未衣3 (2)
2.
お、っしゃれ~…
あたしはぽかんと口を開けた。
『Prelude』と洒落た字体で書かれた看板が掲げてあり、大きなオーバル型のガラスをはめ込んだ扉の前には素敵な寄せ植えの鉢が置かれ、背の低い黒板が立っていてお勧めのケーキが描いてある。
「叔母は厨房かな?」と言いながら、豊島さんはあたしの背を押してお店の扉を開ける。
ふわっと甘い、焼きたてのお菓子のいい香りがしてあたしは思わず笑顔になる。
店内全体に木が使ってあって、いかにもパティシエールのいる気取らない優しい感じのお店だった。
「いらっしゃいませ~」
ガラスのショーケースの向こうにいた女の人が明るく声をかけてくれる。
「こんにちは。将也ですが、叔母は奥にいます?」
にこやかに豊島さんが挨拶すると、小さなタイの着いた可愛い白いシャツを着てベージュの可愛らしい帽子を被った女の人は、笑顔になった。
「あら、将也くん?ちょっと待ってね、小百合さん呼んでくる」
奥の厨房に繋がっていると思しき扉を開けて、女の人は「小百合さん、将也くん来てますよ」と声をかけながら入っていった。
あたしは吸い寄せられるようにショーケースに近づいてケーキに見入った。
「わぁ…綺麗。美味しそう…」
どれも宝石のように輝いて、「EAT ME!」と言っているようだ。
きっと彬なら…このガトーフロマージュかな。あいつ酒飲みのくせに甘党だから。
チョコレートケーキつまみにウィスキーとか平気な奴だし。
見てる方が気分悪くなる。
豊島さんはあたしの隣に並んで、一緒にショーケースを覗き込む。
「どれがいい?ご馳走しますよ」
「え、えーっと…どれも美味しそうで…決められない~」
あたしが豊島さんの方を見て言うと、豊島さんはあたしの頬をつついて「そんな顔で言われたら、全部どうぞって言いたくなるな」と笑う。
「将也!珍しいわね、あんたがお店に来るなんて」奥の扉から賑やかな声がして、赤いラインの入ったお洒落な白いコックコートを着たパティシエールが姿を現した。
豊島さんの叔母さん、というには確かに若い感じ。30代後半くらいかな?
薄化粧なのにとても綺麗。表情が生き生きしてるからかも。
「あら!なに?女の子?」驚いたように言って、ガラスケースを回ってこちら側へ来る。
小百合さんからはバニラの甘い香りが漂ってきた。
「彼女?やぁだ、可愛いじゃないのぉ~」豊島さんの腕をバンバン叩く。
豊島さんは苦笑いして「彼女の中野未衣さん。同じ大学の2年生」とあたしを紹介し、あたしに「叔母の小百合さん。ここのオーナーパティシエール」と言った。
「はじめまして…」あたしが言うと「はじめまして、未衣ちゃん。会えて嬉しいわ」と笑った。
「姉さんからも聞いてなかったし。びっくりしたわぁ。何?私に彼女を紹介しようと思って来てくれたの?
それとも金欠で無料のケーキ食べに来たの?」あははと笑う。
「違うよ!お金はちゃんと払いますって。母さんからも言われてるし。
夏休みのバイトの件。もう決まった?」豊島さんが怒ったように言い、小百合さんは「あ、まだ決まってないの。え、もしかして未衣ちゃん来てくれるの?」とあたしを見た。
「毎日は来られないんですけど…」おずおずと言うと「あ、できたら平日、週に3、4日来て欲しいの。この、陽子さんの代わりだから」と先ほどの店員さんを指してにっこりする。
「ごめんなさいね。よろしくお願いします」陽子さんは申し訳なさそうに頭を下げた。
「あら、そういうつもりじゃないのよごめんなさい、気にしないで」と小百合さんも謝る。
そしてあたしの方を向いて「予定があれば先に言ってくれれば、シフト組むからね」と言った。
「あ、はい…」あれ?あたしここで働くことになっちゃってる?
