嫁入り
九桜院さちは、あやかしに喰われるために生まれてきた。
美しき姉の身代わりとして、あやかしにその身を捧げる。さちが生きてきた理由は、ただそれだけであった。
♢♢♢
「ぬらりひょん様、九桜院さちでございます。ふつつか者でございますが、よろしくお願い致します」
白無垢姿のさちは、ぎこちない動きで頭を下げる。礼儀作法は嫁入りの数日前に、たたき込まれただけだった。
さちの目の前には、あやかしの総大将と言われる、ぬらりひょんがあぐらをかいて座っている。長い髪と整った顔立ちは、とてもあやかしとは思えない。ぬらりひょんとは、巨大な頭をもつ異形な化け物と聞いている。しかし目の前にいるのは、ただの美しい男のようであった。
(今から私は、この方に喰われるのね)
さちは自分の定めを誰より理解していた。幼き頃より繰り返し言い聞かされてきたのだから。
「さち、良いな。おまえはぬらりひょん様にその身を捧げるために生まれてきたのだ。おまえのような卑しい娘が、九桜院家の跡取りである、姉の蓉子の身代わりになれるのだ。喜んで責務を果たせ」
「はい、旦那様」
さちが旦那様と呼ぶのは、自らの実の父親である。母が屋敷の使用人であったため、父と呼ぶことを許してもらえなかったのだ。
この世に生を受けた瞬間から、姉の身代わりになることを定められた少女は、その不遇な運命を疑うことさえできなかった。
ぬらりひょんは腕を組んだまま、微動だにしない。何事か考えているのか、おし黙ったままだ。
(ぬらりひょん様、私をお気に召さないのかしら)
おそるおそる、さちは声をかける。ぬらりひょんの思考を邪魔しようと思ったのではない。
「あのう、ぬらりひょん様。私の体にお塩をふりましょうか? 塩は素材の旨味を引き立てますから、私のような卑しい者でも、きっと美味しくいただけますよ」
さちは朗らかに微笑んだ。その言葉に、何ひとつ偽りはなかった。ぬらりひょん様に、せめて美味しくいただいてもらおう。それが今のさちの望みなのだ。
「おぬし、『さち』と言ったか」
「はい、ぬらりひょん様」
「おぬしは、阿呆なのか。それとも金持ちの娘ゆえに物事を知らぬ、『ぼんくら』なのか」
「は、はい?」
さちには意味がわからなかった。美味しくいただいてもらうために、素材に塩をふることは料理をする者にとって常識だからだ。
「ひょっとして、塩はお嫌いですか? それでは『そーす』をかけましょうか? 私、買って参ります!」
ぬらりひょんは呆気にとられたような顔をした。なぜそのような顔をするのだろう? とさちが思った瞬間。ぬらりひょんは大声で笑い始めた。
「なんという娘だ。あやかしに喰われるため、『そーす』をかけましょうか、とは。これほどのぼんくら娘を嫁によこすとはな。九桜院家の奴らは、わしを馬鹿にしているらしい」
「な、何かいたりませんでしたか? 失礼をしたのでしたら、お詫び致します」
さちは慌てて頭を下げる。
「……だか、おもしろい」
笑うのを止めたぬらりひょんは、にたりと笑った。
「さち、『そーす』とはハイカラ料理のことか?」
「は、はい。洋食の調味料のひとつです。揚げたてのコロッケや豚のカツレツにかけるとそれはもう美味しく……」
「作れるのか? ハイカラ料理を」
「はい。少しですが、奉公先で覚えました」
「では作れ。ハイカラ料理を」
「作って良いのですか? 卑しい私が料理をしても?」
「あたりまえではないか。おぬしはわしの嫁になったのだから」
「私は貴方様に喰われるために、ここに参りました」
「勿論喰うとも。その細っこい体が、ふっくら肉付きが良くなったらな。その時は美味しくいただくさ。心も身体も、じっくりと、な」
ぬらりひょんは話すのを止め、さちを見つめながら怪しく微笑む。しかし純朴なさちには、言葉の真意が理解できない。きょとんと呆けた顔をしている。
ぬらりひょんはコホンと咳ばらいをすると、再び話し始める。
「さて、どうする? そのまま喰われるか、わしのために料理をするか? 選ぶがいい」
九桜院さちは、まだ知らない。やがて自分が、「ぬらりひょんのぼんくら嫁」と呼ばれ、こよなく愛されることを。ぬらりひょんの妻として、あやかしたちに慕われることを。
愛された記憶などないさちにとって、愛し愛される生活など考えたこともなかったのだ。
「さちは料理を作ります。ぬらりひょん様、いえ、旦那様のためにハイカラ料理を作らせていただきます!」
それは不遇なさちが初めて心から望んだ願い、そして、幸せへの第一歩であった。
本日より連載を開始します。
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