第一話 可憐な桃の花のように
ハッと目を覚ました私は、思わず飛び起きた。
そこには、いつもと同じ景色が広がっていた。
窓から差す朝の陽ざし。
肌を包み込むのは、綿素材の軽くて手触りの良い布団。
少し上を見上げると、質素な木製の二段ベッドの裏側と――上のベッドの端からこちらを覗き込む、薄桃色のツインテール。
「おはよ、タミ。やっと起きたのね」
彼女は呆れた口調で「もう少しで遅刻ギリギリだったじゃない」と零しながら、二段ベッドの上からふわりと身を翻し、一瞬青い光に包まれ姿を消したかと思えば、緩やかに地面へと着地した。
彼女は私をチラリと見やってから、澄ました顔で「怖い夢でも見たの?」と尋ねた。
「まぁ、ね……またいつもの夢だった」
「……あら、そう」
――また、“あの夢”だった。
ここ最近の私が悪夢にうなされて目を覚ますことは、珍しい事じゃなかった。
見るのはいつも決まって同じ夢。
夢の中の色が、音が、感触が、未だにリアルな感覚として身体に残っている気がする。
不気味で仕方がない。
ただでさえ――私には“あの時”以前の記憶がないというのに。
未だに小刻みに身体が震えるのを抑えながら、私は不安を誤魔化すように笑ってみせた。
「ねぇ、リル。寝覚めが悪いからもう一回寝直して良い?」
少し引き攣った笑みを浮かべながら、私は「じゃあ寝るね」と言って布団に手を掛けた。
こうなったら、良い夢が見られるまでチャレンジしてやる。
「ねぇ、バカなの? 遅刻ギリギリって言ったよね?」
「部屋出る五分前に起こしてくれればいいから。私は再チャレンジします」
「な……!」
もぞもぞ、と布団に潜りながら「おやすみ~」と呟く。
でも、やっぱり怒られた。
「起きなさい!!!!」
左耳元で大きな爆発がしたかと思えば、それ以降小一時間ほど、私の左耳はログアウトしたまま帰ってこなかった。
☆★☆
「しっかりしなさいよ。今日からこの私と組んで合同任務なんだから。足、引っ張らないでよね」
「はい。くれぐれも精進いたします……」
ここは「天界」と呼ばれる世界の、宮殿直轄部隊の「死神」が集まる女子宿舎の中。
質素な木造りの部屋は二人部屋になっていて、私の部屋の相方は、今目の前で私を説教中である。
彼女――死神リルは、不満げに組んだ腕の上で、桃の花を思わせる可憐な髪をくるんと遊ばせている。
ラベンダー色の瞳がこちらを見つめているが、そちらからは「気合入れろ」というささやかなメッセージが読み取れた。
(そういえば、私まだパジャマのままなんだよね……)
私は木製の椅子に座りながら、ぼんやりと着替えのタイミングを伺っていた。
起床するなりリルの説教が始まってから、かれこれ十五分ほど経過しているような気がする……。
(それにしても、リルはいつも早起きだなぁ)
件の彼女は既に着替えを終えており、死神用の黒いコートに身を包んでいた。
彼女は膝下まである長い革製のコートを身に纏いながら、その中からはチラリと細い足が覗いている。
コートの隙間から垣間見える漆黒のミニスカートは、まさにお洒落上級者の彼女らしい死神スタイルだった。
(……今日は「大人可愛い」路線で行くんだ)
遥か昔から、死神の装束は決まっている。
黒いコート。それに、全身に纏う服は黒一色。
先代の、そのまた前の総督のときから、この装束は変わらないまま――って、養成学校で習ったっけ。
でもそれ以外は自由だから、女子は結構オシャレしてる子が多い気がする。
私はミニスカはチャレンジできないけど……リルは足綺麗で許されるから、いいよね。
「前回は私がアンタのこと助けてあげたから何とかなったけど、今回は失敗が許されないんだから……って、ちょっと! 話聞いてる?」
「えっ。あぁ、うん。もちろん、聞いてるってば」
服装もオシャレして気合入れないと、って話だよね?
「……聞いてないじゃない」
そろそろ着替えないと、と立ち上がってから、私は服に袖を通した。
ミニスカートの代わりに、膝丈ほどの黒いスカートを穿いて。
身支度をしてから、壁に掛けてあったコートに手を伸ばしたとき、横目にチラリと窓の外の景色が映った。
「ちょっと、窓開けていい?」
一言、彼女に声を掛けてから木枠の窓を開けると、外からそよ風が中に吹き込んできた。
窓の外には、広大な景色が広がっていた。
(綺麗……)
手に取れそうなほど近くの、夏の雲。
大地に広がる若葉色は、所々で黄色や橙と混ざりながら、陽の光を浴びて生き生きと色づいていた。
ふと、遠くの水面に視線を移す。
透き通ったガラス細工のような水色に、頭上から降り注ぐ虹の光が色を落としている。
その奥に広がる街の景色が、水面に映ってゆらゆらと揺れている。
外の風景をぼんやりと眺めながら、ふと、先程のリルの言葉が蘇った。
《前回は私がアンタのこと助けてあげたから何とかなったけど……》《って、ちょっと! 話聞いてる?》
《えっ。あぁ、うん。もちろん、聞いてるってば》
本当は、聞こえていたんだ。
でも、それは私が一番よく理解しているから。
――私は、いつもリルに助けてもらってばかりだ。
養成学校の時から、ずっと。
出来の悪い私を、リルはいつだって見放さずに助けてくれた。
《貴方に授けた力は、きっと――貴方の大切なものを守ってくれるでしょう》
《どうか私と一緒に、この天界を守ってください》
これは、私の最初の記憶――「あの方」から貰った言葉。
それ以来「あの方」に会ったことはないけれど、彼女の言葉はいつまでも――私の心に「色」を灯してくれる。
この景色のように。
この降り注ぐ、虹の光のように。
(でも、いつだって私は守ってもらうばかりで)
それでも、いつか。
私にも、大切な人を守れる時が――
《私はお前を絶対に許さない……この》
《ヒトゴロシ》
その瞬間、不意に耳元で聞こえた言葉に――ドクン、と胸が脈打ち、息が止まるような思いがした。
「そろそろ食堂に行かないと、朝食抜きになるわよ?」
「ごっ……ごめんごめん、あはは、もう出るから」
既に廊下で待つリルが「早くしろ」と急かす声が聞こえたので、私は申し訳ない心持ちで苦笑しながら、急いで窓を閉め、部屋の鍵を掛けた。
食堂へ向かいながら、私は引き攣りそうになる笑顔を隠すことで精一杯だった。
気を抜くと、自分の両手が真っ赤に染まってしまうような気がしたから。
――“あの夢”のように。