第1話 青い光
白い天井があった。
どこまでも白い天井だった。
蛍光灯の光が薄く滲んでいて、機械の音が、遠くで規則正しく鳴っている。
誰かが、俺の手を握っていた。
細い手だった。
温かかったのか、冷たかったのかは思い出せない。
ただ、その手がひどく震えていたことだけは覚えている。
「もう、痛くない?」
誰かが言った。
女の人の声だった気もする。
子供の声だった気もする。
年老いた男の声だった気もする。
俺は答えようとした。
大丈夫だ、と。
もう痛くない、と。
そう言ってやれば、その誰かは安心するのだと思った。
けれど声が出なかった。
代わりに、青い光が見えた。
白い部屋の中で、淡く、冷たく、けれど優しい青い光が、ゆっくりと広がっていく。
その光を見た瞬間、俺はなぜか思った。
ああ、これでもう大丈夫だ。
誰も、もう痛くない。
そこで、意識が途切れた。
*
目を覚ました時、俺は森の中にいた。
白い天井はなかった。
機械の音もない。
消毒液の匂いもない。
代わりにあったのは、湿った土の匂いと、葉の隙間から落ちてくる朝の光だった。
「……どこだ、ここ」
自分の声が、思ったより掠れていた。
体を起こそうとして、背中に鋭い痛みが走る。
俺は思わず呻いた。
着ている服は、見覚えのない灰色のシャツと、粗い布のズボン。
靴も革製で、現代日本のものには見えない。
現代日本。
そうだ。
俺は日本にいたはずだ。
けれど、名前が思い出せない。
年齢も、仕事も、家族の顔も曖昧だった。
覚えているのは、白い部屋。
誰かの手。
そして、あの言葉。
「もう、痛くない……」
口に出した瞬間、胸の奥がざわついた。
何か、とても大切なことを忘れている気がする。
けれど、思い出そうとすると、頭の中に靄がかかったようになる。
俺は立ち上がった。
森は深かった。
見たことのない木々が並び、幹には青みがかった苔のようなものが張りついている。
鳥の声は聞こえるのに、姿は見えない。
しばらく歩くと、小さな沢に出た。
水面を覗き込む。
そこに映っていたのは、知らない男の顔だった。
黒に近い灰色の髪。
少し痩せた頬。
年齢は十七か十八くらいに見える。
目だけが妙に澄んでいて、自分のものとは思えなかった。
「……俺、こんな顔だったか?」
答える者はいない。
水を掬って飲む。
冷たい。
喉を通る感覚が、妙に生々しかった。
夢ではない。
それだけは分かった。
その時だった。
「いやっ!」
森の奥から、悲鳴が聞こえた。
女の子の声だった。
考えるより先に、体が動いていた。
枝をかき分け、声のした方へ走る。
心臓が痛いくらいに鳴る。
足元の根に何度も躓きそうになりながら、俺は森の中を進んだ。
やがて、木々の間に開けた場所が見えた。
そこに、少女がいた。
年は十二、三くらいだろうか。
栗色の髪を三つ編みにした、痩せた女の子だった。
服は泥だらけで、右足から血が流れている。
その少女の前に、獣がいた。
狼に似ている。
けれど、ただの狼ではない。
背中から黒い棘のようなものが生え、口元には濁った泡が浮いている。
牙は異様に長く、目は赤黒く濁っていた。
化け物。
そう思った瞬間、足が止まりそうになった。
俺は戦えない。
武器もない。
ここがどこかも分からない。
でも、少女は泣いていた。
痛みと恐怖で顔をぐしゃぐしゃにして、震える手で足を押さえていた。
「痛い……痛いよ……」
その声を聞いた途端、胸の奥がひどく苦しくなった。
見ていられなかった。
俺は地面に落ちていた太い枝を拾い、獣と少女の間に飛び込んだ。
「こっちだ!」
叫んだ瞬間、獣の赤黒い目が俺を見た。
まずい。
そう思った。
獣は低く唸り、地面を蹴った。
速い。
避けられるわけがない。
俺は枝を構えたが、腕が震えている。
獣の牙が目の前に迫った。
死ぬ。
そう思った次の瞬間、少女が叫んだ。
「やめて!」
獣の爪が俺の肩を掠めた。
熱い痛みが走る。
体が弾き飛ばされ、地面に転がった。
「ぐっ……!」
息が詰まる。
獣は俺ではなく、再び少女の方へ向かった。
逃げられない少女に、牙を剥く。
俺は立ち上がろうとした。
だが、足に力が入らない。
少女は泣きながら、か細い声で言った。
「痛いの、もういや……」
その言葉を聞いた瞬間。
頭の奥で、何かが割れた。
白い天井。
震える手。
誰かの声。
もう、痛くない?
