『悪役令嬢アルベルティーヌの優雅なる日常・八』―うちの妹、勝手に負けたことにすんな―
今回は、約二万字の少し長めのお話です。
ヴァルモン公爵家の三姉妹と三人の侍女が、初めて揃って家を動かします。
始まります。
セルヴァン王国の先触れがヴァルモン公爵家へ到着したのは、前日の午後だった。
受領記録には、協定原案、使節団の随行者名簿、予定議題、宿泊と警備に関する要望、そして翌日の正午前に第一門へ到着する予定であることが記されている。
ところが翌日の午前。
本隊が予定より早く国境を越えたという追加報告が届いた時には、使節団の馬車は既に公爵領内へ入っていた。
「予定より半刻以上早うございますわね」
家族用の小応接室で行われていた午前の茶会で、アルベルティーヌは報告書を置いた。
ヴァルモン公爵家には、三人の娘がいる。
長女アルベルティーヌ、十九歳。
次女アマンディーヌ、十七歳。
三女アンブロジーヌ、十歳。
そして今、小応接室には三姉妹と、それぞれの専属侍女が揃っていた。
アルベルティーヌの後ろにはマルタ。
アマンディーヌのそばには、マルタの姉であるミルタ。
アンブロジーヌの隣にはレオニー。
同じ報告書を見ても、六人が最初に確認したものは、それぞれ違っていた。
「変更の連絡を出した責任者は?」
「セルヴァン側の国境連絡官です」
「変更を決めた者は?」
「受領文書には記載がございません」
「また主語がありませんのね」
アルベルティーヌの声が一段低くなる。
マルタは主人の顔ではなく、呼吸を見た。まだ速くはない。喉も鳴っていない。茶はほとんど減っていない。
今すぐ蜂蜜飴を出す段階ではないと判断し、代わりに温かい茶を少し前へ寄せた。
「予定が変わったことより、変更を決めた者と伝達経路が残っていないことの方が問題ですわ」
アルベルティーヌは受領記録を指先で叩いた。
「到着が遅れて事故が起きても、誰が判断したか分からない。そのような運用を、協定後も続けられては困ります」
「先触れ自体は、必要な資料を昨日届けております」
アマンディーヌは、協定原案の横へ別の紙を並べた。
「問題は、昨日の予定を今日変更した際の連絡ですわね。今回の受け入れは間に合います。ですが、河港の夜間利用でも同じことが起きれば、警備も荷役も間に合いません」
「次から何を変える?」
「変更決定から一刻以内の通知を義務とします。国境連絡所、第一門、河港管理局の三か所へ同時送付。受領確認がなければ、変更は成立しないものとして扱います」
「よろしいですわ」
アマンディーヌは、今日の早着だけを処理してはいなかった。同じことが明日以降に起きない仕組みへ変えようとしている。
その横で、ミルタは小応接室の外へ短い指示を出していた。
「第一門の受け入れ班はそのまま。第二班を第二門へ。厨房補助は第三班から二名。通常業務の欠員は待機組で埋めてください」
戻ってきた使用人が頭を下げる。
「既に馬車は第二門へ誘導しております」
「宿泊棟は?」
「第一棟の準備を前倒ししました。給仕は第二組が入ります」
「第一組は休ませてください。午後の交渉が延びた場合に使います」
アマンディーヌが顔を上げる。
「通常業務に影響は?」
「ございません。交代要員を含め、配置は完了しております」
「いつの間に?」
「国境通過の報告が届いた時点で」
ミルタは特別なことをした顔をしていなかった。
三年後に育つ人材は必要である。だが、今日の欠員は今日埋めなければならない。
そのための第二班と第三班と待機組である。
「この頁です」
小さな声がした。
アンブロジーヌは、協定原案を読みながら焼き菓子を持っていた。
正確には、持ったまま止まっていた。
椅子へ腰掛けた足は床へ届かず、わずかに前後へ揺れている。
レオニーが開いたのは、暫定条件に関する頁だった。
「正式承認が遅れた場合、暫定条件を継続する、とございます」
「ええ」
「承認が遅れると困る方と、あまり困らない方が違うように見えますわ」
アンブロジーヌは、そこで首を傾げた。
「どう違うと思いますの?」
「まだ分かりません」
「では、分からないままにしておきなさいませ」
レオニーが言う。
「なぜですの?」
「現時点でお分かりになるのは、承認の遅れによる不利益が、双方へ同じ形では生じないということまででございます」
レオニーは、協定書の隣へ費用試算の用紙を置いた。
「誰が困り、誰に利益が残るのかは、頁を分けてお考えくださいませ」
アンブロジーヌは焼き菓子を置き、すぐに次の紙へ手を伸ばした。
レオニーがその紙を押さえる。
「三口お召し上がりになるまで、次の資料はお出しいたしません」
「一口では?」
「先ほど一口で済ませようとなさいましたので、三口です」
「交渉に遅れますわ」
「アンブロジーヌ様は、顔合わせが終われば退出なさいます」
「その後に読む時間が減ります」
「焼き菓子一つに必要な時間で、判断を誤るほどお急ぎなのですか?」
アンブロジーヌは不服そうに焼き菓子をかじった。
一口。
二口。
三口目だけ、少し大きい。
「これでよろしいでしょうか」
「はい」
レオニーが紙から手を離す。
(十歳に協定書読ませながら、焼き菓子の口数まで管理しとる)
(あそこだけ別の育成施設みたいやな)
アルベルティーヌが見ていると、マルタが主人の前の茶へ視線を落とした。
「お嬢様も、お茶が冷めます」
「わたくしも?」
「先ほどから報告書ばかりご覧になっております」
「わたくしは十九歳ですわ」
「存じております」
「では自己管理に任せてくださいませ」
「実績を確認したうえで申し上げております」
アルベルティーヌは黙って茶を飲んだ。
アマンディーヌが小さく笑う。
「似ておりますわね」
「似ておりません」
マルタとレオニーが同時に答えた。
六人は同じものを見ていなかった。
だからこそ、同じ家を動かしていた。
そして本日。
セルヴァン王国から訪れた使節団の大半は、その三姉妹を見比べていた。
正確には、三人のうち二人を、である。
アルベルティーヌは応接広間の中央に座り、完璧な微笑みを保っていた。
右側にはアマンディーヌ。
左端には、顔合わせが終わり次第退出する予定のアンブロジーヌ。
ラクロワ侯爵と補佐官たちの視線は、まずアルベルティーヌへ向かう。
次に、必ずアマンディーヌへ移った。
アンブロジーヌには、ほとんど止まらない。
(分かりやすいな)
(うちを見て、妹見て、またうち見る)
(何や。姉妹の顔に間違い探しでも載っとんのか)
彼らには、三姉妹しか見えていなかった。
その後ろにいる三人の侍女が、それぞれ別のものを見ていることには気づいていない。
ミルタが既に屋敷内の配置を組み替え終えていることも。
