5
ついに、リュカたち一行と行動を別にする日が来た。
最後の最後で確認した荷物に入っていた覚えのない金貨袋を、そっとエルヴの荷物に忍ばせ返して一緒に宿を引き払った後、リュカたちは北門に、俺は貴族街と市民街の間にある商業街の図書館に向かう。
昨日、リュカに紹介された図書館長は、正真正銘の皇族のお姫様、リュカの妹だった。母親違いの兄弟も多い中、同じ母親から生まれたのだという妹はリュカによく似ていたが、目元だけ少々切れ長で印象は冷たく、大きく古い建物の図書館がよく似合う人だ。
リュカと違って軽々しく笑顔を作らないようだったが、親切にも朝早くから図書館の前で待ち合わせをした上で俺のために通常の開館時間よりも早く入れてくれた。他の職員も出勤してくる時間だとは言うが、それでも特別扱いには違いなく、俺の知らないところでリュカに無茶を言われたのではと不安になる高待遇だ。
「地図が必要との事でしたが、各領地や町の特徴をまとめた資料も併せてご用意致しました。量が多くなりましたので、ご希望がありましたらここから更に厳選してお渡ししますが、いかがなさいますか?」
「なら、まずは皇都とそれに隣接する領の資料を下さい」
「お兄様が向かわれたドードルヴォーク領も含めてでよろしいですか?」
「ええまあ、念の為」
「かしこまりました。ではこちらをどうぞ。全ての本、資料の持ち出しは禁止となっておりますが、出入り自体に制限はございません。また、アスター様におかれましては閉館時間もお気になさらず。最後にわたくしが帰宅する際、お声がけ致しますので」
「ありがたいが、ご迷惑では?」
「いいえ。誰にでも出来るわけではございませんが、お一方であれば問題ございません」
「分かりました。では、お言葉に甘えさせていただきます」
用意された資料を受け取って、受付に程近い場所にある座れば周囲の見えなくなる仕切りに囲まれた席に入る。丁寧に対応した上に俺が椅子に座るまで見送ってくれたお姫様は、それでも顔は無感動のまま館長室に入り、仕事に戻っていった。
こちらの文字は初めて見るはずなのに、元から知っていたように読めた。それは、シャルロットとクラリスに魔法の使い方を教えてもらった日に分かっていたが、商品につけられた値札や食堂の品書きのような簡単な言葉だけでなくこんな小難しい資料まで読めると改めて驚く。難しい言葉を調べるために辞書も探すつもりでいたが、そんな必要は全くなかった。
しかし、資料を読んで気になった事を自分で用意した手帳に書き留めてみたが、書き記した文字は慣れ親しんだ日本語だった。
言い知れない気持ち悪さを考えないように資料に没頭した。
結論から言って、用意してくれた資料はほとんど役に立ちそうになかった。
それぞれの特徴という事だったが、ほとんどが特産品から始まる主な収入源や領地軍の強さで占められていて、確かに全てを統括する皇家であれば必要な資料かもしれないが、物見遊山がしたいわけではない俺には必要のない情報だ。
追加でもらった皇都から三つ分離れた領地の資料まで読み込んで、確かに中には特徴的なモンスターがいるとか、高名な魔法使いがいるとか、大きな軍人学校があるとかの興味ある内容もあったが、一日かけて読み込んだ割に「もしかしたらいつか使うかもしれない」程度にしかならなかったのは落胆が大きい。
閉館を知らせに来たお姫様も、疲れた俺の顔を見て察するところがあったのか申し訳なさそうに目を伏せるので、なおさら居た堪れなかった。
「あー……今更、ですが、なんとお呼びすれば?」
「わたくしでしょうか?」
「はい。俺のような素性の知れない者が、軽々しくお名前を呼んでもいいものか分からず……」
名前そのものは、もちろんリュカに紹介してもらった時に聞いていた。だが、リュカに対して気安くしているからと妹に対しても同じようには出来ず、呼び方や接し方に随分頭を悩ませた。
