幸せだった頃の記憶
暖かくて優しい香りの布団につつまれながら、さちは安らかに眠っていた。
あまりに心地良いので、さちは夢を見ていた。それは自分が、ほんの僅かな間だけ、もっとも幸福だった頃のこと。
実父である壱郎の気まぐれだったのか、ある時さちは奉公に出された。
奉公先はとある洋食屋で、父の壱郎が若い頃によく通い、世話になっていた店だという。洋食屋の夫妻には子供がおらず、働き者で笑顔を絶やさないさちを、娘のように可愛がってくれた。
洋食に興味をもつさちの姿に喜び、作り方を教えてくれたのだ。さちがハイカラな洋食を作れるようになったのは、この洋食屋の夫妻のおかげだ。
楽しそうに洋食の作り方を覚えていくさちを、夫妻は微笑ましく見守った。やがて養女として引き取りたいと願うようになる。洋食屋の看板娘として、なにより夫妻の本当の娘として共に暮らしてくれたら、と考えたのだ。
洋食屋の夫妻は壱郎に、使いの者を通して、さちを養女として引き取らせてほしいと申し入れた。さちは身寄りのない娘、としか夫妻は聞いていなかったのだ。
激怒したのは、父の壱郎だった。すぐさまさちを屋敷に呼び戻し、そのまま蔵へ閉じ込めてしまった。
「さち、おまえは自分の立場をわかっているのか。おまえは蓉子の身代わりになるべく生まれてきた娘だそ。洋食屋の夫妻に媚を売りおって。この恩知らずめ!」
壱郎は蔵の向こうから、さちへ激しい怒りをぶつける。その怒鳴り声に震えたさちは、怯えながらも必死に懇願した。
「旦那様、どうかお許しください。さちはもう二度と屋敷の外へ出ません。何も望みません。ですからどうか、お世話になった御夫妻へはお咎めなしでお願い致します。悪いのは全て私です。どうか、どうかお願いします……」
洋食屋の夫妻には、さちは親戚の家に引き取られた、と連絡したらしい。以降、一切の交流は絶たれた。風の噂で今も洋食屋を営んでいると聞いたが、さちには詳しくはわからなかった。これ以上かかわってはいけないと考えたからでもある。
(僅かな間だけでも、御夫妻の娘になれて良かったと思っておこう。私が九桜院家を出たら、迷惑がかかるだけだもの……)
暗く閉ざされた蔵の中で、洋食屋夫妻の面影を胸に抱きながら、さちは泣きながら眠った。
微睡みの中で、さちを呼ぶ声が聞こえた。さちの名を呼びながら、軽く体を揺すっている。
「さち、さち」
さちを気遣うような、優しい声。
(だれ? お母様?)
ゆっくり目を開けると、体を揺すっていたのは、姉の蓉子だった。艶やかな微笑みに、赤い色の着物がよく似合っている。
「お姉様! ここはお姉様のような方が来る場所では」
慌てて体を起こすと、蓉子は口元に人差し指を当て、「しー」と小声で囁いた。
「お父様に内緒でここに来たの。可哀想なさち、寒かったでしょう?」
さちの肩に羽織ものをかけてやりながら、そっと手を握りしめた。白魚のような指先が、さちの冷たい手をつつみこむ。
「手もこんなに冷えて。わたくしが温めてあげるわ」
さちの冷えた指先に、はぁっと息を吹きかけ、蓉子はさちの手をさすっていく。
「お姉様……」
それは他界した母が、さちによくしてくれた行為だった。寒さで震えるさちの冷たい手を、こうして温めてくれた。蓉子の姿が亡き母の姿に重なり、目頭が熱くなっていく。
「わたくしの可愛い妹。もう二度とあなたに会えないと思った。悲しかったわ」
「お姉様、私はただ」
「いいのよ。あなたに養女の話があったのよね。さちの幸せを願うなら、それが一番だわ。でも……」
可憐な蓉子の白い頬を、大粒の涙がつぅっとこぼれ落ちていく。
「お姉様、なぜ泣かれるのですか?」
指摘されて気付いたのか、蓉子は泣き顔を袂で覆い隠した。
「情けないことだけど、わたくし、怖くて……。あなたがいなくなったら、わたくしはぬらりひょん様の元へお嫁にいかなくてはいけないもの。あやかしの嫁になったら最後、何をされるかわからない……」
蓉子の体は恐怖で震えていた。蝶よ花よと育てられた蓉子には、あやかしの嫁になる未来など、到底受け入れられないのだろう。
(お姉様が怯えていらっしゃる。優しいお姉様をお救いできるのは私だけなのに。自分の幸せだけを求めていては駄目だわ)
さちは小刻みに揺れる蓉子の手を握り返し、力強く告げた。
「お姉様、どうか御安心くださいませ。さちがお姉様の身代わりになります。お姉様が不安になられるなら、嫁ぐその日まで、私は九桜院家の屋敷から一歩も出ません」
「……本当?」
「さちはお姉様のためなら、どんなことでも致します」
蓉子は顔をあげ、涙を袂で拭い取りながら、艶やかに微笑んだ。
「さち、ありがとう。わたくしの可愛い妹、これからもわたくしの傍にいてちょうだい。わたくしはあなただけが頼りなの」
「はい、お姉様」
痩せたさちの体を抱きしめ、蓉子は愛おしそうに背中を撫でる。蓉子からは華やかな香水の香りがした。蓉子の香りにつつまれていると、だんだんと夢見心地になってくるから不思議だ。
(これでいい。優しいお姉様の身代わりになれるなら、喜んでこの身を差し出すわ)
蓉子の抱擁を受け入れながら、母に似た温もりにさちは安堵した。
さちの体を抱く蓉子が、妖しく微笑んでいることを、さちは気付いていなかった。
(お姉様の体は、なんて温かいの。お母様に抱かれていた時のよう。心地良くて、なんだか眠くなってくる……)
優しい温もりにつつまれながら、さちは再び目を閉じた。