レオニーが、アンブロジーヌへ答えではなく問いを渡していることも。
マルタが、アルベルティーヌの喉と呼吸を監視していることも。
彼らが見ようとしているのは、誰が勝者で、誰が敗者かだけだった。
「長旅、お疲れでございました。セルヴァン王国の皆様を、ヴァルモン公爵家へお迎えできますことを光栄に存じますわ」
向かいに座る主使節、ラクロワ侯爵が恭しく頭を下げる。
「温かいお迎えに感謝いたします、アルベルティーヌ様」
その隣には、セルヴァン王国の第三王子ユリアンが座っていた。
二十四歳。
王命を受け、今回の使節団を監督する立場にある。
淡い金髪と灰青色の瞳を持つ、物静かな青年だった。華美な装飾を避けた濃紺の礼装を身につけ、先ほどから必要以上の言葉を口にしていない。
ただし、見ている。
アルベルティーヌの顔だけではない。
三姉妹の席順。
アマンディーヌの前に置かれた領地運用資料。
父であるヴァルモン公爵の手元にある権限委譲書。
アンブロジーヌの後ろに控えるレオニーが、主人へ何も囁かず、必要な頁だけを開いていること。
(あの王子、静かやけど寝てへんな)
(見とる。めっちゃ見とる)
正式な紹介を終えた父が、用意された書面を机へ置いた。
「本件の交渉権限は、次期当主である長女アルベルティーヌへ委譲する」
ラクロワ侯爵の眉が、ほんのわずかに動いた。
「領地運用上、継続不可能と判断した場合の停止権限は、次女アマンディーヌが持つ。最終批准は、現当主である私が行う」
「交渉、停止、批准を分けておられるのですな」
ユリアンが初めて口を開いた。
「一人へ集める必要がないからです」
父は淡々と答えた。
「交渉の都合が悪くなった際、娘ではなく私へ話を振られても困る。本日の交渉中、私は別室で議事要旨を確認する。必要な場合にのみ戻る」
任せるのではない。丸投げでもない。
権限を娘へ渡した以上、その権限が外部から迂回されないよう、父自身が前から下がるのである。
後方では、ミルタが中間報告をまとめる準備をしていた。
「末娘のアンブロジーヌは、皆様へのご挨拶のみとさせていただく」
アンブロジーヌが静かに立ち上がる。
「お初にお目にかかります。アンブロジーヌ・ヴァルモンでございます」
十歳とは思えないほど落ち着いた礼だった。
ただし、立ち上がる際、椅子の下で揺れていた足が裾へ少し引っかかった。
レオニーが椅子をわずかに引き、誰にも気づかれないよう支える。
ラクロワ侯爵は柔らかい笑みを返した。
「お会いできて光栄です。これから難しいお話が続きますので、末のお嬢様には少々退屈かもしれませんな」
「そうですの」
アンブロジーヌは、それだけ答えた。
反論もしなければ、子供扱いされたことへ不満も示さない。
レオニーを従え、広間を退出する。
扉が閉じる前に、アンブロジーヌはラクロワ侯爵の前に置かれた追加書類を一度だけ見た。
(怒ってへん)
(あれは覚えた顔や)
アンブロジーヌは、軽く扱われたこと自体には腹を立てない。
軽く扱った結果、相手が何を見落としたかを見る。
十歳にして、少々かわいげのない末妹である。
姉としては、大変頼もしかった。
第一回の交渉は、表面上、穏やかに始まった。
セルヴァン王国が提示したのは、国境をまたぐ商取引の拡大案である。
両国を結ぶ河川の中流域には、ヴァルモン公爵家が管理する河港がある。
現在、セルヴァン側の商船が利用できるのは日の出から日没まで。夜間の停泊は禁止。積荷には高い関税がかかり、非常時を除いて公爵家の備蓄倉庫は使用できない。
セルヴァン王国は、その条件の緩和を求めていた。
「河港の使用時間を夜半まで延長し、備蓄倉庫の一部を共同利用とすることで、両国の物流は大きく改善いたします」
ラクロワ侯爵が説明する。
「関税も、現行の七割まで引き下げていただきたい」
「使用時間の延長自体には、検討の余地がございます」
アルベルティーヌは答えた。
「ですが、夜間の警備費用はどちらが負担なさいますの?」
「双方で均等に」
「双方とは?」
「セルヴァン王国と、ヴァルモン公爵家でございます」
「商船の数が同数でなくても?」
侯爵が一拍置いた。
「利用実績に応じて調整することも可能でしょう」
「誰が利用実績を確認し、誰が費用を請求し、未払いが発生した場合に誰が船の出入りを止めるのです?」
「その点は、現場の協議で」
「現場とは、どなたですの?」
侯爵の微笑みが、少しだけ固くなる。
アルベルティーヌは手元の協定案へ視線を落とした。
「共同利用と書かれておりますが、管理責任者の主語がございませんわね」
広間の空気が、ほんの少し張った。
(来たで)
(主語なし協定書)
(誰も責任取らんやつの匂いがする)
「事故が起きれば、公爵家の倉庫内で起きた事故として、こちらへ責任を求めることもできます」
「そのような意図はございません」
「意図ではなく、条文のお話をしております」
「もちろん、詳細は今後詰めてまいります」
「詳細に責任者が入るのでしたら、先に詰めるべきですわ」
ラクロワ侯爵は咳払いをした。
「アルベルティーヌ様は、随分と慎重でいらっしゃる」
「荷が燃えてから慎重になっても遅うございますもの」
アマンディーヌが別の資料を開く。
「現在の河港警備は、昼間が三交代、夜間が二交代です。夜間利用を認める場合、最低でも十二名の増員が必要になります」
「それほどですか」
「船だけを見張ればよいわけではございません。荷役、倉庫、河岸、宿直医、税関係官も増やす必要があります」
アマンディーヌの声は、姉より柔らかい。だが、出してくる数字が細かい。
「倉庫の共同利用についても、場所を空ければ済むものではございません。穀物、薬品、油脂、鉱石では管理方法が異なります。共同利用を始めるなら、少なくとも半年の準備期間が必要ですわ」
「半年では、商機を逃します」
ラクロワ侯爵の補佐官が口を挟む。
「では、商機を逃さないために事故の可能性を受け入れるおつもりですの?」
「いえ、そのような意味では」
「でしたら、どの準備を省き、誰がその危険を引き受けるのかをお示しくださいませ」
姉とは違う。
アルベルティーヌは、責任の所在を正面から問う。
アマンディーヌは、その決定を実際に回すために必要な人数、日数、手順を並べる。
使節団は、何度か二人を見比べた。
広間の端では、給仕へ加わったエマが、その視線を数えていた。
盆を持つ手は、以前より安定している。ただし、相手の顔色を確かめる癖は、まだ抜けていなかった。
主使節。
補佐官。
第三王子。
また主使節。
以前は、失敗しないために見ていた。
今は、相手がどの言葉へ反応したかを覚えるために見ている。
(また妹見た)
