックレス、招き猫……陳腐な通販のダイレクトメールを何通か繰ってから、見慣れた彼女の字が見えた。
「お」
目的の物を見つけて思わず声が出る。心を踊らせながら部屋に戻って携帯電話を取り出した。ダイレクトメールは部屋に帰ってすぐにごみ箱に放り投げてしまう。
何度かのコールの後に電話がつながった。相手は言わずもがな、沙耶だ。
――じゃんけんのルール、それは"絶対封書で送ること"
それはゲームのようなルール。楽しむための、ルール。
『手紙、届いた?』
「届いたよ」
電話をかけたのは和喜だったが、こちらが話題を出す前に沙耶は聞いてきた。この電話が何のための電話かよく分かっているらしい。同時に、沙耶にも手紙が届いたことが窺えた。
テーブルに一通、沙耶から来た封筒を置いて携帯電話に耳を傾ける。
『…一緒に開けようよ』
いつもより小さな遠慮がちな声に和喜は微笑んで「いいよ」と答える。沙耶がそんなことを言うのは珍しかったが、和喜にはそれが少し嬉しかった。
こちらでにやけたのがばれたのかもしれない。照れ隠しのような、強気な声が聞こえてきた。
『ま、まあ、また私の勝ちなんでしょうけど』
「またそんな…負けても知らないぞ」
せーのーで、で封筒の封を切って中の便箋を取り出す。沙耶らしい、可愛らしいけれど落ち着いた雰囲気の便箋だ。羊のイラストが便箋の上下を横切っている。和喜は丁寧に開いて中を見た。
「…………」
『ね、どうだった?』
スピーカーの向こうから弾んだ声が聞こえる。わかってるくせに、と和喜は苦笑いする。
こっちからも意地悪してみたくなった。
「僕は何を出したっけ?」
『分かってるくせに』
今度は沙耶が苦笑いする番だった。少しの間、互いに笑い合ってから沙耶は言う。
『"ちょき"…でしょ?』
「その通り、正解です」
えらいえらい、と褒めてやると「馬鹿にしないで」と怒られた。
和喜は再び手元に視線を落とす。便箋には紙いっぱいに"ぐー"の文字とげんこつのイラストが書いてあった。げんこつというよりはクリームパンかクロワッサンのようで、お腹が空いていたのかな、と推察する。毎回、イラスト付きで送られてくるが、これがちっとも上達しない。
『また私の勝ちね』
得意げに鼻を鳴らされ、和喜は苦笑いするしかない。これで6連敗目。このゲームを初めてから6戦0勝6敗。もうこれは、笑うしかない。
「ねぇ、本当にズルしてないよね?」
『ばーか!どうやってやったっていうのよ』
冗談だよ、と和喜は笑う。
と、不意にインターフォンが鳴った。誰かが来たらしい。宅配便か何かだろうか。
「ごめん。誰か来たみたいだから、またあとで電話かけなおす」
『あ……』
沙耶が何か言いかけていたけれど、もう切ってしまって聞き返すことはできなかった。
ピンポーン、と2度目のインターフォンが鳴った。
「はーい、今出ますよっと…」
ドアの鍵を解いて、チェーンを外してドアを開ける。開けた瞬間、冷たい空気が部屋の中に入ってきて、和喜は思わず身をすくめた。
一度下に落とした視線を上にあげた和喜は、一瞬言葉が出なかった。
「や!」
明るい声。それはさっきまで電話越しで会話していたはずの、沙耶だった。
「え…ど……、なんで」
「勝ちを見越して来ちゃいました」
沙耶はわざとらしく「てへっ」と舌をちろりと出す。
「それちょっと気持ち悪い」
「あ、酷い」
また怒られるかと思ったが、すぐに沙耶の表情は和らいだ。それは自然な笑みを作る。
自然と沙耶に手が伸びた。寒さで赤くなっている頬に手を触れてさする。
「久しぶり」
言いながら、ゆっくりと沙耶を抱きしめた。目を閉じると沙耶の体温がじんわりと感じられた。香水ともシャンプーとも違う、沙耶のこの匂いも久しぶりだ。いい匂い。凄く落ち着く匂い。
抱きしめる腕に力を込めると、沙耶の細い腕が抱きしめ返してきた。
「東京、やっぱり全然雪降ってないね」
「そりゃあ、地元とはちがうさ」
半年ぶりの抱擁を充分に楽しみたいところだったが、スウェットだけで玄関先に立っているのが少し辛くなってきた。
「そろそろ中に入りませんか?」
和喜が言う前に沙耶が先に言う。
「それ僕のセリフだろ…」
「ん?勝手知ったる、とかいうやつですかねー」
それは使い方が違うのではないか、と思いながら和喜は沙耶を中に招き入れる。
さて、今日は10分ルールも何もない。
今日は何を話そうか。