08
「ご迷惑おかけしないように、精一杯頑張ります」
あたしを静かに見上げていた所長の瞳が手元の書類に落ちて、そしてまた持ち上がる。
「なら、いい」
「ありがとうござい……」
「ただ、ひとつだけ言っておくが」
ほっとしかけたのも束の間、続いたそれに、あたしの背筋がぴしりと伸びる。この一月で所長の謎の威圧感にも慣れたつもりだったのだけれど、なんだか少しいつもと違うように思えたからだ。
「憧れたというのはおまえの勝手だが」
所長の言葉が先程のあたしの発言に起因していることは明白だった。
所長の瞳の色は、あたしよりずっと大人の男の人にいう台詞ではないと思うのだけれど、どこか子どもみたいに透明で、それでいて眼光が鋭い。心の内を見透かされている心地に、あたしは所在なく指先を絡めた。
「特殊防衛官は、正義の味方でも、秘密のヒーローでも、なんでもない」
「……わかって、ます」
「ならいい」
「でも、その、あたしにとっては憧れだったんです」
あたしの答えを受けて淡々と視線を手元に戻した所長に、気が付けばあたしは食い下がっていた。
「あたしにとっては、その人はヒーローで、あたしにとっての指針だったんです」
十年前。あたしを助けてくれた鬼狩りの影が視界の端をちらつく。ヒーローだと思った。あるいは、神様みたいだと思った。
呆然自失だったあたしの前に膝を着いて、あたしの家族を救えなかったことを謝ってくれた。
その声が、なぜかひどく痛くて、あたしは泣くことを思い出したのだ。十歳のあたしは、間違いなくその人に救われた。
だから。……だから、所長に否定されたくなかったのかもしれない。
「憧れて、それを目標に頑張ってきたんです。それはいけませんか」
頭の奥の冷静な部分が、そんなことを言う必要があるのかとあたし自身に問いかけている。
畳みかける必要なんてなかったはずだ。わかっている。でも、言葉は止まらなかった。
ゆっくりと所長の顔が上がる。いつもと変わらないそれのはずなのに、あたしは知らず、手を握り込んでいた。
「それが、おまえが特殊防衛官を目指した理由か」
「いけませんか?」
一息吸って、ゆっくりと吐き出す。謝れ、とあたしの中であたしが叫んでいる。そんなことを言っても意味はないだろう、と。謝って、仕事に戻れ。それが正しい、と。
わかっている。けれど、もうひとりのあたしが、否定されたくない、と駄々をこねていた。
答えの代わりのように、所長が小さく嘆息したことがわかった。呆れられてしまっただろうか、と今更になって怖くなる。けれど、退き方もわからなくなって、あたしは所長の前で立ち尽くしていた。
「蒼くん」
あたしの挙動を見かねたのか、桐生さんが所長を呼ぶ。窘めるわけでもない、いつも通りの軽い調子で。所長の視線がすっとあたしから逸れる。
「もう本部に行かなあかんのと違う? 僕もすぐに追いつくから、先に準備しといてよ」
「わかった」
了承して席を立った所長は寸分たがわずいつも通りだった。いつも通り。はっとして、あたしはすぐ横を通って行った背中に向かって頭を下げる。
「お疲れ様です。お気を付けて」
「遅くなる。時間になったら、おまえは帰れ」
義務的な指示を残して、ドアの奥にその姿が消える。意識しないうちに肩に力が入っていたみたいだ。そっと息を吐いたあたしに、桐生さんがノートパソコンを閉じて、小さく笑った。
「ドンマイ、フジコちゃん」
「あ、あの」
なんだか、少し前にも同じ台詞を言ってもらったなぁと思いながら、手招きされるままに自席に戻る。でも、なにをどう言えばいいのかはわからなくて。言い淀んだあたしに、桐生さんが苦笑をこぼした。
「怒ってるわけではないと思うよ。ただ」
「……はい」
「まぁ、なんと言うか、蒼くんも十年選手やからねぇ、思うところはあるんやないかな」
「十年、選手……」
それは、もしかしなくてもライセンス取得してからの時間なのだろうか。あたしはますます所長の年齢が謎になってきた。
思わず呟いたあたしに、桐生さんが笑みを深くする。




