08
良いことなのか悪いことなのかはさておいて。紅屋の事務所にひとりでいることに、あたしは少し慣れ始めていた。
思い返せば、配属初日。電話が鳴ったらどうしようと怯えていた緊張が早くも少し懐かしい。とは言え、今も電話を取る瞬間は多少はドキドキするけれど。
――だって、本当に、ふたりともよくいなくなるんだもんなぁ。
それはつまり、それだけお忙しいということと同義でもあるわけで。
そして、今日もふたりそろって、二時を過ぎたころに、事務所を後にされている。定時になったら切り上げて帰るようにとの言伝もいただいたのだけれど、それも聞き慣れてしまった常套句だ。
この事務所はホワイトですね、と。以前、桐生さんに言ったらば、何とも言えない顔で「どうせそのうち、帰りたくても帰れなくなる日がやってくる」と言われてしまっている。
とどのつまり、帰れるのは今のうちだから遠慮なく帰れと意訳させていただく。
――まぁ、でも、実際。外での任務が入れば、定時だなんだの言っている場合じゃなくなるだろうからなぁ。
外での任務、というのは、すなわち実戦。
そのなかでも一番多い仕事は、逮捕状が出ている鬼を確保することだ。大人しく同行するというのなら、それで良し。令状に従わないとなれば、武力を持って、ということになる。
――実戦。
ファイルに眼を落としながら、眉間に皺が寄ったことを自覚して、頭を振る。
鬼狩りとして生きていくのなら、避けられるわけのない仕事だ。それに、――。
問題なかったじゃない。あたしは自分自身に言い聞かす。まったく問題がなかったと言えば嘘になるかもしれないけれど、でも、あたしは育成校をちゃんと卒業できた。それが答えだと思いたい。
初日、やらかしちゃったからなぁ。あれ以来、桐生さんは特になにも言わないけれど。実際のところ、どう思われているんだろう。鬼を怖がっているだなんて、知られるわけにはいかない。
頭に浮かんだ育成校時代の恩師の顔を振り切って、あたしはページを繰った。事務作業も教えてもらっているけれど、まだまだあたしひとりでできる作業は少ない。
だから、ひとりのときは、自分のやれる範囲を終えてしまったら、キャビネットに座する膨大な任務報告書に眼を通すことにしている。
整理がてら目を通しみて、とも言われているそこには、紅屋が携わった数々の案件が眠っている。それこそテレビのニュースで見た覚えのある大規模な捕り物から、傷害や殺人を犯した鬼の確保まで多岐にわたる内容ばかりで。
怖くない。
一文、一文、読み込みながら、あたしはもう一度繰り返した。これは確かに人に害を為したけれど、法令に乗っ取り罰せられる鬼だ。所長や桐生さん、――鬼狩りによって適正に確保された鬼だ。
だから、怖くない。
そしてまたあたしは、のめり込むように報告書に眼を落とした。
「あれ? フジコちゃん。まだ帰ってへんかったの。電気が付いてるから変やなぁとは思ってたんやけど」
ガチャリと開いたドアの音と桐生さんの声に、あたしは勢いよく頭を上げた。
「へ? あ、お疲れ様です!」
「フジコちゃんもお疲れ様。というか、もう八時回ってるんやけど、どうしたん」「えぇ? ――あ、本当だ。すみません、ちょっと読みふけってしまって」
桐生さんの言葉に驚いて時間を確認すると、九時近くになっていた。
すぐに片付けます、と口早に釈明して、ファイルをかき集める。駄目だなぁ、ついつい時間を忘れてしまっていた。
「物好きやねぇ、フジコちゃんも。こんなに遅くまで自ら居残って。僕なんて、お偉いさん方の相手で、へとへと」
「そういう仕事もあるんですか?」
「新年度やからねぇ。僕から見たら無意味としか思えんような会議とか、会食とか。特Aって、ろくなことないよ、ほんまに」
「そういえば、以前にも仰っていましたね。お疲れ様です。まだここでお仕事されるんですか?」
キャビネットの鍵をかけて振り向くと、桐生さんは言葉通りのお疲れ顔でネクタイを緩めている。
「いや、もう今日はなにもせんつもりやったんやけど。知らんかったっけ。フジコちゃん。僕も蒼くんも、ここに住んでるんよ」
「……知りませんでした」
そう思うと、知らないことばっかりだ。そういえば、三階以上のフロアは紅屋が借り切っているとは聞いていたけれど、このフロアの奥にあるドアの先を見たことはない。
「言うてへんかったかもね、そういえば。まぁ、善し悪しやけど。職場とプライベートが一緒っていうのも」
「確かにそうかもしれませんね」
ついでに、それほどまで距離が近かったら「弟」というのもわからなくはないなぁとも思いながら。相槌を打ったあたしに、桐生さんが続ける。もしかして、あたしが閉めるまで待っていて下さるつもりなのだろうか。
「でも、フジコちゃんも似たようなもんか。今、研修生の寮に入ってるんやろ? ここから十分くらいの」
「仲の良い同期と一緒なんで、楽しいですよ。それに、歩いてもすぐの距離なので助かってます」
「あー、そうか。歩きか。フジコちゃん」
あたしの返答に、なぜか桐生さんが渋い顔をした。そして廊下に向かって声を張り上げる。
「蒼くーん。蒼くん。ちょっと」
所長まで! と、あたしがぎょっとするより早く、所長が廊下の奥から姿を現した。そしてあたしを確認して、微かに眉を上げる。
「なんだ、まだ残っていたのか」
「すみません……」
「いや、フジコちゃんが謝る必要はないんやけど。ただ、危ないから。あのあたり都心のわりに道も暗いし。だから、蒼くん。送って行ってあげて」
とんでもない方向に進み始めた話に気が付いて、あたしは慌てて首を振った。
「大丈夫、大丈夫です! そんな恐れ多い」
桐生さんと違って、所長は既にいつものスーツを脱いでいる。もう休むつもりだっただろうことは想像に難くない。おまけに遅いと言っても、まだ九時にもなっていない時間だ。
「恐れ多い、って。一応、雇い主は蒼くんなわけやし。業務で遅くなった若い女の子をひとりで帰すわけにもいかんやん」
「そんな……あたしが勝手に残っていただけですし」
「まぁ、それも含めて、僕らの管理不行き届き。オッケー? フジコちゃん」
だったら、桐生さんでもいいのではないか、と。思ってしまったあたしは間違っているだろうか。所長もそう思ったのか、桐生さんを無言で見上げている。だって、桐生さんだったら、まだスーツだし。外にもすぐに出れそうだし。ふたりきりでもそこまで緊張しないし。
「僕が、誰の代わりに、あれだけ大量にお酒を飲んで、お愛想振りまいてきたと思ってるの」
呆れたような桐生さんの一言に、所長が嫌そうに眼を眇めた。そしてそのまま無言で踵を返す。
「え、えっと、あの」
「あー、大丈夫、大丈夫。帰る準備しておいで、フジコちゃん。あれ、上着を取りに行っただけやから。すぐ戻ってくるよ」
笑いながらの桐生さんの言葉通り、本当にすぐに所長は戻ってきて、
「帰るぞ」
と言った。




