未衣・彬 12
未衣は朝早くに目が覚めてしまい、とりあえず家事をこなした。
合宿から持って帰ってきた大量の洗濯物を片付け、部屋を掃除する。
終わってしまってもまだ9時。
豊島に会うまで、あと5時間もある。
時間の進みが遅く感じられた。
誰か午前中だけでも会ってくれる人いないかな…と考えるけれど、あいにく夏休み中で帰省している人も多いし、バイトやサークルで忙しい人も多い。
彬に電話してみようか。
未衣はスマホを取って連絡帳を起動し、彬の番号を呼び出す。
しばし逡巡してから思い切ってかける。
しばらく呼び出し音が鳴り続け、留守電に切り替わった。
未衣は急いで電話を切る。
またサイレントにしてるのか。まったくもう使えないやつだわ本当に。
まだ寝てるのかもしれないけど。
未衣は電話をテーブルに置き、両肘をテーブルについて頬杖をついてぼんやり考えた。
彬は…美乃利ちゃんとどうするんだろう。
このまま付き合っていくのかな。
もし別れを切り出しても、美乃利ちゃんが絶対に嫌だと言ったらそのままつきあいそうだわ。
優しいというか、優柔不断というか、お人好しというか。
イヤとかダメとか、なかなか言えない人なんだよね。
彼のいいところでもあるし、悪いところでもある。
美乃利ちゃんの粘り勝ちで、将来結婚までいったりして。
ありうる…
と考え、未衣はくすっと笑った。
そうしたら、あたしは…まあ、切られるだろうな、順当に考えて。
生涯の友人でいたかったんだけどな。
男女間の友情って、周囲の人に理解してもらうのは思ったよりずっと難しいんだ…
未衣はため息をついて、コーヒーを淹れようと立ち上がった。
ドリップコーヒーのサーバーが立てるコポコポという音を聞きながら、未衣は豊島に会うことを考えて憂鬱になった。
彬は本当に来てくれるだろうか。
頼っちゃいけない、迷惑かけちゃいけないとは思ってるけど、今日に限っては助けてほしい。
豊島は自分の気持ちを理解してくれるだろうか。
男友達も大事な友人で、自分はその友人たちとも女友達と同じように親しく付き合っていきたいこと。
ストーカーみたいな過剰な束縛は止めてほしいこと。
それを理解してくれるなら、自分は肉体的なことも含めて豊島を好きになるように努力を続けていく気でいること。
そこまで考えて未衣は、この話は彬には聞かれたくないなあと思った。
なんか生々しすぎる…
ちょっと離れたところにいてもらおう。
夏の日差しが徐々に部屋の中に差し込んでくる。
未衣はエアコンの設定温度を低くした。
コーヒーをサーバーからマグカップにそそぎ、スクリプトを取り出してテーブルに置いた。
昨夜スクリプトと一緒に置いておいた、彬からもらったペンダントが滑り落ちる。
未衣は拾って、スマホの隣に置いた。
彬とお揃いのデザインというのが何だか妙に気恥しくて、だけど嬉しい。
なぜペアにしたんだろう。
未衣にはそれが非常に疑問だった。
ノートPCを立ち上げ、合宿の稽古中にとった大量のメモを整理しながら必要に応じて演出ノートに入力していく。
滝沢や彬にも解りやすいように、項目ごとにまとめる。
その時、アパートの外に車が停まった音がした。
このアパートには駐車場がないので、路上駐車になる。
誰だろう、レンタカーかな?
未衣はそんなことをぼんやりと考え、またスクリプトに目を落とす。
しばらくして、部屋のインタホンが鳴った。
彬?
何故か未衣は咄嗟にそう考え、「なに?彬?」と言いながら深く考えずにドアを開けた。
未衣が開けかけた扉を、手を入れてひっつかむようにして大きく開け放ち、よろけるように入ってきたのは豊島だった。
髪は乱れ、蒼白な頬はこけて、双眸は深い絶望が色濃くが刻まれて闇のように昏く、色のない唇から荒い呼吸を繰り返している。
たった1週間ちょっとくらいで面変わりするほど痩せてしまった豊島の姿に、未衣は息を飲んだ。
「と、しまさん…」未衣が呟くように言うと、豊島はすがりつくように未衣を抱きしめた。
「みき…」荒い呼吸の合間に、豊島は繰り返し未衣の名を呼び、涙をこぼす。
そのころ、彬は目を覚ましてぼんやり起き上がった。
うげ…10時近くじゃん。
起きられて良かった。寝すぎだけど。
俺が時間指定したくせに、遅刻とかシャレにならない。
彬はベッドから出て、顔を洗いに洗面所に行こうとして、点滅するスマホに気づいた。
ああ…そういえばさっき、電話が鳴ってたような…?
