さちの涙
「うまい……? まことでございますか?」
これまで生きてきて、さちがほめられたことは数えるほどしかない。特に九桜院家では、毎日のように叱責され、「ぼんくら娘」と馬鹿にされ続けてきたのだ。
「本当だとも。このコロッケとやら、実にうまい。じゃが芋は蒸して食べるか、煮っころがしにするぐらいだと思っていたが、このようなハイカラな料理になるのだな」
嬉しそうに語るぬらりひょんの表情に嘘は感じられない。さちが作った料理を心から美味しいと思ってくれているのだ。
(私のコロッケ、ぬらりひょん様が美味しいって……)
目頭が熱い。堪えなくてはいけないのに、視界がぼやけていく。
「うれしいです……」
それだけ伝えるのがやっとだった。
「なぜ、泣く」
指摘され、自分がぽろぽろと涙を流していることに気付いた。
「も、申し訳ありません! 私はすぐに下がりますので」
「下がる必要はない。さち、おまえも一緒に食べなさい」
「え……?」
九桜院家でのさちは、食事もたったひとりだった。
姉の蓉子と父の壱郎は食事を共にすることも多かったが、そこにさちが呼ばれたことは一度もない。
使用人たちは順に食事と休憩をとったが、一番下っ端のさちは調理場の片隅で、ひび割れた椀で残り物をかき込むのが常だった。少しでも仕事に不手際があれば、食事を抜かれることもよくあった。
「わ、私のような卑しい者が、皆様と一緒に食事をいただくだなんて、とても……」
「卑しい? このぬらりひょんの嫁のどこか卑しいのだ。のう? 油すましに一つ目小僧」
問われた二人は、コロッケを頬張りながら答える。
「おやびんのお嫁さんなら、おいらにとっても大事な姐さんでやんす」
「人間の嫁が卑しいなら、あやかしであるおれらは、もっと卑しいわな」
あやかしたちから返ってきた言葉は、さちがよく知る罵倒ではなかった。
(私、ここでは卑しい娘ではないの……?)
隠し子であるさちにとって、自分は誰にも認めてもらえぬ存在であり、卑しい存在だと思ってきた。
「さち、わしの横に来るがいい。共にコロッケを食べよう。うまいものは全員で食べたほうが、もっとうまい。そうではないか?」
手招きされたさちは、おそるおそる歩み寄っていく。近くまでいくと、ぬらりひょんはさちの手を握り、軽く引き寄せた。
「あっ」
気付けば、ぬらりひょんに肩を抱かれるように、すぐ隣で座っていた。
(ぬらりひょん様の手が、私の体にふれてる)
たとえあやかしであっても、男の人に体を支えてもらったことはない。慣れない状況に、さちの心は震える。
「さぁ、さち。食べなさい」
ぬらりひょんはコロッケが載った皿を、さちの前に差し出した。
「い、いただきます」
戸惑いながらも、さちは手を合わせた。箸でコロッケを二つに割り、そのひとつを口の中にもっていく。
パリパリと衣が割れ、潰したじゃが芋と挽き肉の絶妙な味わいが口の中に拡がっていく。
「お、おいしい。美味しいです!」
「だろう? さちは料理上手だな」
ぬらりひょんの優しい微笑みが、すぐそこにあった。
「さち姐さん、本当にうまいでやんす」
「酒ともよく合うぞ、きっと」
ちゃぶ台を囲み、全員が笑顔だ。その中心にあるのが、さちの作ったコロッケなのだ。
(どうしよう、たまらなく嬉しい)
誰もさちを虐めることはなく、さちの作った料理を喜んで食べ、共にちゃぶ台を囲む。さちにとっては、夢にまで見た幸せの光景だった。
(何か、何かお伝えしなくては)
さちはどうにかして感謝の言葉を伝えたいと思った。けれど、うまく言葉がまとまらない。気付けば、予想もしないことを口走ってしまった。
「さちはじゃが芋が好きです。和食からハイカラ料理まで、どんな調理も受け入れて、お腹も満たせます。さちはじゃが芋のような人間になりたいのです!」
さちの言葉に、一同はしんと静まりかえってしまった。