07
「フジコちゃん」
桐生さんの声に、あたしははっと意識を戻した。ドクン、ドクンと早鐘のように心臓は鳴り続けている。
「来るよ、鬼が」
――来る。
ドクドクと打つ鼓動をおさめようと意識して、一度、目を瞑る。
来るのは、鬼だ。けれど、あたしたちを襲いに来るわけではない。あたしたちは鬼を確保するために、ここで待っている。
言い聞かせて、あたしは眼下に視線を凝らした。細い風と共にかすかな光が差し込んで、入口付近を照らす。そして、影が中に入り込んできた。
――あれが、鬼。
あたしともさほど年頃の変わらない男の人。ゆっくりとした足取りのまま、彼が進む。その姿は、誰かを害す姿も想像できない普通の人間のようだった。
――あぁ、でも、そういえば。
十年前、あたしたち家族の前に現れた鬼も、最初は、優しそうなお兄さんだったっけ。それが急に、変貌したんだったっけ。「鬼」に。紅い目の愉快犯に。
「フジコちゃん、確認」
「は、はい!」
所長から借りたタブレット端末のカメラレンズを鬼に向ける。階下の鬼はあたしたちの存在にまだ気が付いていない。タブレットが鬼の顔を認識し、データベースとの認証を開始する。
「ターゲット捕捉。認証率九十八パーセント。ハヤギ・リュウト。認定ランクB」
「はい、オッケー。ほな、行こか。フジコちゃん」
「はい」
小さく頷いて、あたしは胸元の内ポケットに入っているライセンスと令状とを確かめた。渡辺さんから頂いた手錠も、バッグからスーツのポケットに場所を移している。大丈夫。必要なものは、全部、揃っている。
ライセンスを提示し、身分を明かす。そして、令状の読み上げ。勿論、その時点では、武力を誇示するようなことはしない。あくまで求めるのは同行だ。段取りを頭の中で反芻し、あたしはもう一度、頷いた。
鬼は、あたしたちには気が付いていない。けれど、なにか違和感を覚えているのか、倉庫内を見渡す素振りを見せている。
心臓は相変わらず煩い。けれど、大丈夫だ。問題ない。はじめての臨場で緊張しているだけで、正常の範囲内……の、はずだ。
目視で一階の床まで二メートル強。さすがのあたしでも、この程度なら問題なく飛び降りることはできる。
「行きます」
あたしのタイミングを待っていてくれる桐生さんに宣言し、手すりに足をかける。足の裏からダン、と短い衝撃が突き抜けた。目前に現れたあたしに、鬼が僅かにたじろぐ。
今のところ、良し。言い聞かせて、あたしはさっとライセンスと令状とを提示した。
「政府公認事務所『紅屋』所属の特殊防衛官です。ハヤギ・リュウト。婦女暴行の容疑で逮捕状が出ています。本部までご同行願います」
驚くでも怒るでもない表情の薄い瞳があたしを見て、あたしの後ろを見た。桐生さんだ。ここで、力の差を感じて折れてくるのならば、一番良いのだけれど。頭の中で、自分の心臓の音が鳴り響いている。
忙しなさをひとつずつ数えて、あたしは鬼を見据えた。お父さん、お母さん、瑛人。皆の顔を思い浮かべる。そうすると、ほんの少し、心が凪ぐ。あたし、今、見習いだけど「鬼狩り」として、「鬼」の前に立ってるよ。あの日の、あの人のように。それが、あたしが選んだ道だよ。たとえ、褒められるような理由ではなかったとしても。
鬼は応じない。あたしはもう一度、静かに問いかけた。
「ご同行願えますか」
――目が、紅い……?
鬼は興奮すると、瞳が赤くなり、その本性を現すという。人間より、自分たちのほうが上位であると示すような、その容貌を。