思わず豊島さんを見ると、豊島さんは苦笑して「小百合さん、採用なの?」と訊いた。
「え?何言ってんの当たり前でしょう。将也の紹介なら即OKよっ!」
と小百合さんはまた豊島さんの腕を叩く。
そこへお客さんが入ってきた。
「いらっしゃいませ~」小百合さんと陽子さんの声が綺麗にハモる。
「じゃあ、詳しい話はまた後で。何か食べていって。
未衣ちゃんの分は小百合さんのおごりよん♡」と笑ってガラスケースを超え厨房へ入っていった。
「イートインにどうぞ」お店の左側にある、イートインスペースを掌で指して陽子さんが言った。
あ、イートインがあるんだ。じゃあ、ここでのサービスもバイトの内容に含まれるのかな。
「未衣ちゃん、ケーキ決めないと」あたしがぼーっとイートイン席を見ていると、豊島さんがあたしを呼んだ。
あ、そうだった。
あたしが急いでショーケースの前に戻ると、豊島さんがあたしの肩をぎゅっと抱いて一緒にショーケースを覗き込んだ。
「ふたつ、選んで。君の好きなケーキをシェアしよう」
豊島さんって、いつもこういう感じ。
あたしの好きなもの、気に入るものを最優先してくれる。
彬なら自分の好きなものをとっとと決めちゃって、悩んでるあたしは置き去りだよ。
っていうか…
あたしは顔が赤くなっていくのを止められなかった。
肩抱かれてるとか…初めてじゃない?
あたしは思わず頬に両手をあてて顔色を隠しながら、ショーケースに見入った。ふりをした。
「ん~…じゃあこの、フルーツタルトとミルフィーユ、あ、やっぱりオペラ…いやピスターシュ…」
豊島さんは笑いだす。陽子さんも笑っている。は、ずかしい…
「やっぱりフルーツタルトとミルフィーユでっ」
あたしが身体を起こすと、豊島さんは肩から手を外して「じゃ、それください」と言った。
「あとアイスコーヒーと…」あたしの方を向き「アイスティーでいいよね?」訊いてくれる。
「あ、うん」あたしはアイスだとコーヒー飲めない。苦いんだもん。
財布を取り出しながら「小百合さんはああ言ってたけど、二つ分支払います。せっかく彼女がバイトするのに来にくくなっちゃうし。1個分は、陽子さん息子さんのお土産にしてあげて」と微笑んだ。
陽子さんは、ぱっと笑って「あ、ありがとう。じゃあ、ドリンクはサービスね」と言った。
えーそれじゃ意味がないじゃない…豊島さんは頭をかきながら支払いを済ませた。
「お席までお持ちしますね。おかけになってお待ちください」
陽子さんに促されて、4つテーブルのあるイートインの一番奥に座る。
「ご馳走になっちゃって…ごめんなさい」あたしは豊島さんに言った。
「いや、全然」と微笑んで「バイト決まって良かったね。夏休み、君のシフトの時は僕もここに通おう」とお店の中を見回した。
「実はあまり来たことないんだよ。母が、身内の子供が店内をウロウロするのは良くないって考えだったし。
僕ひとりで来るのも、野郎友達連れてくるのも場所が場所だけに気が引けるし」
うーん、確かに。
でも女の子なら喜ぶと思うけど…女友達はいないのかな?
