10
「佐原恭子が言っていた」
「え? 恭子先生が?」
「同期なんだ。俺の。といっても、あっちのほうがいくつも年は上だがな」
同期というのは、ライセンス取得時なのだろうと理解した。所長は育成校出身ではない。けれど、ライセンス取得が同期であれば、研修などで顔を合わせることもあったのだろう。
「昔から、いいやつではあったが、あまり『鬼狩り』には向いていなかったな。あいつは優しすぎるきらいがある」
「……」
「だから、早々に現役に見切りを付けて、育成校の教師になると聞いた時は、似合っていると思った」
その言葉に恭子先生が教壇に立っていた姿を思い出した。恭子先生は、厳しいけれど、優しい先生だった。あたしたち生徒に親身になって向き合ってくれる、素敵な先生。
「あいつは、俺と違って人を育てるのに向いている」
どこか自嘲じみたそれに、あたしは思わず首を傾げてしまった。そんなこと、ないですよ。あたしが言う台詞をわかっていたように遮って、所長は言葉を続けた。
「その佐原がな、……まぁ、これは偶然だったんだが、おまえの指導教官だっただろう。俺がおまえを採りたいと言った時に、わざわざ電話を寄こしてきた」
「え……?」
「おまえの二つ名は、おまえの新しい門出への花向けだったと」
あなたに幸運があるように祈っているわ、と微笑んだ恭子先生の顔が脳裏に浮かんだ。
「あまりにインパクトがあったから目に付いたと桐生も言っていただろう、そういうことだ」
少しでも多くの人の目に留まりますように。記憶に留まりますように。誰にでも愛してもらえますように。たくさんの人に出逢って、最愛の人を見つける間口が広がりますように。
あなたの人生に、たくさんの幸運が舞い降りますように。
「恭子……先生……」
「あいつがおまえの教師で、よかったな」
「あたし、この二つ名でよかったです」
「そうか」
「本当に、よかったです」
「泣くなよ」
「っ、泣いてません」
そうは言ったものの、あたしの瞳からは大粒の涙が零れ落ちていて。困惑した顔であたしを見下ろす所長には申し訳なかったけれど、なかなか止まりそうになかった。
おもむろに所長の手が持ち上がって、ぽんぽんとあたしの頭を撫でる。桐生さんのように慣れていない、ぎこちない動き。力をどれだけ抜けばいいのか測りかねているようなそれが、けれど、たまらなく優しくて、気が付けば、あたしの涙はますます止まらなくなってしまった。
恭子先生。
お父さん、お母さん、瑛人。
桐生さん。――そして、所長。
あたしは紅屋に配属されてよかった。本当に、本当に、よかった。
――なぁ、フジコちゃん。
パソコンを閉じて、部屋を出る前。桐生さんはそう言って笑った。
この一ヵ月をここで過ごして、多少は僕らのことがわかったと思うんやけど、と。
どこか悪戯に。
――あの蒼くんが、二つ名が面白いからっていう理由だけで、フジコちゃんを選んだと、本当に思う?
十年前。所長はもう鬼狩りのライセンスを取得していた。あの声と真摯な態度をあたしは忘れたことはなかった。
「あの、所長」
涙をぬぐって、あたしは顔を上げる。
「ありがとうございました」
今度こそ所長は怪訝な顔をしたけれど。お構いなしにあたしは繰り返した。
「今夜の礼なら、俺より桐生に言うべきだと思うが」
「もちろん、桐生さんにも言いました。でも、所長にも言いたかったんです」
なにを、とは言わずに笑う。「そうか」と所長は素っ気なく言っただけだったけれど、それで十分だった。
赤と青の世界にあたしは立っている。希望と恐怖と、様々な感情の上に成り立つ世界に。この人たちと同じところに立てていることが、幸せだと思った。
外はきっと、まだ星がきらめいている。
【完】




