その6 甘い七年戦争 ウイーン ザッハトルテ(チョコケーキ)
チョコレートケーキのザッハトルテは
●ウイーン会議の時に
オーストリアの宰相メッテルニヒが会議の時のためのお菓子を作るように
フランツ・ザッハに命じて生まれたという説と
●メッテルニヒが特別な客をもてなす為に
料理長に命じて作るようにしようとした処 料理長が病の為
まだ見習いのフランツ・ザッハが代理で作った説があります
で・・
フランツ・ザッハはザッハトルテで財を成します
息子のエドアルド・ザッハは それを引き継ぎ
ホテル・ザッハを作ります
15歳年下の妻アンナの経営手腕により
成功を修めますが 妻の死後 経営難となり
孫にあたるザッハ氏は ハンサムでありましたが
商才はなく しかも世界恐慌の中で危機に・・
そこに手を差し伸べたのが
ウイーン王室御用達のケーキのお店
デメルの女性経営者
ホテル・ザッハの専売特許である
ザッハ・トルテをデメルでの販売許可のもと
資金援助をします
しかし この時にザッハ・トルテの製造法も
流失
それでも・・ウイーンの社交界では大いにもてはやされます
二人の死後 ザッハ家はデメル家に
名前の使用を禁止などの裁判が起こしてしまいます
そして裁判は七年に及び 甘い七年戦争と揶揄されます
結果はザッハ家の勝利になりますが
デメル家に対しても
デメルのザッハ・トルテとして販売しても良いという事で
治まるのでした
違いとしては 素材として使われる
アプリコットジャムの使い方と
ザッハ家は丸いチョコのメダルが上に飾りとしてつき
オリジナル・ザッハ・トルテと明記
デメル家は三角のチョコのコインが飾れられます
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※ウイーン会議とは1814年9月~1815年6月になされます
フランス革命、ナポレオン皇帝によるその後の欧州勢力地図の変化
彼が失脚して 改変された欧州を元に戻す目的でなされた 各国代表による話し合いの会議です
元に戻そうとする保守反動
オーストリア宰相メッテルニヒ、ロシア皇帝、プロイセン王、英国代表、フランス代表
主催地はウイーンでした
「会議は踊る されど進まず」など有名な名言も生まれました
☆福岡市にある「サイラー」という菓子のお店は有名で 店長はドイツかオーストリアの方
代々 お菓子職人で 生クリームを横に添えたザッハトルテとても美味しかったです☆
通販可能だったような気がする