誰からだろう、とスマホを持ってボタンを押すと、待ち受け画面に未衣からの着信を告げるメッセージが表示された。
時間は、1時間ほど前だ。
あれ、なんだろう…
彬はリコールした。
未衣は抱きついたまま離れない豊島の背の高い体躯を持て余しながらも、なんとかドアを閉め靴を脱がせて部屋に連れていって小さなソファに座らせた。
身をよじらせて、豊島の腕からどうにか逃れる。
パソコンのモニターを閉じて、豊島から少し離れたところへ座った。
豊島はがっくりと首を前に傾け、目を閉じている。
「今日は…14時に渋谷の約束だったと…思うんだけど…」未衣がおずおずと言いかけた時、テーブルの上のスマホが電話の着信を告げブルブル震えだした。
画面に『彬』と表示される。
未衣が手を伸ばすより早く、豊島が歯を食いしばるような表情でスマホをテーブルから叩き落す。
一緒に貝殻のペンダントも落ちた。
「あきら…あきら、あきら!
君はいつだってそうだ!」
豊島は食いしばった歯の間から絞り出すように、言葉を紡ぎだす。
「今だって彬だと思ったから、君はドアを開けた。僕だと判っていたら絶対に開けなかったろう。
いつも君の心には彬がいて、僕はその他大勢のなかの一人だ。
これまでも、これからもずっと!」
ドンとテーブルを叩く。
「豊島さんは彼氏で、彬は友達だよ、あたしはそう思ってる。
だからずっと、豊島さんの要求にもあたしなりにできるだけ応えてきた。
正直なところ辛いときもあったけど、あたしは豊島さんを好きになりたいと思ってた!」
「好きになりたい…やっぱり君は僕のことなんて最初から全然好きじゃなかったんだ。
なぜ、僕の告白にOKって言ったんだ?
どうして!好きでもない男とつきあうって言ったんだ!
僕の気持ちを、弄ぶように!
僕がどれほど君を愛しているか知っていてそういう曖昧な態度を貫く気なんだ」
「違う!そんなことない。
どうして?お試しで良いって、ゆっくり好きになってくれれば良いって、言ってくれたじゃないの。
今になってそんなこと言うなんてひどい」
あまりの豊島の取り乱しように怯えて、未衣も涙声になる。
彬はぶつっという感じで電話がつながったとたん、ガタンっといったような大きな音が聞こえて驚いてスマホを耳から離して見つめた。
その時、大きな声が聞こえてきた。
『あきら…あきら、あきら!君はいつだってそうだ!』
えっ?!
彬は驚く。
豊島さんの声だ。
もう会ってるのか?
未衣と豊島は電話がつながっていることに気づいていないようで、そのまま会話が続いている。
豊島の尋常ではない激昂ぶりに、彬は不安になった。
これ…外じゃないよな。家の中っぽい。
未衣の部屋か!
彬はスマホのスピーカーをONにして豊島と未衣の会話を聞きながら、急いで着替え始めた。
ヤバいよ豊島さん…なんかイっちゃってる。
未衣も泣き出してんじゃん。
電話の向こうでは大きくため息をついた豊島が、未衣に言っているのが聞こえる。
『これから君の実家に行こう。
ご両親に会って、僕らの交際を認めてもらって婚約する。
僕の両親の承諾はもう得てきた。
車で来てるから、準備して』
えっ!
彬はワイヤレスイヤホンにブルートゥースでスマホと接続しながら、耳を疑った。
なんだこいつ、頭おかしくなっちゃってないか?
未衣の実家って…宮城だぞ?!
急いで部屋を出て、隣の部屋のインタホンを押しドアをどんどん叩いた。
「三田さん!三田さん!」
「…誰だ?彬か?」大学の先輩でもある隣の住人は、寝ぼけ眼にパンツひとつの格好で出てきた。
彼女が奥にいるらしい。
「バイク貸して。訳は後で話す」必死の表情で早口に言うと、三田は何か察するところがあったのか、すぐにメットとキーを放って寄こした。
「彼女によろしくな」ニヤリと笑って言うと、ドアを閉める。
彬は否定するのももどかしく、急いで階段を駆け下りてメットを被りバイクにまたがってエンジンをかけた。
間に合ってくれ…!
祈るような気持ちでバイクを発進させる。




