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「うかりける 人を初瀬の 山おろしよ」
森に駆け込んだ俺は、目についた一番太い木に向かって飛びあがった。それに合わせて足元に颪を出すと、風圧に押されて単純な跳躍では届かない高さの枝にまで登れる。それでもまだ心もとなくて、体力の限界で震える足を滑らせそうになりながら、もっと高いところの枝によじ登った。
あの体液を飛ばしてくる虫は、木に絡みつく蔦を棲み処にしている。しかし、その蔦の多くはそれほど長く伸びてはいない。古く枯れた蔦は、今俺が登ってきた高さよりも上まで伸びているから、毎年枯れて生えてを繰り返しているのだろう。なんにせよ、虫がいる高さよりも上に来たおかげで厄介な攻撃は届いてこなくなった。
「一匹づつは倒してられないからな……。また奴らが落ち着くまで待つ方が賢明か?」
疲れのせいか考えていることが口から垂れ流しになる。だが、黙って考えようとすると考えがまとまらずに霧散していく。
「ポエットは、大丈夫そうだな」
枝葉の間からきのこの収穫に動いているポエットが途切れ途切れに見える。ひどい怪我を負っていたが、片腕が使えない以外の支障はなさそうなので、虫の攻撃が向かない限りは大丈夫だろう。
虫だって、無尽蔵に体液を飛ばせるわけではない。体の大きさに見合わない量を飛ばしてはいるが、魔法で生み出しているものでもないから、いつかはそれが尽きる。実際、最初に比べたら飛んでくる量は半分ほどに減っていた。これなら待っていたらそう時間もかからずに攻撃も止むだろう。懸念すべきは、森の奥から新手がやってくること。それから、はじめに体液が尽きた虫が回復する可能性もある。
「あの虫の生態、もっと聞いておけばよかったな。名前すら知らないしな」
そういえば名前どころか、姿さえ葉の陰に隠れた一部しか見ていなかったな。
情報が足りない状態では、どれだけ考えても憶測にしかならないので、正解が決められない。いつまでも決定が下せないせいか、余計に思考がとっ散らかった。
「結局、正解は場当たりか」
体力も魔力も消耗しすぎている。完全詠唱の魔法を使えば限界が来るだろうし、そうでなくとも残り数回が限度だろう。なにより、走れるかも怪しい。
「よし、行くか」
遠くで、ポエットが手を振っている。きのこを集め終わったらしい。それに応えて俺が手を振り返したのが見えたのか、虫を刺激しないように慎重にだが、こちらへ向かってくる。合わせて、俺も木から飛び降りた。
「うかりける」
本日何度目になるか分からない颪。一番小さいやつを地面近くに出してクッション代わりにする。途端に、収まりかけていた攻撃がまた少し増えた。
「しのぶれど、色にいでにけり、わが恋は」
一番小さな台風を三度重ねがけした。そこそこ厚くなった風の壁は、俺が進むのに合わせてついてくる。
ほんの一瞬だけ立ち止まって動けることを確認したあと、ポエットを目指して走り出した。
さっきはほんの数発の攻撃を止めて一瞬で消えた小さな台風も、さすがにこれならしばらく持つ。森から抜けるまでは、もたもたと無様な走り方で転ばないことばかりに集中して飛んでくる体液を避ける余裕もないから、せめてその数歩の距離を残ってくれたらと思って魔力を込めた。それが意外に優秀で、足元に引っ掛かりそうなところに生えている草まで退けてくれるから随分走りやすい。
木の隙間をすり抜けて、まだ邪魔が少ない水辺に出ると残っていた泡ガニの注意もこちらに向いた気配がした。しかし、さっきあれだけの仲間がやられたことも分かっているのか、むやみに泡を飛ばしてくる様子はない。
「しのぶれど」
ポエットのところまでもう少しだが、消えかけた台風を貫通した体液が腕をかすめて上着を焦がしたので、ちいさなやつを重ねがける
「こっちだ、アスター! 走れ!」
「っは、はぁ……走って、る、だろっ」
最短距離での合流ではなく、途中の背の高い水草が生い茂るあたりで方向転換して、その水草に隠れたポエットに手招かれる。小さく文句を漏らしながらそこに滑り込むと、ポエットが水草の中に紛れる花を振ってその花粉を集めていた。片腕で器用に器を花の下に固定しているが、それでもやりにくそうなところを見て息を整えながら杖を構える。