(さっきより長いな)
エマがわずかに前へ出る。
マルタが目だけで止めた。
エマは止まった。
口だけが、言いたそうに動いた。
第一回の交渉が半ばまで進んだところで、ラクロワ侯爵が一枚の追加文書を差し出した。
「まずは六か月間、暫定的な条件で運用してはいかがでしょう」
内容は、関税を八割まで引き下げ、夜間利用を月十日に限って認め、倉庫の一角を試験的に共同利用するというものだった。
「半年後、双方の評価をもって正式協定へ移行する。現実的な案かと存じます」
アルベルティーヌは条文を追った。
大筋に問題はない。先ほど指摘した管理責任者も、暫定的ではあるが記されている。
ただし、末尾に一文あった。
――ヴァルモン公爵家内部における最終承認が完了しない場合、本暫定条件は承認完了まで継続するものとする。
「内部承認が遅れた場合、暫定条件が継続するのですか」
「途中で物流を止めるわけにはまいりませんので」
「期限を設けるべきでは?」
「手続の遅れで、両国の商人へ不利益を与えることは避けたいと考えております」
理屈としては分かる。
最終決裁が遅れたからといって、一度始めた利用を即時停止すれば、現場は混乱する。
「継続期間には、三か月の上限を設けます」
「三か月では短すぎます」
「では六か月」
「承認に要する期間は、そちらのご事情です」
「だからこそ、期限が必要なのですわ」
その場では結論が出なかった。
昼食を兼ねた休憩を挟み、午後に改めて協議することになった。
使節団が別室へ移る直前、第三王子ユリアンが、はっきりとアルベルティーヌへ声をかけた。
「一点、伺ってもよろしいでしょうか」
「何でしょう」
「父君の批准へ上げる案は、アルベルティーヌ様お一人で確定なさるのですか」
「外交上の判断は、わたくしが行います。ですが、領地運用上、継続不可能であればアマンディーヌが止めます」
「お二人の意見が異なる場合は?」
「話し合いますわ」
「最終的には?」
「案件ごとに決めます。外交上の損失はわたくしが判断し、運用上の損失はアマンディーヌが判断いたします」
「互いに拒否できる?」
「必要であれば」
ユリアンは一度、アマンディーヌへ視線を移した。
「なるほど」
それ以上は何も言わず、使節団とともに退出した。
(何が、なるほどや)
(仕組みを確認しただけか、それとも割れる場所を見たんか)
扉が閉まる。
エマが、待っていましたとばかりに口を開いた。
「アマンディーヌ様を見すぎです」
「誰が?」
「使節団の皆様です」
「全員?」
「第三王子殿下は三姉妹を見ておられました。ラクロワ侯爵と補佐官二名は、アマンディーヌ様が発言するたび、必ず顔を確認しております」
「何回?」
「侯爵は十一回。補佐官はそれぞれ九回と十三回です」
アルベルティーヌはエマを見た。
「数えていましたの?」
「はい」
「紅茶は?」
「こぼしておりません」
「両立できるようになったのね」
「手元と観察は別でございます」
(言うようになったな)
アマンディーヌが資料を閉じる。
「わたくしに、何かご用があるのでしょう」
「継承のことを探っているのでは?」
アルベルティーヌが言うと、アマンディーヌは穏やかに頷いた。
「おそらく」
「気をつけなさい」
「何に?」
「何にって、そら」
アルベルティーヌは言葉を止めた。
姉としては、変なことを吹き込まれないように、と言いたい。
だが、目の前にいる妹は十七歳である。
次期当主となる可能性を見越し、幼い頃から領地経営を学んできた。外交使節に何か言われた程度で、簡単に揺らぐ人間ではない。
「……相手が何を求めているか、ご自身で確かめてくださいませ」
「そのつもりですわ」
アマンディーヌの後ろで、ミルタが新しい資料を差し出す。
「午後の交渉が延びた場合に備え、河港管理局と南倉庫から追加の担当者を呼んでおります」
「通常業務は?」
「代替要員を配置済みです」
「父への報告は?」
「午前の議事要旨と、暫定運用案の費用試算を届けました。交渉権限と停止権限は、当初の書面どおり変更なしとのことです」
父は席にいない。だが、交渉を見ていないわけではない。
誰が何を決め、どこで止めるかを確認したうえで、娘たちの権限を守るために下がっている。
そこへ使用人が現れた。
ラクロワ侯爵からアマンディーヌへ、庭園での短い面談を求めているという。
アルベルティーヌの眉が動く。
「断って」
「お姉様」
アマンディーヌが先に呼び止めた。
「お受けしますわ」
「二人きりで?」
「ミルタが同席します」
「ですが」
「わたくしの権限へ何を持ち込むつもりなのか、興味がございますもの」
アルベルティーヌは口を閉じた。
アマンディーヌは立ち上がり、礼をして庭園へ向かう。
数歩進んだところで、アルベルティーヌも立ちかけた。
マルタの手が、静かに椅子の背へ置かれる。
「お嬢様」
「散歩ですわ」
「アマンディーヌ様は、お助けを求めておられません」
「別に助けるわけでは」
「では、どちらへ?」
「庭園を偶然通りかかろうかと」
「先ほどまで、書庫へ向かうとおっしゃっておられました」
「予定が変わりましたの」
「エマの件で、本人の知らないところで本人の問題を片づけないと、お決めになりました」
アルベルティーヌは黙った。
「今、お嬢様が割って入れば、先方はどう見るでしょう」
「……姉が妹の発言を監視している」
「はい」
「妹が自由に話すことを許していない」
「はい」
「先方の筋書きを、わたくしが完成させる」
「ご理解いただけて何よりです」
(ぐうの音も出ん)
アルベルティーヌは椅子へ座り直した。
「では、遠くから見るだけに」
「見ないでくださいませ」
「どうして!」
「顔に出ます」
「出ませんわ!」
「出ております」
マルタが蜂蜜飴を一つ差し出した。
「まだ吠えておりませんわ」
「予防でございます」
「最近、飴の出番が早すぎません?」
「学習しておりますので」
(熊が進化しとる)
庭園の一角で、ラクロワ侯爵はアマンディーヌへ、予想どおりの話を持ちかけていた。
「率直に申し上げます」
「どうぞ」
「あなたほどの方が、姉君の補佐で終わるのは惜しい」
アマンディーヌは微笑んだ。
「補佐で終わる、という前提がよく分かりませんわ」
「失礼。ですが、あなたは本来、公爵家の後継となるための教育を受けておられたのでしょう」
「ええ。それは事実です」
「王太子殿下との婚約が解消され、姉君が公爵家へ戻られた。結果、あなたは後継の座を退くことになった」
「正確には、正式な後継指名を受ける前でした」
「実質的には同じことです」
「そうでしょうか」
「あなたの能力は、正当に評価されるべきです」
