2話 真実と決意
「カトリーヌ、私の部屋においで。……大事な話があるんだ」
五歳になったことを祝ってもらった夜、カトリーヌは父に呼ばれた。年に一度の喜ばしい日のために、料理長が腕を振るって用意した晩餐はどれもおいしく、少女の腹を満たした。まどろみに少しずつ呼ばれ始めていたカトリーヌは、しかし目をこすって固い父の声に頷いた。
「しつれいします」
重厚な色合いの扉を控えていた使用人に開けてもらい、カトリーヌは父が待つ部屋に入った。
いつも父がここで仕事をしており、簡単に入ってはいけないと言われているところだ。インクと紙の香りが混じった少し埃っぽいにおいがする。誕生日の非日常とは少し異なった空気を吸い、カトリーヌは緊張してすこし肩に力が入った。
長椅子に腰かけた父の隣に座っているのは目を伏せた母だった。カトリーヌが覚えているだけでも幾度となく体調を崩したことのある母だ。もしかして、今夜もそうなのだろうか。
「おかあさま?どうかしましたか、くるしいのですか?」
「っ!……いいえ、カトリーヌ。私のことは心配しなくて構いませんよ」
「カトリーヌ、そこに座りなさい」
自分の誕生日を祝ったせいで母が体調を崩したのでは、と暗い顔をするカトリーヌにアルフルーレは首を横に振った。顔色は悪くないようだが、目が合わない。違和感を覚える。
それでも、母を特に大切にしている父が床につけと言わないのならば大丈夫なのだろうと思ったカトリーヌは、父に示された椅子に座る。両親の真向かい。
ひどく真剣な顔をしている両親に、ドクンとカトリーヌの心臓が嫌な音を立てた。乾いて引っ付いてしまいそうな喉を知らんぷりして、口を開く。
「おとうさま。おはなしとは……」
「カトリーヌ、お前も五歳になった。……本当は、もっとお前が大きくなってから伝えるべきなのだろう。しかし、外に出て他者から悪意とともに聞かされ、傷つけられる未来だけは訪れてほしくないんだ。だから、お前に真実を伝えよう」
「しん、じつ?」
全く心当たりのない父の言葉に、どうしてだろう、聞きたくないとでもいうかのように鼓動が体中に響いてやまない。握る手が汗ばむ。
待ち受ける不穏に強張るカトリーヌの顔をまっすぐ見つめ、バルトロメオが重たい口を開いた。
「お前の本当の両親は、私たちじゃないんだ」
「え……?」
世界が真っ白になり、音が無くなったような気がした。鼓動の音も、血の音も、吸った息の音さえもどこかに行ってしまったように。指先が冷える。震える。止まらない。
呆然とするカトリーヌに、苦しげなバルトロメオの告げる言葉が突き刺さる。
死んでしまった本当の両親。
残された命を厭った従叔父達。
嵐の中病に襲われた赤子。
身代わりを立てると決定した親族。
つまり、それは。
音にされなかった話の結びが言いたいことは。
「……わ、たし、にせもの……?」
自分の口からこぼれた言葉が心をずたずたに裂く。
それは、今まで見ていた景色全てが反対になったような心地だった。
着ている服も、座っている場所も、吸っている息だって、自分のものではなく、勝手に人のものを自分のものだと思い込んでいたのだと知った。知ってしまった。理不尽にも森に追いやられてしまった人の場所で、のうのうと生きている自分をひたすらに恐ろしく思う。なんてことを私はしていたのだろうか。今日の誕生日も、本当は本物の“カトリーヌ”のためのものだったのではないか。千々に乱れる胸の内に吐き気すらこみあげてくる。
胸元で震える両の手を必死に握りしめ、混乱するカトリーヌをアルフルーレは胸元にかき抱く。
「違うわ!カトリーヌ、あなたは間違いなくカトリーヌよ」
「だって、ほんとうのわたし、わたし?ちがう、ほんもののカトリーヌはもりにいて」
「そうだとしても!あなたはまごうことなきカトリーヌなのよ、そう名付けられたこの家の子ども」
例え始まりが憐れみと強制からだったとしても、共に生きている命にどうして愛着が湧かないでいられようか。五年間その成長を見てきたのだ。血の繋がりが無くとも、この少女はまごうことなくアイオリーシスの家族だった。
バルトロメオとアルフルーレのもう一人の娘だった。
胸元の手を母だと信じていた人の背に回せないまま、カトリーヌは散らばる頭の中の冷えきったところに気づく。あぁ、思い出した。その冷ややかさは、記憶にある屋敷を訪れた親族の目の温度だ。ずっと、訳も分からず怖がっていたあの目の理由が分かった。あれは本物でない自分を下に見ていた目だったのだ。偽物を疎ましく思った目なのだ。
(じゃあ……この、今感じている温かさはなに?)
