1話 カトリーヌ・アイオリーシスの生まれた日
「カトリーヌ!目を覚ましてちょうだい!カトリーヌ!」
「おぉ神よ、何故我が子にこのような仕打ちをなさるのです……」
待望の第一子、カトリーヌが生まれたアイオリーシス侯爵家に暗雲が立ち込めたのは、赤子が生まれてから僅か数日後のことだった。
風の冷たい嵐の夜。
穏やかに眠っていたカトリーヌが、急に苦しみだしたのだ。赤子の夜泣きにしてはあまりに悲痛すぎる泣き声に驚き、急いで医師を呼ぶ大人たちを嘲笑うかのように、それはいきなりカトリーヌの全身に現れた。黒々とした、蛇が這うような刻印が。——不治の病である刻印病の、疑いようない証が。
刻印病とは、原因不明の病である。発症すると蛇が這いずるような、はたまた血管が変色したような黒い刻印が全身に現れる。刻印が出てから死に至るまでの時間に個人差はあるものの、死から逃れたものは一人も存在しない。発症条件も解明されておらず、生活習慣のためでも環境のためでも、また親から子へ受け継がれるものでもない謎の病だ。
分かっているのは、貴族にしか現れないという特異性と、必ず死ぬということ。
そんな病に、待望の第一子が罹ってしまったのだ。
アイオリーシス家は揺れた。
三月前に王家に男児が生まれたばかりだ。近い年齢の娘はそれだけで侯爵家繁栄の礎になれる可能性を持っていたというのに。
赤子に縋り涙を流す母、アルフルーレは初の子を産んだ大役に体調を大きく崩している。死にこそ至りはしないだろうが、身籠る前の体調にまで回復するには多くの時間が必要だ。
現侯爵に愛妾はいない。
「それでもやはり王子に近い年齢の娘はいて損はない。王家も初の子が王子だ。また男児を王妃が身籠る可能性もある」
「推測だけで行動してアルフルーレと離縁させ、他と娶せても子が早々にできるとは限らんだろう。第一、また王子が生まれると決まったわけでもないのに」
「下手な行動をしては格下といえどもエレーノア伯爵家に睨まれるぞ。アルフルーレは前伯爵唯一の娘だ。取り扱いを間違えれば鉱山開発の交渉が白紙になる」
「愛妾にしても、世間に露見すれば外聞が悪い。バルトロメオはお堅い宰相様だ。印象を崩すような真似をすればどんな下衆が湧き出すか」
下衆はどちらだ。
雨風打ち付ける中集まった親族は顔を突き合わせ、どの道を取るのが最良かを話し合う。我が子のことを既に死んでしまったかのように話す目の前の者たちを、アイオリーシス現侯爵バルトロメオは拳を痛いほどに握りしめ、青い顔をして見ていた。妻が泣きすぎて衰弱し、現在床についていることだけが救いとも言えない救いだった。父の隠居に伴い受け継いだこの位に就いて日の浅い自分には、妻を蔑み、娘を亡き者として話を進める親族を一喝することができない。
言い放題の者たちにやめろと言えない己の力のなさを呪うバルトロメオを省みることなく話し合う親族。
「……あぁ、そういえば。両親ともに亡くしたカトリーヌと同じ年齢の少女がいましたね」
「何をおっしゃりたいのです、お婆様」
先々代侯爵夫人であり実質親族の長ともいえる、アンネの言葉に反応を返すバルトロメオ。
「お前の又従弟、ジェーナーが婿入りした家を覚えていますか」
「リジール男爵家ですよね。先代に娘一人しかいなかったためにジェーナーがそちらに行ったと」
「先日、妻ともども亡くなったのです」
かわいそうに、随分と運のない星のもとに生まれたようですね。
祖母の何の感慨もない言葉。
「その二人が亡くなる直前に生まれた子を巡り、今男爵家は揉めているようですよ」
「あぁ、先代が愚かしい甥たちに爵位を渡したくなくてジェーナーを婿に取ったぐらいだ。そのどちらかに渡すか、形見の娘が成長するまで待つか。随分な難題だ」