「正当に評価するとは、具体的にどのような形でしょう」
侯爵は一瞬だけ黙った。
アマンディーヌが興味を示したと受け取ったらしい。
「たとえば、今回の協定において、領地運用を担うあなたへ独立した提案権を設ける」
「現在の停止権限とは別に?」
「現在の停止権限では、姉君の案を退けることしかできません」
侯爵は、諭すように声を落とした。
「あなたご自身の案を、姉君を通さずに作成できる権限が必要ではありませんか」
「わたくしと姉の案を調整し、合意案を父へ上げる?」
「ええ」
「調整が終わらない場合は?」
「双方の同意が得られるまで、暫定条件を継続すればよろしい」
「なるほど」
「さらに、今後の協議では、あなたをヴァルモン公爵家の独立した窓口として扱うこともできます」
「お姉様を通さずに?」
「あなたご自身の判断を尊重する、という意味です」
アマンディーヌは侯爵の顔をしばらく見つめた。
その後ろで、ミルタは何も口を挟まない。
ただ、提案された権限、窓口、暫定条件という言葉を、順に記録していた。
「大変参考になりましたわ」
アマンディーヌが穏やかに微笑む。
侯爵も満足そうに笑った。
彼は、自分が話させられたとは思っていなかった。
同じ頃、家族用の小応接室では、アンブロジーヌが協定書の写しを読んでいた。
本来なら、家庭教師と歴史の授業を受けている時間である。授業は一刻遅らせた。ただし、その分の休憩時間は削らないとレオニーに約束させられている。
「暫定条件で得をする方は分かりました。セルヴァン側です。関税が下がり、夜間利用ができます」
「アンブロジーヌ様のお考えは、まだそこまででございますか?」
レオニーが尋ねた。
「まだ、とは?」
「暫定条件で得をする方は分かりました。では、その利益を継続させるために、先方は何を必要としておりますか?」
アンブロジーヌは協定書へ目を戻した。
最終承認が終わらなければ、暫定条件が続く。
では、正式承認を遅らせるには何が必要か。
姉二人の権限。
片方が拒否すれば、止まる仕組み。
だが、まだ推測である。
アンブロジーヌは口を開きかけ、閉じた。
「証拠が足りませんわ」
「はい」
「庭園で、アマンディーヌお姉様へ何を提案したかが分かれば、もう少し進みます」
「では、それまでは?」
「困る側と得をする側が同じではない、とだけ記録します」
「よろしいかと存じます」
レオニーは答えを褒めなかった。
代わりに、アンブロジーヌが自分で推測を止めたことを確認し、次の頁を開いた。
午後の交渉が始まった。
午前中と席順は同じ。ただし、空気は違う。
アルベルティーヌは、最初からラクロワ侯爵を見ていた。
アマンディーヌは、自分の前に一枚の覚書を置いている。
アンブロジーヌは正式な席には出ていない。別室で待機し、レオニーとともに議事録の写しを読む。
「午前中の協定案について、こちらから確認がございます」
「何なりと」
「アマンディーヌ」
名を呼ばれ、次女が立ち上がった。
ラクロワ侯爵の表情が、わずかに明るくなる。
アマンディーヌは、その変化を見逃さなかった。
「先ほど、侯爵から個別にご提案をいただきました」
「個別に?」
第三王子ユリアンが、初めて侯爵へ顔を向けた。
「わたくしへ、姉とは独立した提案権を設けるというご提案です」
「領地運用を担うアマンディーヌ様のご意見を、正当に反映させるためです」
「現在の停止権限では、姉の案を退けることしかできない。わたくし自身の案を、独立して作成する権限が必要だとも」
「姉君へ従属しない立場を保証するものです」
「従属」
アマンディーヌが、その言葉を静かに繰り返す。
「侯爵は、わたくしが姉に従わされているとお考えですの?」
「あなたは本来、公爵家を継ぐ立場にあった」
「後継教育を受けていたことは事実ですわ」
「やはり」
侯爵が身を乗り出す。
アマンディーヌは微笑んだ。
「ええ。わたくしでも、この家は回せますわ」
広間が静まった。
アルベルティーヌは妹を見た。
声に迷いはない。遠慮も謙遜もなかった。
「領地の収支も、人員も、備蓄も把握しております。父から当主教育を受け、家臣たちとも関係を築いてまいりました」
「でしたら、本来はあなたが」
「わたくしが後継となる可能性は、確かにございました」
アマンディーヌは、すぐには否定しなかった。
「そのために学んだ時間も、将来その椅子へ座るかもしれないと考えたことも、本物ですわ」
アルベルティーヌの指が、わずかに止まる。
「お姉様が戻られたことで、その可能性は閉じました。何も失わなかったとは申しません」
ラクロワ侯爵の目に、期待するような光が差した。
アマンディーヌは、その期待ごと受け止めて続ける。
「ですが、終わった役割があることと、姉に負けたことは同じではございません」
侯爵の光が消える。
「わたくしは、自分が失ったものを理解しております。そのうえで、現在の配置を選びました」
アマンディーヌは一度、後ろのミルタを見た。
「当主にならなかったから、この役割を引き受けたのではありません。人が育ち、今日の決定が明日も続く形を作る仕事を、わたくし自身が好んでおります」
ミルタが静かに頭を下げる。
仕組みが完成するまで、今日を止めない。
それがミルタの役目だった。
「ご家族から、そう考えるよう言い含められたのでは?」
「いいえ」
「能力を認められない者ほど、自分は納得していると言うものです」
アルベルティーヌの指が、机の上で止まった。
(聞け)
(まだ妹が喋っとる)
(本人の言葉の続きを奪うな)
マルタが、後ろから何も言わず見ている。
アルベルティーヌは息を吸った。
耐えた。
「アマンディーヌ様ほどの方であれば、姉君の下へ置かれることに疑問を抱いて当然です」
(耐えろ)
「あなたは、ご自身が失ったものを、まだ正しく認識しておられない」
(耐えろ)
「我々は、あなたへ本来の立場を取り戻す機会を――」
「うちの妹、勝手に負けたことにすんな」
広間が凍った。
ラクロワ侯爵の目が見開かれる。
第三王子がわずかに眉を上げた。
エマの口が、ぱっと開く。
「出まし――」
マルタが手で止めた。
アルベルティーヌは立ち上がっていた。
「当主にならんかったら負けなんか。姉の前に座らんかったら価値ないんか。あんたらが勝手に椅子一個しか見てへんだけやろ」
「お姉様」
「うちの妹はな、譲らされたんちゃう。自分で――」
「お姉様」
アマンディーヌの声は静かだった。
だが、二度目は少しだけ強い。
アルベルティーヌが止まる。
「お怒りになる理由は、わたくしも同じですわ」
「でしたら」
「ですが今、その方がわたくしの言葉を聞かないことを指摘しているところです」
「……はい」
