05
「――フジコちゃん?」
「あ、はい!」
桐生さんの声に、あたしは沈思考から覚めて顔を上げた。いけない。多分、話を聞いていなかった。
「すみません、もう一度……」
「いや、ちょっと話を戻しただけやったんやけど。フジコちゃん、蒼くんのこと怖いんかなって」
「え、……と」
そこに話が戻るのか、と。あたしは少し答えに窮してしまった。そりゃ、怖いか怖くないかの二択となると前者かも知れないけれど、でも。
「怖いというか、その」
そういうふうに言い切ってしまうほどには所長のことを知らないけれど。知らないからこそ、あの雰囲気だけであたしの想像が先走って怖いというか。まぁ、その取っ付き難いは難いというか。
……それとは別の意味で、呆れられていたらどうしようという怖さが降って沸いたばかりではあるけれど。
「うーん。そうやねぇ、まぁ、怖いか。僕は見慣れてるからなぁ、不機嫌でもなんでもないってわかるんやけど。そういう問題でもないもんねぇ」
どことはなく困った雰囲気に、あぁ、とあたしは桐生さんにも申し訳なくなった。
研修生と所属長が不仲だ、なんてことになった日には困るのは桐生さんだ。
「蒼くんの態度もあれやけどね。いくつも年下の女の子なんやから、もうちょっと気を使って、柔らかい接し方してあげたらええのにとも思うけど」
それはそれで申し訳ないと思いながら、あたしは更に眉を下げた。ついでに言えば、柔らかい雰囲気の所長って、想像の許容値を超えたなぁ、とも思いながら。
「良くも悪くも、誰に対してもあんまり態度を変えへんから、あの子」
「え?」
「ほんまに怖いんやったら、僕から言うとこか? それであの不愛想がどうにかなるかはわからんけど」
あたしの答えを待つ桐生さんの瞳の色は深い。いろいろと見透かされているような気がするのは、あたしの心の持ちようの所為かもしれないけれど。
「便宜上、蒼くんが所長ではあるけど、まぁ、……こういう言い方すると蒼くんは怒るけど、弟みたいなものでもあるし」
苦笑じみた声に、あたしは首を横に振った。桐生さんの提案に乗るのは楽だけれど、本当にこれから関係を創っていきたいのなら、逃げてはいけないように思えたからだ。
「で、でも。その、大丈夫です。あたしがなんとかします!」
怖いと思うのは、知らないからで。知らないのはあたしが知ろうとしないからで。これから同じ職場で働かせてもらうのに、それってすごく失礼だし、勿体ない。
桐生さんもだけれど、所長も、本来であれば、あたしがこうやって喋ることもなかったような人たちだ。
「とりあえず、挨拶の後になにかしら一言二言付け加えてみるところから始めてみます」
千里の道も一歩から。塵も積もれば山となる。あたしにできることは、あたしから一歩踏み出してみることだけだ。
そもそも「怖い」というのも、あたしが勝手に思っているだけの話であって、理不尽なことをされたわけでもないわけで。
「えぇ子やね、フジコちゃんは」
宣言したあたしに、桐生さんは微笑んで、手のひらに記章を戻してくれた。丸みを帯びた蒼が、蛍光灯の光を受けてきらりと輝く。
果たして、あたしの記章に星が付く日はいつになるのだろうか。
「ちなみに、ウチの蒼くんはね」
「所長は?」
「僕いわくの、駄目可愛い弟で、存在自体が最終兵器」
「ご兄弟じゃない、ですよね? というか存在が最終兵器って、……所長の登録武器が、ですか?」
そういえば、さっきも弟みたいなものだと言っておられたけれど。まぁ、あれかな。おふたりとも御三家の人間だし、昔から面識があったのかな。後半はもう見当さえ付かないけれど。
首を傾げたあたしに、桐生さんがしたり顔で続ける。
「世間話のネタにあげる」
「世間話……」
「挨拶のあとになにかしら付けるいうても、最初のうちはネタ探しも大変やろ?」
確かにそうかもしれないと、あたしは笑った。桐生さんの後押しは有り難く受け取ろう。
「だから、選択肢のひとつにしたらえぇよ。聞いたらなんでも答えてくれるしね、たぶん」
「頑張ってみます」
改めて宣言したあたしに、桐生さんが微笑う。苦笑と優しさの中間みたいなそれで。
「あんな顔やけど、悪い子やないからね」
悪い「子」ときたか。「ところで所長っておいくつなんですか」と聞きたくなる衝動を堪えて、あたしは「はい」と大きく頷いた。
所長についてわかったこと、その一。とりあえず年齢的には桐生さんより下らしい。
ついでにもうひとつ。できれば、あの仏頂面は、あたしの不出来の所為ではなく、元来のものであればいいなぁ、とも願いながら。あたしは明日の朝、挨拶の後になにを付け加えてみようかと思考を巡らした。
年齢について突っ込むことができるだろう日は、まだ遠い。