親族が相槌を打つ。
「娘の忘れ形見を大切にしたいものの、邪険に扱おうとする甥を止めるだけの力もない先代男爵は随分とお困りのようでした」
「……それを、何故この場で話したのです。お婆様」
「カトリーヌは青い瞳に白金の髪でしたね。お父様によく似た」
「はい」
アイオリーシス家の血に連なる者は、多くの者が色の差はあれども金髪碧眼だった。白金に澄み切った湖のような青の瞳はアンネの父、ベルガの色であり、カトリーヌに現れた色でもあった。
「リジールの息女も似た色を持っているようですよ。お父様の色に」
「……それは」
「下手な行動に出れば侯爵家の威信にかかわります。しかし、王家とのつながりを持てる可能性は捨てるべきではありません。……あとは、分かりますね?」
アイオリーシス一族の実質的な長の問いかけは、問いの体を取った決定だ。
拳を振るわせる感情が何なのか判別もつかなかったが、それを机の下で押し殺し、バルトロメオは了承を口にした。
空気の悪い親族会議の行われていた部屋から出る。
「リジール先代男爵に渡りをつけて、息女を引き取りたいと交渉をつけてくれ。……どこから話が漏れるかわからん。先代男爵一人だけに話が通るようにしろ」
「はっ」
腹心、ゼンを嵐の中に放ち、陰鬱な気分のままにバルトロメオは部屋に戻った。明かり一つついていない部屋の中、差し込んだ廊下の明かりで見えたのは横になることなく茫然と宙を見つめるアルフルーレ。
「何をしているんだい、アルフルーレ。もう夜遅い。横にならなければ、辛くなるのは君だよ」
「……あなた」
社交界の白百合とまで呼ばれ、美しく快活だった彼女。それが今や理不尽な現実に打ちのめされ、暗闇に弱っている姿は、痛々しかった。
か細い声でバルトロメオを呼んだアルフルーレは、弱弱しい腕で夫の胸に縋りつく。
「カトリーヌは、今すぐは死なない、とお医者様がおっしゃっていたわ。今までにも赤子の時に刻印病を発症した例はあるけれど、どの子もすぐには息を引き取らなかった、と」
「そうか……」
「だけど、どの子も十歳を越すことは出来なかったそうよ。……刻印のおぞましさに絶望し、自ら命を絶った子もいた、と」
「……そう、か」
医師に告げられた事が良い知らせなのか、悪い知らせなのか判断できなかった。
「アルフルーレ、聞いてほしいんだ。……リジールの遺児を、カトリーヌとして育てることになった」
「っどういうこと!?カトリーヌはまだ生きているのよ!?」
「王子と近い年齢の子女を手放すわけにはいかないとの決定だ。……すまない」
「そんな……あぁ、なんてこと……ごめんね、ごめんなさいね、カトリーヌ」
再び泣き出した妻を抱き寄せ、バルトロメオは親族会議の時に思いついた提案を口にする。
「聞いてくれるかい、アルフルーレ。カトリーヌを、森の館に連れて行こう。ここより、空気も水も体にいいはずだ。何の声にも惑わされない、どんな悲しいことも辛いことも近づかせない。あの子が、幸せでいられる場所を、せめて、私たちで作ろう」
「……そうね。あの子が、幸福だけを覚えて神様に迎えられる、よう……」
それ以上を言えず、喉に言葉が詰まった。暗い空間にすすり泣く音だけが響く。
先のことと言われたものの、子を先に亡くす悲しみが訪れる日が恐ろしくてならない。無念と悲しみに潰れそうな夜は、長かった。
嵐が去り、日が昇ったのは親族会議の夜から二日後。
バルトロメオは妻と子を連れ、王都の屋敷からアイオリーシス領にある森の屋敷に向かった。アイオリーシス領と王都はそう離れておらず、街道整備にも力を入れているため、不便な長旅になることがないのが幸いだった。