「わたくしの説明は、まだ途中ですわ」
「はい」
「お座りくださいませ」
「はい」
アルベルティーヌは座った。
(妹に猛虎を席へ戻された)
(十九歳、十七歳に着席指導される)
(恥ずかし)
マルタが、そっと蜂蜜飴を差し出す。
「今はいりませんわ」
「喉に来ております」
「妹に叱られた心にも来ておりますの」
「そちらには効きません」
(使えへんな)
アルベルティーヌは蜂蜜飴を受け取り、一度息を整えた。
「……発言を遮りました。失礼いたしました」
ラクロワ侯爵は、少し遅れて頷いた。
「いえ」
アマンディーヌは何事もなかったように侯爵へ向き直る。
「姉は、少々声が大きくなることがございます」
「少々」
第三王子が小さく呟いた。
アルベルティーヌは聞かなかったことにした。
「ですが、姉の言ったこと自体は間違っておりません」
アマンディーヌは続ける。
「わたくしは、お姉様に負けたのではありません。現在の公爵家にとって、最も損失の少ない配置を選んだのです」
「配置、ですか」
「お姉様は、混乱している場へ入り、その場で判断を下すことに優れております」
アルベルティーヌが少しだけ姿勢を正す。
「わたくしは、その判断を翌日以降も続けられる形にすることに優れております」
アマンディーヌは午前中の費用試算を示した。
「お姉様が本日、河港の夜間利用を認めても、警備員も倉庫係も増えなければ、明日には破綻します」
「だから、あなたが人を揃える?」
「人を育て、足りない間は補い、現場が自力で回るまで続けます」
後ろでミルタが、わずかに頭を下げた。
「お姉様が今日決めたことを、明日からも続けられる形にする。それが現在のわたくしの役目ですわ」
「それでも、最終的な地位は姉君の下でしょう」
「上か下かでしか役割を見られないのですか」
アマンディーヌの微笑みは崩れない。
「当主でなければ家を動かせないとお考えなら、それは侯爵の組織が、当主一人へ依存しているというお話にしかなりませんわ」
ラクロワ侯爵の顔から、笑みが消えた。
「わたくしたちは、意見が違っても、家を二つにはいたしません」
アマンディーヌは暫定条件の条項を指した。
「わたくしへ独立した提案権を与え、姉とは別の案を作らせる。両案の調整が終わらなければ、父の批准へは進まず、暫定条件だけが自動的に続く」
「それは」
「わたくしを正当に評価するためではございませんわね」
声は柔らかい。
逃げ道だけが、少しずつ消えていく。
「姉妹の決裁を二系統へ分け、最終承認を遅らせる。その間、セルヴァン王国は低い関税と夜間利用の権利を維持する」
「しかし、物流を止めないためには」
エマがぴくりと反応した。
「協定を止めずに済むよう、三か月の期限を設ける提案を、姉は午前中にいたしました」
「しかし、三か月では」
エマの指が、盆の縁で二回動いた。
「六か月への延長も提案しております」
「しかし、承認手続には不測の遅れが」
「遅らせるために、わたくしを別系統の提案者へ仕立てようとなさったのでしょう?」
「しかし、それは誤解です」
「このやり取りだけで、四回目でございます」
エマが言った。
全員の視線が集まる。
エマは一瞬、ひるんだ。それでも続けた。
「ラクロワ侯爵は、都合の悪い質問をされた際、必ず『しかし』からお答えになっております」
「侍女が口を挟む場ではない」
「申し訳ございません」
エマは頭を下げた。
「ですが、本日の午前から数えて、今ので十二回目です」
「数えていたのか」
第三王子ユリアンが尋ねる。
「はい」
「他には?」
エマはラクロワ侯爵を見た。
「回答を用意しておられる質問には、必ず右手で書類の端を押さえます。想定外の質問には、左手で上着の釦へ触れます」
侯爵の左手は、今まさに上着の釦へ置かれていた。
「現在は、後者でございます」
ラクロワ侯爵が立ち上がる。
「これは侮辱です。偶然の所作を、企みの証拠のように扱うなど」
「エマ」
アマンディーヌが呼んだ。
「はい」
「あなたが観察したのは、侯爵が嘘をついている証拠ですか?」
「いいえ」
エマは少し考え、言い直した。
「準備済みの質問と、想定外の質問で、侯爵の反応が異なるという傾向でございます」
「その傾向から、何ができますか?」
「左手へ触れた質問を、事実と条文で再確認できます」
「よろしいですわ」
アマンディーヌは侯爵へ向き直った。
「エマの観察だけで、侯爵の意図を認定するつもりはございません」
机の上へ、四つの資料を並べる。
暫定条件。
庭園での提案を記した覚書。
六か月間の費用試算。
午前中の権限確認を記した議事要旨。
「ですが、確認すべき質問を選ぶ補助にはなります」
ラクロワ侯爵は何も答えなかった。
「侯爵」
第三王子ユリアンの声がした。
大きくはない。
だが、その一言で侯爵は止まる。
「お座りください」
「殿下、しかし」
「十三回目ですね」
ユリアンはエマを見た。
エマが小さく頷く。
侯爵は顔を赤くしながら席へ戻った。
ユリアンは協定案を手に取った。
「この暫定条件と、ヴァルモン公爵家内部へ複数の提案経路を設ける方針について、私は事前に概要を聞いていました」
広間が静まる。
「殿下」
「姉妹間に継承上の不満がある可能性を探り、それを交渉上の材料とすることも、私が認めました」
アルベルティーヌは第三王子を見る。
彼は侯爵を切り捨てようとしていない。
「ただし、独立した提案権と自動継続条項を組み合わせ、恒常的に決裁を遅らせる仕組みになっていることまでは確認していませんでした」
「でしたら、侯爵の独断ですの?」
アルベルティーヌが尋ねる。
ユリアンは首を横に振った。
「そう申し上げるつもりはありません」
「ですが、知らなかったのでしょう」
「知らなかったのではありません。知ろうとしなかったのです」
その言葉に、アルベルティーヌは黙った。
「私は、姉妹の不一致を利用するという方針を認めた。その先で、どの条項がどのように使われるかを、部下へ任せたまま精査しなかった」
ユリアンは協定案を机へ置く。
「止めるのが遅れました。知らなかったとは申しません」
ラクロワ侯爵が俯いた。
「我々は、役職を失うことと、価値を失うことを同じものと考えていた」
ユリアンはアマンディーヌへ向き直る。
「あなたが当主の座を望まないのは、望むことを許されなかったからだと決めつけた」
次に、アルベルティーヌを見る。
「姉君が戻ったことで、次女が押し退けられたと考えた」
最後に、閉じた扉の向こうを見る。
「そして、末の妹君を交渉に関係のない子供として扱った」
アルベルティーヌの眉が上がる。
「アンブロジーヌが条項を見抜いたことをご存じでしたの?」
