東京異世界ロープウェイ 2
この冬一番の寒さで体の体温が奪われて行く。耳の奥からは、海辺で波が砂を洗うようなザーザーという音が繰り返し、繰り返し、鳴っている。その音はまさに、自分の体が命を絶やすまいと、必死に体の隅々まで血液を送る鼓動の音であり、生命持続限界のサインでもある。臥床した体で動きが鈍くなった自分の腕を、何とか体を反り、手の平を見る。
これまでこんなにじっと、この体の一部分を見たのは初めてだ。健康でいた頃は肌色だった手の平が、血の流れが滞り紫色に変色している。立ち上がることができないほど全ての筋肉と関節が拘縮し、魚の干物のように固まり、動かせなくなっていく私が今そこにいる。もうこれ以上身体に負荷が掛かり続けると、人間という動物は、この地球上で生きる限界を超え、そこから先は死へのカウントダウンが始まる。凍死?あるいは餓死?この近代国家の日本において、人間として最低限の生活さえできれば決して遭遇することが無い現実が間近かに迫り、ただ今はその立場をひとり受け入れ耐えることしかすべがない。路上の隅から段ボールを纏い、体を震わせ、上目遣いで見る光景は、沢山の群集が物言わず前を向いて歩く姿。青年、中年、高齢いろんな人間が働らくため、この街で生きる為に会社に向かっている。
私もほんの少し前までは、同じ人間としてここを歩いていた。しかし今となっては心も体もすっかり疲れ果て、それでも、かろうじて残っていた人間の尊厳すら動物として生きるために剥ぎ取られ、日々ここで時を刻んでいる。この人達はいったい、今何を考え歩いているのだろう?果たしてこれからも、私があの時感じていたように、自らの安泰の人生が続くとでも思っているのだろうか・・・・・・
全て今を生きる大人達の始まりは、人の手を借りて生まれた赤ん坊。それから多くの人の世話になり大人になってしまうと、途端にさも独りで大きくなったような顔をして、自分は偉い、他人の世話になどならない、自分こそが自立した人間なんだとみんな言う。
しかし、そう言う人に限って外出して便意を催した公園のトイレで、たまたまトイレットペーパーが準備されていないと、たちまち慌てふためき憤慨し、誰が悪いだの、責任者は誰なんだと人を責めて自分の正当性を訴える。大人になり成長し、自ら用を足すことができるようになっても、排泄という人間の日々起こる生理現象でさえ事前に予期し、ぺーパーを持ち歩く準備すらできない未だ人任せの自立した人間だ。こんな人は、社会は支え合い協力し合って生きていることを知らない。果たしてどこが自立しているのだろうか?
それに引き替え私は、公園に捨てられた野良猫のように人間との糸は、ほとんど寸断され繋がっていない。可愛い野良猫ならば慈悲で餌をばら蒔いてくれる人もいるだろうが、
「大人なら当然働いて食えるんだから」と人は言う。だから私には、そんな慈悲の糸すら繋がらない。そんなふうに考えると、何処までも続く都会の砂漠の中で、たったひとり路上生活者となった私こそが誰にも頼らない自立した人間ではないだろうか。