到着したのは毎年避暑に使っている、領の東にある森にひっそりと建てられた屋敷だ。そこに信頼のおけるものだけを配置し、カトリーヌにとって最良の環境を整えられるように大急ぎで手配した。
ここが、カトリーヌの始まりにして最後の楽園。
「カトリーヌ、必ず、会いに来ますからね。傍にいられない母を、許してね……」
何もわからない幼子は、幸せそうにすよすよと夢の中。そんな娘へ愛おしそうに口づけたアルフルーレは、涙を浮かべながら乳母に赤子を預ける。
「……頼んだぞ。カトリーヌが何からにも煩わされることのないように。幸せだけを覚えられるように」
「お任せください、旦那様。使用人一同、命を懸けてお嬢様に尽くします」
傍に控える使用人は少数精鋭だ。下世話な噂の火種になるような失態を犯すような輩はいない。忠誠心に厚く、良識あるものを選別した。きっと、カトリーヌの世界を丁寧に構築してくれる。
惜しむ心は尽きねども、時間は非情だ。早く帰らなければリジールの遺児をほったらかしにしてしまうことになる。涙をのみ、二人は笑った。
「またね、かわいいカトリーヌ」
「すぐに会いに来るからな」
夢うつつの赤子が、夢の中でほほ笑んだように見えた。
屋敷に戻るとゼンが帰ってきていた。
「どうだった」
「交渉は成功しました。娘夫婦を急に亡くした心労で伏せがちだった先代男爵が、甥が暴走して下手に命を狙われるくらいなら、と」
「口外しないという約束は」
「誓約書をかわしました。リジールの遺児についていた乳母たちにまで話をすると事態が大きくなるので、暗殺されたように見せかけて引き取ってきました」
「……そうか。それで、その子は」
「こちらです。乳母は新しく選別しました。彼女は何も知りませんので、そこをご了承ください」
通されたのは、数日前までカトリーヌが眠っていた子供部屋。そこに、乳母にあやされる一人の幼子がいた。
「旦那様がお帰りになりました」
ゼンの声を聴き乳母が振り返る。
「先日から雇っていただいております、ミーシャと申します。お嬢様の養育、誠心誠意努めさせていただきます」
「……頼んだぞ。さて、我が娘との時間が欲しい。少し席を外してくれるかな、ミーシャ」
「かしこまりました」
バルトロメオの言葉を疑うことなく聞き入れたミーシャが出ていくと、夫妻は恐る恐るゆりかごの中を覗き込んだ。
「っ!?」
「この子は……」
初めて見る大人を怖がり、幼子は泣きわめく。ゼンが抱き上げてあやすものの、心許せるもののいない空間に怯える子は火が付いたように泣き止まない。
その涙に溶けだしそうな瞳の色はカトリーヌより淡い氷色。しかし、目の色以外が何故かカトリーヌにそっくりだった。それはまるで、双子のように。
「私も最初見た時には驚きました。……しかし、これならば大奥様もご満足でしょう」
「そう、だな」
「……かわいそうな子。あなたも、あの子も」
ぽつりと落とされたアルフルーレの言葉が重たい。生まれたばかりの幼子が、一方は表から追いやられ、もう一方は醜い見栄と権謀の駒たれと押し付けられて、その人生をゆがめられた。それを哀れと言わずして、何を哀れむことが出来ようか。
「……カトリーヌ。お前の名は、カトリーヌ・アイオリーシスだ」
私と、アルフルーレを親とする、我らの子。カトリーヌというものの人生を歩む命。理不尽な現実から生まれた存在。
森においてきた子を思ってか、目の前の子の哀れさに耐えかねてか、アルフルーレが泣き崩れる。赤子の泣き声は止まない。その頭を撫でながら、バルトロメオはきつく唇を噛む。
これから表舞台で生きていくカトリーヌ・アイオリーシスの誕生は、実に暗い部屋の中からだった。