こちらも限界だが、肉が溶けて未だに血が滲み続けている傷は目にも毒だ。ギリギリを見極めて、魔力を流した。
「高砂の」
ひどい傷ではあるが、範囲で言えば二の腕のみ。皮膚と筋肉の表面が溶けているが、骨や神経までは傷ついていないようだ。
ざっくりとした判断だが、俺の回復魔法で治せる範囲もまだ詳しく分かっていないのでちょっと賭けだった。けど、これには勝った。一番短い詠唱でも見事に傷がふさがって、きれいな皮膚に戻る。
「あんた、こんなことまで出来るのかい」
「……か、回復は、最重要事項、だろ」
せっかく整えた息がまた切れた。目も霞むし、うなじと頭の境目あたりがひきつるみたいに傷む。座り込んだせいで立つことも出来ないだろう。水辺のせいでじわじわとズボンが濡れていっているのがとても気持ち悪いが、それも構わず寝転んでしまいたいくらいだった。
閉じそうになる目をこじ開けている俺の目の前に、ポエットがずいっとなにか液体が入った瓶を差し出す。
「魔力回復薬だよ。飲まないよりはマシってもんだけど、いるだろ?」
「いる。すごく、いる」
震える手に、小さな瓶が乗せられた。中の液体は、見た目も質感もただの水のように見える。霞む目を凝らしてよく見ると少しだけ緑色をしているが、蓋を開けて匂いをかいでも無臭。飲まないよりはマシということだが、プラシーボ薬ではないことを祈って一息に飲み干した。
「っぐ、いぃ~……苦すぎるっ」
この見た目と匂いで、味だけ舌の付け根がしびれそうなくらい苦いなんて、詐欺にも等しい。残っていた水を取り出して全部飲み干した。
「薬なんてそんなもんだよ。あとどれくらい頑張れそうだい?」
「頑張るってのは、町に帰るまでのことだよな」
「そうだね。虫を大人しくさせて、泡ガニの間を走り抜けて、町まで森歩きだけど、出来るね?」
ついつい、大きな溜息が出る。こんなつもりで来ていなかったから野営の用意も何もないし、結局は町に戻るほかない。朝早くに出てきたおかげでまだ昼前のようだから、時間だけはいくらでもかけられるだろうが、少なくとも、まだ虫からの攻撃が止まずいつ泡ガニが泡を飛ばしてくるか分からないこの水辺はすぐに抜け出す必要がある。
ポエットの言う通り、泡ガニはさっき随分数を減らしたからその間を走り抜けることは出来る。問題は、掻い潜っていくには虫の攻撃が多いことだ。
「なにか策でもあるのか?」
「この薬を撒く。あの虫には毒でね、あんたの風で見えるとこ全部に撒けば引くだろう。人間にも体にいいもんじゃないから、あたしらにかからないように気をつけなきゃいけない」
「……なるほど、それは頑張らないとだめだな」
「そう。普段だったらね、散布用の弾があるから何発か撃ってやりゃいいんだけど、この範囲相手じゃ焼け石に水ってもんだ」
「仕方ない。やってやるよ」
ポエットの言う毒とやらは粉薬状で、さっき集めていた花の花粉を使って作ったらしい。だから、広範囲に撒くとすると十分な量があるわけでもない。
失敗の出来ない一発勝負に、改めて息を整える。
苦さで気づかなかったが、やはり魔力は回復出来ていたのか、いつの間にか目の霞みと頭痛はなくなっていた。動き続けたことが理由の疲れは残っているが、魔法さえ発動出来ればなんとかなるだろう。
水草の間から這い出て、杖を構える。飛んでくる体液が当たる前にと素早く詠唱する。
「しのぶれど 色にいでにけり わが恋は」
今までは俺を囲むように作っていた台風だが、今度は杖の先から噴き出さた。森に向けたそれに、ポエットに少しづつ毒を混ぜてもらいながら杖を向ける先を動かす。
「あっはっは! こりゃすごいねぇ!」
「おい、ちょっと移動するぞ、向こう側まで届かん」
はしゃぐポエットを促して、泡ガニの方向に歩きながらさらに木々を撫でるように風の向く先を変えた。風が通り過ぎた後は、虫からの攻撃が飛んできていない。台風に飛ばされたせいなのか毒の効果なのか分からないが、これならなんとかなるだろう。
泡ガニのそばギリギリまで来て、奴らが警戒してがちがちとはさみを鳴らしている。そこから風が届くところまで毒を飛ばすと、虫からの攻撃はほとんどなくなった。
「よし、走るよ、アスター。ついてきな!」
「ああ」
ポエットに促されて全力で走る。泡カニを踏みつけてでも走る。森に入るまでは、何があっても止まらなかった。