「先ほど、控室を通った際に、ご本人から質問されました」
「何と?」
「『アマンディーヌお姉様へ、姉とは別の提案権を持たせたいのですか』と」
「答えましたの?」
「庭園での提案を知っているとは思わず、驚きました」
ユリアンは、ごくわずかに口元を緩めた。
「すると、『今ので左手へ触れましたわね』と」
広間の端で、エマが目を見開く。
「見ておられたのですか」
「あなたの報告を、控室の議事録で読んだそうです」
(末っ子、情報の使い方が早いな)
そのアンブロジーヌは、別室でレオニーから注意されていた。
「確認事項を一つへ絞ると申し上げました」
「一つでしたわ」
「左手の件まで口になさいました」
「あれは確認ではなく、観察した事実を申し上げただけです」
「言い分まで、お姉様方に似なくてよろしいのです」
「どちらのお姉様でしょう」
「お二人ともでございます」
アンブロジーヌは少し考えた。
「では、ヴァルモン家の教育成果ですわね」
「責任の範囲を広げないでくださいませ」
ユリアンは協定書へ視線を戻した。
「誤読を利用して作られた協定を、このまま締結することはできません」
正式に頭を下げる。
「現行案を撤回し、全面的な再作成を申し入れます」
「先ほどの案より、セルヴァン王国に厳しい条件となっても?」
「不当に得ようとした優位を失うのであれば、当然です。正当な利益については、改めて交渉いたします」
「使節団の成果が失われますわよ」
「誤りを成果として持ち帰るわけにはまいりません」
ユリアンは、書記へ向き直った。
「以下を正式な決定として記録してください」
声が変わる。
謝罪する王子ではなく、是正責任を引き受ける監督者の声だった。
「現行協定案は撤回する」
書記の筆が動く。
「暫定利用は開始しない。再作成期間中の関税、河港使用時間、倉庫利用は、現行規則を維持する」
次の一文。
「ラクロワ侯爵を使節団代表から外す。帰国後、協定案の作成経緯と、私を含む承認経路を報告する」
侯爵が目を閉じる。
「新たな協定案では、変更通知の責任者、管理権限、費用負担、停止権限、事故時の責任、暫定運用の期限を、それぞれ明記する」
最後に、ユリアンは自分の名を置いた。
「再作成の責任者は、私が務める」
アルベルティーヌは彼を見つめた。
顔立ちが整っていることは、最初から分かっていた。王族であることも。
だが、その二つは外交協定の欠陥を直さない。
今、初めて評価に値すると思った。
(この人、逃げへんのや)
(侯爵一人に被せて終わらせんかった)
アルベルティーヌは無意識に扇子の柄を握り直した。
マルタが、その動きを見た。
何も言わなかった。
交渉が終わった後。
アマンディーヌは議事録を確認していた。
アルベルティーヌは、その隣でしばらく黙っている。
「アマンディーヌ」
「はい」
「先ほどは、あなたの言葉を奪いかけました」
アマンディーヌの手が止まる。
アルベルティーヌは扇子を閉じた。
「守ろうとした、と言えば聞こえはよいでしょう。ですが、あなたが話している途中で、わたくしが答えようとしたことに変わりはございません」
「ええ」
「ごめんなさい」
アマンディーヌは、すぐには笑わなかった。
「次は、最後まで聞いてくださいます?」
「努力いたします」
「努力では困りますわね」
「最後まで聞きます」
「よろしいですわ」
そこでようやく、アマンディーヌは少し笑った。
「ただし、わたくしの説明が終わった後でしたら、いくらでも怒ってくださいませ」
「それは任せてくださいな」
「声量はお任せしておりません」
後ろでマルタが蜂蜜飴の包みを一つ確かめた。
協定の再作成には、最低でも一か月を要することになった。
ラクロワ侯爵は使節団の代表を外れ、王国へ戻って経緯を報告する。
第三王子ユリアンは、その場へ残ることを申し出た。
「私が認めた方針から始まった問題です。修正を部下へ任せて帰国するつもりはありません」
交渉後の小応接室には、ヴァルモン公爵夫妻、三姉妹、三人の専属侍女、そして議事記録を補助するエマが揃っていた。
父は議事要旨を読み終えた後、初めて交渉の席へ戻っている。
母は、使節団の滞在と社交上の扱いを確認するために同席していた。
「再作成期間中の地位は、セルヴァン王国常駐代表とするのが妥当でしょう」
父が言う。
「王命による正式な権限が必要だ。協定案を作るたび本国へ確認を取るのでは、また責任経路が曖昧になる」
「必要な権限は、本国へ求めます」
ユリアンが答えた。
母が書面へ視線を落とす。
「随行者は、現在の人数を維持なさいます?」
「文官二名、護衛四名、連絡官一名を残します」
「公式行事への出席範囲は?」
「公爵家が必要と判断するものへ出席いたします」
「本国王家との連絡窓口は?」
「王妃である母が担当いたします。王族使節の予算と人員も、母が所管しております」
「承知いたしました」
母は手元の確認事項へ目を落とした。
「滞在中、王族としての公式行事へご出席いただく場合、同伴者に関する儀礼上の調整も必要になります。現在、配偶者または婚約者はいらっしゃいますか?」
「おりません」
「では、長期滞在中の公式行事には、原則として単独でご出席いただく形にいたします」
「お願いいたします」
「お母様」
アルベルティーヌが呼ぶ。
「何かしら」
「今の確認は、本当に儀礼上必要でしたのね」
「先ほどから、そう申し上げております」
「……そうでしたわね」
母は少しだけ微笑んだ。
アンブロジーヌが焼き菓子へ手を伸ばしながら、ユリアンを見た。
本国で継ぐ領地はない。
王位継承上の役目も小さい。
両国の調整役が必要。
アルベルティーヌには、将来的に配偶者が必要。
盤面だけを見れば、答えは簡単だった。
「入婿に置くのが、最も無駄がございませんわね」
アルベルティーヌは固まった。
「アンブロジーヌ」
「はい」
「何の話をしていますの?」
「配置のお話です」
「外交官の配置に、何で入婿が出てきますの?」
「第三王子殿下には、本国で継ぐ領地がございません」
「せやから何や」
「お姉様には、婿が必要です」
「今その話してへんやろ!」
「双方の条件が合っております」
「条件だけで人を婚約させんな!」
父が咳払いをした。
「アンブロジーヌ」
「はい」
「盤面上の条件が合うことと、本人がその役割を望むことは別だ」
アンブロジーヌは父を見る。
「配置としては、誤りですの?」
「配置を考える前に、人へ確認しなければならない」
父は、ユリアンへ向き直った。
「今回の不始末に対する補償として、他国の王子を婿へ受け取るつもりはない」
部屋の空気が変わる。
「娘の婚姻は処分ではない。他国王子の婚姻も、失敗への弁済ではない。条約上の責任と婚姻は別件だ」