つい所在なく視線を逸らしてしまった俺を、お姫様は静かに笑って緩やかに首を振る。
「それほど畏まっていただく必要はございません。うるさく言う者もおりますので下に見られては困った事になりますが、所詮は継承権もあってないような末席の姫です」
「勇者である皇太子殿下の妹君でしょう」
「ええ、だからこそ、なのです。兄があれほどの力を持っておりますので、わたくしや弟まで力をつけますと、第三妃である母の地位が脅かされてしまいます」
素材屋の血生臭さを思い出すような話だ。
なんて事ないように話すお姫様の顔からは既に笑顔は消えているが、そこにリュカの浮かべる笑顔が被って見える。
お姫様は、まだ消せない気まずさに目を合わせられない俺にしっかりと目を向けて、言った。
「どうか、エリーズと。敬称はお任せ致します」
「俺に、何をお望みで?」
「わたくしでは兄の力にはなれません。どうか、友人でいて差し上げてください」
「かしこまりました。エリーズ様への感謝に誓いましょう」
ほっと胸を撫で下ろして、エリーズ様は何もなかったかのように帰りを促す。そして、明日の約束をしてエリーズ様が馬車に乗り込むのを見送る形で別れた。
盤石だと思っていたリュカの地位への翳りが見えたせいか、焦る気持ちを抱えて、俺も新しくとった宿に向かう。今朝までいた宿はとてもいい宿だったが、一人で泊まるには高すぎた。身の丈にあった程々の宿のベッドはやはり布団の奥に硬さを感じたが、おかげで少し冷静になる。
リュカをよく思っていない皇族がいる。
エリーズ様が言いたかったのはおそらくこれだろう。
勇者を産んだだけで何不自由なく過ごせそうな王妃様や兄弟たちが煩わされる何か。もちろん俺がどうにか出来るわけもないので、代わりに愚痴聴き係にでもなれというのを湾曲して「友人」なんて言葉に納めた。それくらいはどうって事ないが、かといって余計なものに目をつけられても困る。
本来なら、図書館に通いながら時々モンスターでも狩りに行って旅の資金を貯めようかと考えていたが、予定を繰り上げて早めに皇都を出た方がいいかも知れない。
翌日も同じ時間に図書館に向かい、エリーズ様に中に入れてもらう。
今日は、昨日の資料も踏まえてか少し毛色を変えた本を渡された。各地の主要モンスターをまとめた図鑑だというそれと世界地図は、どうして俺の考えていた事が分かったのかと二度見してしまうほど求めていたものだ。
驚く俺を見て、またエリーズ様は控え目に笑う。
「その図鑑は、兄の愛読書です。やはり、わたくしの選んだものなどより兄に従うべきでした」
「ずいぶん、返事に困る事をおっしゃいますね」
「あら、失礼致しました。つい、卑屈癖が」
「エリーズ様の選んでくださった資料も、あれほどまでお心を砕いてくださった事が、大変ありがたかったです。……ロイクに、モンスターを倒す過程の事で謝罪を受けたのですが、その誠意としてモンスターの素材代の一部を結構無理矢理受け取らされたんです。今、あの気持ちが理解出来ました。この感謝を伝える分かりやすい方法があればどれほどいいか」
つい先日の事だが、もう懐かしい気がしてくる。そして、すぐにロイクに会えるなら、あれほど金の受け取りを拒否した事を謝っていたかも知れない。
エリーズ様は、どうか気にしないでほしいと首を振った。昨日も見たその仕草は染み付いているようで、これも彼女のいう卑屈癖のせいだろうか。
「そもそも、利用者のために必要としている資料を集める事が職務ですので。……ああ、ですが、そう言ってくださるなら、もう一冊、わたくしのおすすめの本をご紹介してもよろしいですか?」
「ええ、もちろん」
「では後ほど席にお持ちしますね」
促されて、昨日と同じ席に着く。
エリーズ様のおすすめの本も気になるが、モンスターの図鑑も気になって仕方がない。待ちきれず椅子に座ると同時に本を開いて、目次から読み込んでしまった。