「彼女を連れて来て、小百合さんを驚かすこともできて今日は良かった」くすくす笑う。
「小百合さんと仲、いいんだね?」と言うと豊島さんは笑顔のまま頷いた。
「うん、小さいころは一緒に暮らしてた。祖父祖母が早くに亡くなって、母が小百合さんの親代わりだったから。僕にとっては年の離れた姉、って感じだな」
「オーナーパティシエールなんてすごいね。とても可愛らしいお店でケーキの種類もたくさんあるし」
「20代のころは結構、苦労もしたみたいだけど。あの明るいタフな性格だからやっていけてるんだろうね」
そこへ、陽子さんが「お待たせしました」と言いながらケーキとドリンクを運んできた。
手際よく美しくサーブしてくれる。
わあ、あたし、こんなふうにできるかなあ…
心配。
「ミルフィーユは、倒しちゃうね。ごめんね」と言いながら、ミルフィーユもタルトも豊島さんが綺麗に切り分けて半分ずつお皿に盛ってくれた。
めっちゃシェアしにくいケーキばかり注文してごめんなさい…
「美味しそう!いただきます」あたしはさっそくフォークを取った。
カシャ、と音がして、見ると豊島さんがスマホで写真を撮っている。
「あ、インスタとかにアップするの?切り分ける前に撮ればよかったね」と言うと「いや、アップはしない。僕だけが見られる、君の笑顔の画像だから」と言ってスマホをしまった。
あたし?!を撮ってたの?
あたしはフォークを取り落としそうになった。
「え、やだ~!今すっごい油断してた!ダメ消去してっ!」彼がしまったスマホを胸ポケットから取り出そうと左手を伸ばす。
その手首をつかんで、豊島さんは「やだよ、僕の惚れた笑顔なんだから」とテーブルに降ろした。
「これからは言って!撮るときは必ず!」あたしは怒って「じゃなきゃ、もう一緒に出かけない!」と言うと、途端に豊島さんは困ったような表情になって「判った判った。これからは声かけてからね」とあたしの手をポンポンと叩いた。
「さ、食べよ?」と促され、あたしはフォークを持ち直して綺麗にナパージュされているタルトを口に運んだ。
甘すぎないパートシュクレとサクサクのクレームダマンドにたっぷりのフルーツが美味しい。
あ、フルーツソースがかかってる。それの酸味が全体の調和を生んでるんだ。
「おいし~っ」思わず言葉が出る。
豊島さんはふふっと笑って「良かった」と言った。
「そんなにケーキが好きだとは知らなかったな。あまり甘いもの食べてるイメージないよね」
豊島さんがあたしをしげしげと見ながら言う。
「母がお菓子を作るの好きで。実家にいたころはよく一緒に作ってたの。
でも一人暮らしだと作っても全部一人で食べなきゃならないし、材料費も結構かかるし。
買ってきたケーキは美味しいけど太るし」
「へぇ~そうなんだ。未衣ちゃんの作ったお菓子食べたいなぁ。
っていうか、未衣ちゃん全然太ってないじゃない。
いやむしろ少しくらい太った方が…」
「男は皆、そう言うの!」あたしはドンとテーブルを叩いた。
「えっ?」豊島さんは驚いて目を見張る。
「彬だってそう言ってたのに、少し太ったら痩せろ痩せろってうるっさいのなんの。
クラスメイトだってサークルの人だって『痩せたね』とは言わないのに『あれ太った?』って言うのよ平気で!」
ひどいと思わないっ?あたしがぎゅっとフォークを握りしめて豊島さんを見ると、たじろいだように上体を少し逸らした。
「未衣ちゃんって案外、そういうキャラなんだよね。
しっかり者のイメージなんだけど、どこかイジりたくなるっていうか…
まあそこが僕には可愛いなっと思うところなんだけどね」
照れたように笑う。
「とにかく、他の男どものことは知らない。
僕は別に、君が太ろうと痩せようと、好きなことに変わりないし。
だから、僕の分も食べていいよ」
と言って手を付けていないケーキのお皿をあたしの方に置いた。
「でも…」
「僕は夏休み中、君がいる日はここに通うんだから。いつでも食べられるし」
「え、マジで言ってたの?」冗談だと思った。
豊島さんは傷ついたようにあたしを見る。
「マジですよ。当たり前でしょ」
「だって…」週3,4日だよ?そんなに暇なの?
「君の顔見に来るだけだから。ストーカーとか思わないで」
懇願するように言う。
「別にそうは思わないけど…」いや、でも。うーむ。微妙なところだなあ。