気づけば俺は、獣に向かって走っていた。
獣に勝てると思ったわけじゃない。
少女を助けられると思ったわけでもない。
ただ、あの声を聞いてしまった。
痛いのはいやだと。
もういやだと。
それを放っておくことだけは、できなかった。
俺は少女を抱き寄せるようにして、獣との間に体を入れた。
獣の牙が、俺の首筋を狙う。
終わった。
そう思った。
だが、牙は届かなかった。
俺の手が、少女の血に濡れた足に触れていた。
その瞬間、指先から青い光が溢れた。
「え……?」
俺の声か、少女の声か分からなかった。
青い光は、火のように熱くはなかった。
水のように冷たくもなかった。
ただ、痛みの奥へ染み込んでいくような、静かな光だった。
少女の傷口から流れていた血が止まる。
裂けていた皮膚が、ゆっくりと閉じていく。
少女の震えが止まった。
「痛く……ない」
彼女は呆然と呟いた。
獣が唸った。
いや、唸ったというより、怯えたような声だった。
俺は顔を上げる。
獣は、俺を見ていた。
さっきまでの獰猛な目ではない。
何か、理解できないものを前にしたように、じりじりと後ずさっている。
俺の手から、まだ青い光が漏れていた。
獣は一度だけ低く鳴くと、背を向けて森の奥へ逃げていった。
追う気にはなれなかった。
というより、立っているだけで精一杯だった。
青い光が消える。
同時に、全身から力が抜けた。
「お、おい、大丈夫か?」
俺は少女に声をかけた。
少女は自分の足を何度も触った。
さっきまで血で濡れていた足には、薄い傷跡だけが残っている。
「治ってる……」
「俺が聞きたいくらいだ」
本当に、何が起きたのか分からなかった。
魔法。
そんな言葉が頭に浮かぶ。
でも、俺は魔法なんて知らない。
呪文も唱えていない。
ただ、痛みを止めたいと思っただけだ。
少女はゆっくりと俺を見上げた。
大きな琥珀色の目だった。
涙で濡れているのに、その奥にはもう恐怖がほとんど残っていなかった。
「あの……あなた、誰?」
「分からない」
正直に答えると、少女は目を丸くした。
「分からないの?」
「ああ。名前も、ここがどこかも、何も」
「名前も?」
聞かれて、俺は言葉に詰まった。
名前。
思い出そうとした。
けれど、何も出てこない。
白い部屋。
手。
声。
青い光。
それだけ。
その時、頭の奥に、ひとつの音が浮かんだ。
ノア。
それが自分の名前なのか、誰かに呼ばれた名前なのかは分からない。
けれど、その音だけは、妙にはっきりしていた。
「……ノア」
「ノア?」
「たぶん、俺はノアだ」
「たぶんって、変なの」
少女は少しだけ笑った。
それから、慌てたように自分の胸に手を当てる。
「私はリオラ。リオラ・フェン。フェン村の者です」
「フェン村……」
「この森の向こうにあるの。薬草を取りに来て、それで……」
リオラはさっき獣が消えていった方を見て、小さく肩を震わせた。
俺は反射的に言った。
「もう大丈夫だ」
その言葉が、自分の口から妙に自然に出たことに、少し驚いた。
リオラは俺を見た。
「うん」
彼女は頷いた。
本当に、安心しきった顔で。
その時、森のどこかで鳥が一斉に飛び立った。
羽音がざわざわと広がり、また静かになる。
俺は自分の手を見下ろした。
青い光はもうない。
ただ、少女の血が少しだけ指先に残っている。
なのに不思議と、嫌な感じはしなかった。
むしろ、胸の奥が静かだった。
誰かの痛みが消えた。
それだけで、体の奥にあった空洞が少しだけ埋まった気がした。
「ノア」
リオラが言った。
「村に来て」
「俺が?」
「うん。マルタおばさんなら、きっと何か知ってるかもしれないし、それに……」
リオラは少し迷ってから、俺の手を見た。
「あなたは、祝福の人かもしれない」
「祝福?」
聞き返すと、リオラは真剣な顔で頷いた。
「神様が、痛い人や苦しい人にくれる力。教会の人がそう言ってた。でも、こんなに綺麗な青い光は初めて見た」
祝福。
その言葉は、なぜか胸にすっと入ってきた。
魔法よりも、奇跡よりも、その言葉の方が近い気がした。
痛みを遠ざける力。
苦しみを終わらせる光。
もし本当に、そんなものが俺にあるのなら。
俺は、何かを救えるのかもしれない。
「村には、痛い人がいるのか?」
俺が聞くと、リオラは少し悲しそうに頷いた。
「いるよ。おじいちゃんも、畑で怪我した人も、ずっと咳をしてる子も」
「そうか」
なら、行く理由はある。
自分が何者か分からない。
ここがどこかも分からない。
なぜこの世界にいるのかも分からない。
でも、痛がっている人がいる。
それだけは、はっきりしていた。
「案内してくれ」
俺が言うと、リオラの顔がぱっと明るくなった。
「うん!」
彼女は立ち上がり、数歩歩いてから、自分の足が痛まないことに気づいたらしい。
不思議そうに何度も地面を踏みしめた。
「本当に痛くない……」
その声は、涙が出そうなほど嬉しそうだった。
俺は、それを聞いて安心した。
リオラは俺の手を取った。
小さな手だった。
温かかった。
その感触に、また白い部屋の記憶が重なりかける。
誰かの手。
握られていたのか。
握っていたのか。
分からない。
けれど今、俺の手を握っているのはリオラだった。
「こっち、ノア」
リオラが笑う。
俺は頷き、彼女に導かれて森の中を歩き出した。
背後で、枝がかすかに揺れた。
振り返ると、遠くの木陰に小さな獣がいた。
さっきの魔物ではない。
栗鼠のような、灰色の動物だった。
それは俺を見るなり、びくりと体を震わせ、森の奥へ逃げていった。
「どうしたの?」
リオラが聞く。
「いや、何でもない」
俺はそう答えた。
青い光のことも。
獣たちが俺を避けたことも。
白い部屋のことも。
何も分からなかった。
ただ、リオラの手は温かかった。
そして俺は、初めて思った。
この世界でなら、俺は誰かを救えるのかもしれない。
それが、すべての始まりだった。