ひいおばあ様もおじい様たちも、おじ様、おば様も。みんな冷たい目で私を嫌っていたのに。どうして一番私を嫌っているはずのおかあさまたちが優しいのだろう。私は本物の居場所を奪った人間なのに。
どうして、お誕生日会であんなにみんな優しくしてくれたの?
その優しさは、私が受け取ってよかったものなの?
わたしは、ここにいていいの?
「おかあ、さ……っ」
ハッとして口をつぐむ。目の前の人たちを親と仰いでいいのか分からない。
ひっくり返った世界に混乱して怯えるカトリーヌに、アルフルーレたちが抱く愛情は理解できないものとしか認識されなかった。
「この話をしたのはカトリーヌが将来悪意ある誰かに脅かされないためであって、私たちがお前を嫌っているからじゃないんだ」
「だから、これからも私たちを母と、父と呼んでちょうだい。カトリーヌ、あなたは間違いなく私たちの子どもなのですから」
優しい言葉が降り注いでくることに、うれしさを感じると同時に申し訳なさでいっぱいになる。そう、カトリーヌの頭はもういっぱいだった。
(ごめんなさい、おとうさま、おかあさま……ほんものの、カトリーヌ)
もう何に謝罪したいのかも分からないまま、脳内で泡のように浮かぶ言葉に目を閉じる。
くらり、と脳がかき回されるような感覚とともにカトリーヌの意識は闇に沈んだ。
——暗い水の底で揺蕩っているような、重たい眠りの中にカトリーヌはいた。頭の中は相変わらず大きくかき回されるような感覚に支配されている。体も気怠く、思うように動かない。
眠りと覚醒の狭間でうなされる、不快な感覚。
「……です」
(……?)
どこか遠いところから知っている声がする。
「やはり、伝えるには早すぎたんです。こんなこと、聞かされて平然としていられるはずがありませんもの」
「しかし、王子の社交が始まれば必然的にカトリーヌも外に出なければならなくなる。悪辣な輩に付け込まれるような事態だけは避けなければ」
「お嬢様、とってもはしゃいでいらっしゃいましたものね。お疲れになったのかしら」
「はやく、目を覚まして元気に笑ってくださいな。ミーシャは寂しゅうございます」
「ひどいことしか出来ない親でごめんね、カトリーヌ……あなたに、押し付けた名前しか渡せない、情けない親で……」
それは断片的なもの。
後悔、心配、願い、それに懺悔。話しかけられているようなものもあれば、カトリーヌのことを意識していないようなものまで。時間の感覚がない微睡みの中では、声の断片たちの間隔はよく分からなかった。
うまく回らない頭で、少女は考える。
(……わたしは、ほんとうは“カトリーヌ”じゃない)
(でも、ずっと、“カトリーヌ”とよばれてきた)
(わたしのなまえも、“カトリーヌ”だから。そう、なづけられたから)
(……だけど、このなまえは、かりもの)
(じゃあ、わたしは、だれ?)
(きっと、おかあさまたちはおしえてくれない)
(みんなも、しらない)
(わたしは、“カトリーヌ”だから)
(“カトリーヌ”だから、ここにいられる。たんじょうびをおいわいしてくれる)
(……じゃあ、わたしがだめなこだったら)
(きっと、みんなかなしいかおをする)
(ひいおばあさまたちも、もっとこわいかおになる)
(……ほんとうの“カトリーヌ”のことを、わるいこだと、みんながおもってしまう)
(……いい子でいなくちゃ)
(お父様たちに心配をかけてはだめ)
(ここに連れてこられた期待に応えなきゃ)
(ここにいたはずの本物よりも、出来の悪い子でいるわけにはいかない)
(私がここにいる意味を、無くしてはだめ)
(いい子に、みんなの望む“カトリーヌ”になるの)
——そうすれば、褒めてもらえるかな。みとめてくれる、かな。
いつか読んだ絵本の深海に沈んでいくような、空の彼方に放り出されたような眠りに落ちていく最中。少女はひとり静かに、悲しい決意をした。