「同意いたします」
ユリアンは、迷わず答えた。
「私も、今回の不始末への補償として婿になるつもりはありません」
アンブロジーヌの手が、焼き菓子の上で止まった。
「では、入婿は不適切ですの?」
「今決めることが不適切なのですわ」
アマンディーヌが答える。
「本人が受け入れていない役割へ、条件だけで置いてはいけません」
ユリアンは、ヴァルモン公爵夫妻と三姉妹を順に見た。
「婚姻を検討する可能性まで否定するつもりはありません」
アルベルティーヌの扇子が止まる。
「ですが、検討するのであれば、職務、権限、責任の範囲を明確にしていただきたい」
「婿としての?」
「まず、ヴァルモン家に属する者としての、です」
ユリアンの声は静かだった。
「私は、ヴァルモン家へ入ったとしても、セルヴァン王国の出身であることを捨てません」
父が目を細める。
「両者の利益が衝突した時は?」
「衝突を隠しません。どちらの立場で発言しているかを明らかにしたうえで、調整役を担います」
「双方から、裏切り者と見られる可能性もある」
「ございます」
「それでも?」
「片方へ完全に同化した者には、調整できない衝突もございます」
ユリアンはそこで、アルベルティーヌを見た。
「ただし、役割だけを求められるのであれば、お断りします」
アルベルティーヌは黙って聞いた。
「王子の血だけを利用されるのか。権限を与えられず、調整責任だけ負わされるのか。セルヴァン出身者として異論を言った時、家の敵と見なされるのか」
ユリアンは、一つずつ条件を置く。
「私は、この一か月で、ヴァルモン公爵家がどのような組織かを見たい」
「こちらも、あなたを見ますわ」
アルベルティーヌが答えた。
「何を?」
「失敗を認められるか。部下の不始末を切り捨てずに負えるか。両国の利益が衝突した時、どちらかへ安易に迎合しないか」
アマンディーヌが続ける。
「権限と責任を、同時に求められるか。現場へ負担を押しつけず、継続可能な案を作れるか」
アンブロジーヌも口を開く。
「公爵家の三姉妹を、順位で見ないか」
「それは既に失敗しました」
「では、次に同じ見方をしないかを見ます」
「承知しました」
父が腕を組む。
「一か月を相互評価期間とする。ただし、婚約準備期間ではない」
ユリアンが頷く。
「一か月後、婚姻を申し込む義務も、受ける義務もない」
「はい」
「条約交渉の結果と、婚姻の判断は連動させない。婚姻を断っても、協定上の不利益を与えない」
「同様に、婚姻の話を終えても、職務上の協力は続けられるものとしてください」
「認める」
アマンディーヌが確認する。
「一か月後の選択肢は、三つですわね」
「婚姻の検討を続ける」
「婚姻の話は終える」
「職務上の協力だけを続ける」
父、母、ユリアンが順に答えた。
「双方が適さないと判断した場合は、理由を説明したうえで終了する。よろしいでしょうか」
「よろしいですわ」
アルベルティーヌは答えた。
ユリアンがこちらを見る。
「アルベルティーヌ様ご自身も?」
「わたくしも、です」
「家の都合ではなく?」
「わたくしの婚姻ですもの」
その答えを聞き、ユリアンは初めて、交渉相手に向けるものではない微笑みを見せた。
アルベルティーヌは一瞬だけ目を逸らした。
(何や今の)
(いや、ただの合意確認や)
(そういうことにしとこ)
マルタが主人の横顔を見た。
何も言わない。
アンブロジーヌが小さく頷く。
「では、一か月の仮配置ですのね」
「人を仮置きすんな!」
「アンブロジーヌ様」
レオニーが静かに訂正する。
「配置ではなく、相互評価でございます」
「評価後に正式配置を決めるのでしょう?」
「その言い方をやめぇ!」
アルベルティーヌの声が響く。
アンブロジーヌは焼き菓子へ手を伸ばした。
「本日は頭を使いましたので、もう一つ必要ですわ」
「二個まででございます」
レオニーが皿を遠ざける。
「午前中にも、考えるためには糖分が必要だとお認めになったではありませんか」
「三口お召し上がりになるよう申し上げただけです。個数を増やす許可はしておりません」
「必要量は、考えた時間に応じて変わるのでは?」
「先ほど、夕食前ですので二個までとお伝えしました」
「条件が追加されましたわね」
「最初から申し上げております」
「記録がございません」
「わたくしが覚えております」
「当事者一人の記憶だけでは、証明として弱くありませんか?」
「では、厨房へ確認いたしましょうか」
アンブロジーヌは伸ばしていた手を引いた。
「そこまでの必要はございませんわ」
「ご理解いただけて何よりです」
その隣で、エマが手帳へ何かを書き込んでいる。
「何を数えていますの?」
アマンディーヌが尋ねる。
「アルベルティーヌ様が、ユリアン殿下をご覧になった回数です」
「やめなさい!」
「まだ三回です」
「数字を言わんでええ!」
「では記録だけにいたします」
「記録もやめぇ!」
マルタが蜂蜜飴を差し出した。
アルベルティーヌはそれを受け取りながら、ユリアンを見た。
「一つだけ申し上げますわ」
「何でしょう」
「この家では、黙っておれば役割を決めてもらえると思わないでくださいませ」
「承知しました」
「異論があれば言う。分からなければ確認する。責任が足りなければ、権限を求める」
「はい」
「そして、本人が話している途中で、周囲が勝手に答えない」
最後の一つは、自分へ向けた言葉でもあった。
アマンディーヌが隣で微笑む。
「お姉様も、お忘れなく」
「はい」
「まあ。ずいぶん大人になりましたこと」
不意に、扉の方から声がした。
アルベルティーヌが振り返る。
「お祖母様」
開いた扉の向こうに、ノリオーヌ・ヴァルモンが立っていた。
かつてこの家の当主として公爵領を治め、今はその座を息子へ譲った女である。
その隣には、夫のエドガー。
年を重ね、髪には白いものが混じっている。それでも二人が並んで立つ様子は、幼い頃からアルベルティーヌが見慣れてきたものとほとんど変わらなかった。
「いつから聞いていらしたのです?」
「『本人が話している途中で、周囲が勝手に答えない』あたりからですわ」
「一番聞かれたくないところですわね」
「そう?」
ノリオーヌは楽しそうに微笑んだ。
「五歳の頃のあなたは、お祖父様が自分の焼き菓子をあなたへ渡す権利について、わたくしへ説教しておりましたけれど」
「……覚えておりませんわ」
「わたくしは覚えております」
「お祖母様、それはどのようなお話ですの?」
アンブロジーヌが食いついた。
(やめて)
(そこは食いつかんでええ)
「皆のお茶が揃う前に、アルベルティーヌが焼き菓子へ手を伸ばしたのです」
