09
「あの、すみません。送っていただいて」
あたしの少し前を行く背中にかけた声は、申し訳なさから、かなり小さなものになってしまった。もう二度とひとりで残業はしないと心に誓う。気まずいというのもあるけれど、それ以上に申し訳なさで胸がいっぱいだ。
――お疲れだろうに、邪魔しちゃったなぁ。
紅屋から寮までは、距離的には近いのだけれど、桐生さんの言う通り、暗い道が多いのだ。今もあたしと所長のほかに、この川べりを歩く人はいない。
罪悪感をさておけば、ティーシャツ、スウェットにかろうじてカーディガンを羽織っているだけの所長の姿は、後ろから見ても学生にしか見えない。前からは、あえて明言はしないことにするけれど。
「どうだ。仕事は」
「あ、……え、と。できないことも多いですが、桐生さんにもいろいろ教えていただいて、なんとかやっている……感じです」
まさか所長が、そんなふうに話を振ってくれるとは思っていなくて。あたしはほんの僅か、驚いた。無論、嬉しくて、だ。
「そうか」
「はい。あの、勿論、所長にも感謝していて。あの、あたし、至らないところはたくさんあると思うので、なにかあれば、仰っていただければ、その」
言われずとも気付け、が、できれば一番良いのだろうけれど、それでも、と。言い募ったあたしに、所長の肩が小さく揺れた気がした。
「卒業成績が下位だったというわりには、知識もしっかりしていて助かっている」
「あはは、本当に下位だったもので、……その、すみません」
「原因は、実技か?」
続いたそれに、照れ笑いが凍り付く。
「あいつは、筋は悪くないと言っていたが」
「え……えぇ、と」
あいつというのは、間違いなく桐生さんで、訓練場で指導していただいたときの話だろう。どう答えてもボロが出そうで言い淀む。
そのあたしの沈黙をどう取ったのか、所長の声がまた届いた。こんなにたくさん所長の声を聞いたのは、もしかするとはじめてかもしれない。
「卒業試験の前の最後の課題で、倒れたそうだな」
その言葉にドキリと心臓が脈打った。血の気がさっと引くような感覚。
奈々、奈々。次いで、叫ぶ同期生の声が頭に響く。
先生、奈々が。
大丈夫、と応えたいのに喉から声が出ない。怖い。紅い瞳が怖い。
脳一杯に張り付いたそれを振り切って、あたしは声を振り絞った。
「倒れたというわけでは……」
「違うのか?」
冷たいように響くそれに、必死で食らいつく。
「予備試験では合格しました。だから、研修生になれたんです」
「質問の答えになっていないが」
その精一杯を一刀両断されて、クロスボウの入ったリュックの肩ひもを握りしめた。そして、静かに深く息を吐く。大丈夫。大丈夫。言い聞かせて、もう一度、顔を上げる。
「……倒れたのは、事実です」
「理由は?」
所長の声は、淡々としていて、詰問というよりも事実確認の様相だった。事実確認。
けれど、だからこそ、鬼が怖かったからだとは言えなかった。
「……」
「どうした。答えられないのか?」
その問いかけは、ある意味であたしが一番恐れていたものだった。配属初日、桐生さんの前で勘違いした「鬼」に盛大に脅えてしまった時から。次に任務が入れば一緒に出動するよと告げられて、笑顔が固まりそうになってしまった時から。
――鬼が怖い研修生だなんて、使い物にならないと断ざれるに決まっている。
それは、あたしの夢が絶たれてしまうことと同義だった。
背に負うリュックの重みが一気に増した錯覚を覚えて、あたしは立ち止まる。
その気配に反応して、だろう。所長もまた足を止めて振り返った。夜風が髪の毛を巻き上げて視界を奪う。所長がどんな顔をしているのかはわからなかったけれど、きっと、いつもの静かなそれなのだろうと思った。
――ねぇ、ミス・藤子。あなたは本当に「鬼狩り」にならなければいけないのかしら。
育成校でお世話になった恭子先生の声があたしに問う。
恭子先生、あたしは鬼狩りになりたいの。向いていないかもしれないけれど、なにがなんでも、鬼狩りになりたいの。頑張るから。だから。
必死に言い募ったあたしに、恭子先生は折れてくれた。けれど、所長はどうだろうか。
あたしを育ててくれた先生ではない。あたしはもう生徒ではない。あたしは一研修生で、所長は上司だ。
鬼と対峙しなければ仕事にならないのに、その鬼を怖いなどという研修生を置いておく必要性はないだろう。
おまけに、所長は、あたしなんかでは想像が付かないようなとてもすごい鬼狩りで、だから、なおさら。
あたしの葛藤を理解してもらえるはずがない。
――だったら、誤魔化すしかない。怖くなんてない。なにもなかったって言い張って、それを突き通すしかない。
意を決して顔を上げる。所長は想像通りの静かな面持ちで、あたしを待っていた。急かすわけでも、怒るわけでもなく。
その瞳と視線が絡んだ瞬間、言い繕うと企んでいた気持ちが、急速に萎んでいった。
――あ、……そうだ。
そうだ。主張していたあたしの自己本位が、揺らぐ。
もし、本当に所長が知る必要があると判断したら、学校に問い合わせればいいだけの話なのだ。そして、そのまますぐに解雇することだってきっとできる。それなのに、そうしないで、今、あたしに直接聞いてくださっているんだ。
気が付けば、所長にわかるわけがない、と。勝手に切り捨てた激情がひどく恥ずかしかった。