「伸ばしておりませんわ」
「伸ばしました」
「五歳でしょう?」
「ええ。ですから止めました」
ノリオーヌは淡々と続ける。
「すると、この方がお祖父様の皿から自分の分を一つ渡しましたの」
アンブロジーヌがエドガーを見る。
「お祖父様が?」
「うん」
「それで?」
「アルベルティーヌが、『お祖父様が自分の分をくださるのは、お祖父様の勝手ではありませんの?』と」
アマンディーヌが口元を押さえた。
肩が震えている。
「お姉様……」
「五歳の話ですわ!」
「五歳からですのね」
「何が!」
「権限の所在にうるさいところが」
「アマンディーヌ!」
ノリオーヌが笑った。
「ええ。昔から、人の持っている権限にはうるさい子でしたわ」
そして少しだけ表情を和らげ、アルベルティーヌを見る。
「ですから今度は、ご自分にとって大切な方の権限も、忘れないことですわね」
アルベルティーヌは言葉を失った。
アマンディーヌが話していた。
自分で説明できた。
自分で選んだ役割だった。
それなのに、守りたいと思った瞬間、代わりに声を上げようとした。
相手の権限にはあれほど厳しいくせに、近しい相手だからこそ、自分が代わりに何とかしてよいと思いかけた。
「……はい」
今度の返事は、小さかった。
ノリオーヌはそれ以上何も言わなかった。
褒めもしない。叱りもしない。
ただ、自分の孫が自分で気づいたことを確認したように、一度だけ頷いた。
その横で、エドガーがアンブロジーヌの前にある焼き菓子の皿を見た。
それから、自分のために使用人が用意した皿から一つ取る。
「アンブロジーヌ」
「はい、お祖父様」
「これなら――」
「お祖父様」
レオニーが静かに呼んだ。
エドガーの手が止まる。
「……駄目かな」
「アンブロジーヌ様は既に二個お召し上がりです。夕食前でございます」
「そうか」
エドガーは素直に引っ込めようとした。
アンブロジーヌが、その焼き菓子を見る。
次に祖父を見る。
「ですが、それはお祖父様ご自身の分では?」
ノリオーヌが額へ手を当てた。
アルベルティーヌは目を閉じた。
アマンディーヌはとうとう吹き出した。
エドガーだけが困ったように妻を見る。
「……私のせいかな」
「あなた」
ノリオーヌが深いため息をついた。
「その理屈をこの家へ残した責任を、少しは自覚なさいませ」
「私なのかい?」
「少なくとも半分は」
「お祖母様」
アンブロジーヌが確認する。
「では、お祖父様が自分の分をくださること自体は――」
「夕食後になさい」
「論点が変わりましたわ」
「変えております」
レオニーが静かに皿を下げた。
「本日のアンブロジーヌ様の焼き菓子は終了でございます」
「お祖父様の分まで?」
「終了でございます」
アンブロジーヌはしばらくレオニーを見た。
やがて、小さく息を吐く。
「承知いたしました」
(負けた)
(あれは完全に負けた)
アルベルティーヌは思ったが、口にはしなかった。
妹を勝手に負けたことにするのは、本日もう十分である。
ふと見ると、ノリオーヌがユリアンへ視線を向けていた。
ほんの一瞬。
頭の先から足元まで値踏みするような目だった。
ユリアンが姿勢を正す。
ノリオーヌは何も言わない。
ただ夫の腕を取った。
「では、わたくしたちは戻りましょうか」
「もういいのかい?」
「ええ」
ノリオーヌは三人の孫娘を見る。
「この家のことは、この家をこれから動かす者たちが決めればよろしいでしょう」
そしてユリアンへ視線を戻す。
「その中へ入るかどうかを含めて」
「はい」
ユリアンが答えた。
ノリオーヌはそれ以上問いたださない。
エドガーと並び、部屋を出ていく。
扉が閉じる直前。
アンブロジーヌが小さな声で言った。
「お祖父様の焼き菓子……」
「諦めなさいませ」
レオニーの返答は早かった。
ヴァルモン公爵家の三姉妹は、後継の座を奪い合わなかった。
何も失わなかったからではない。
誰が最も優れているかではなく、自分が何を失い、何を選び、誰をどこへ置けば家が最も強くなるかを、それぞれが考えたからだ。
そして、その判断を支える者たちもまた、同じ考え方をしてはいなかった。
今日の責任を決める者。
その者が必要な場で力を出し切れるよう、状態を管理する者。
今日の決定を、明日も回る仕組みへ変える者。
仕組みが完成するまでの欠員を埋める者。
勝利条件と利得構造を見る者。
その判断力を、答えを与えず育てる者。
さらに、その六人の下では、相手の傾向を記録し、次に問い直す場所を示す者も育ち始めていた。
その考え方は、今日突然生まれたものでもない。
かつてこの家を治めた女公爵は、爵位より働きを見た。
その夫は、公爵家へ婿入りしても、それを自分の出世とは考えなかった。
意見が違えば反対し、理由が正しければ当主も判断を変えた。
誰が上かではなく、誰が何を担うのか。
本人が何を選び、どこまでを自分の責任とするのか。
そうして積み重なったものを、今の三姉妹は、それぞれ違う形で受け継いでいる。
外から見えたのは、当主候補の姉と、後継にならなかった妹と、交渉に関係のない末娘だけだった。
だから使節団は、役割の違いを序列へ変えた。
そして、自分たちが作った物語の中で負けた。
なお、隣国の第三王子をどこへ置くかについては、まだ決まっていない。
決まったのは、今後一か月、互いを勝手な役割へ押し込まず、選ぶに値する相手かを双方が確かめることだけである。
アンブロジーヌだけは、それをまだ仮配置と呼んでいた。
アルベルティーヌ本人は、その呼称を断固として認めていなかった。
そしてエドガーは夕食後、本当に自分の焼き菓子を一つアンブロジーヌへ渡した。
ノリオーヌは止めなかった。
レオニーも止めなかった。
夕食後だったからである。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、後継にならなかった妹を、外から勝手に敗者へしてしまう話でした。
役割が違うことと、価値に上下があることは同じではありません。
そして、守るつもりでも本人の言葉を奪えば、同じことをしてしまう。
今回は三姉妹と三人の侍女だけでなく、少しだけ祖父母にも顔を出してもらいました。
五歳のアルベルティーヌが、
「お祖父様が自分の分をくださるのは、お祖父様の勝手ではありませんの?」
と言っていたあの家です。
十九歳になっても、どうやら権限の所在にはうるさいままでした。
ただし、自分に近い相手の権限まできちんと守れるかは、また別のお話。
三姉妹と三人の侍女、そしてアンブロジーヌから仮配置扱いされている第三王子を、今後も見守っていただけましたら嬉しいです。




