彬 10
美乃利ちゃんに対する気持ちに確信が持てず、俺は煩悶しながら夏合宿までの日を過ごした。
震えながら泣いていた美乃利ちゃんを思い出すと、本当に可哀相なことをしたって後悔ばかりが募る。
未衣がどれだけ嫌がっても泣いても、猛進していく豊島さんはある意味すごい。
自分勝手と言えばそれまでだけど、やっぱり未衣を好きなあまり一時も手放したくないんだろう。
そんなにも人を好きになれるって、なんかいいな。
俺は美乃利ちゃんに会うと楽しいけど、毎日会いたいとか会えないと寂しいとか、そういう感情は別になかった。
美乃利ちゃんが会いたいって言ってくれて、あれしたいここに行きたいと言ってくれて、それにハイハイとつきあうのが「良い彼氏」だと思っていたんだ。
キスしたかったけど、嫌われてまでしなくていいやっていう後ろ向きな考えだった。
未衣の方が。
会えない話せないと辛かったし、彼氏といると妬けて仕方ないし、キスだってその先だって…
いやいやいや。
それは考えちゃいけない。考えること自体無意味だ。
美乃利ちゃんから何度か連絡が入っていたけど、一切を遮断して最後はスマホの電源を切った。
連絡をくれるのはとてもありがたいと思った。どんな形であれ、まだ俺とコンタクトを取ってくれるという気持ちが。
一度、ちゃんと会ってきちんと謝罪しなきゃいけないと思っていたけど、なかなかその勇気が出なかった。
糾弾され罵倒されるのはしょうがないと思う。
別れると言われるのも仕方ない。
むしろ、そうしてもらいたい。
だけど、美乃利ちゃんが、もしまだ俺とつきあいたいと言ってくれたら。
俺はそれにYESと言えるかどうか…
これから先、美乃利ちゃんとそういうことになっても罪悪感が残るだけのつきあいになってしまうんじゃないかと思うと、気が重い。
結局、俺は美乃利ちゃんに恋をしてはいなかったんだ。
夏合宿の日。
俺は寝不足で重い身体を引きずるようにして東京駅へ行った。
未衣が駆け寄ってきて、心配そうに顔を覗き込む。
俺の腕にかけられた未衣の細い手が、妙に嬉しい。
「おう、未衣。大丈夫だよ。どこも悪くない」
カラ元気を出してみる。
電車に乗り込み未衣と並んで座る。
未衣の香りが、俺の不安定な気持ちを落ち着かせる。
声を聴いているとほっとする。
未衣はなんだか元気がない。
豊島さんと連絡が取れないと言って、沈んでいるように見える。
俺の胸にまた、黒い感情が広がる。
真美ちゃん先輩が来て、豊島さんに連絡を取ったと教えてくれた。
俺もどさくさに紛れて一緒に聞いてしまった。
未衣が許可してくれたし、うん。
豊島さんも苦しんでいるみたいだ。
あまりにも未衣に執着している自分のことを嫌悪しているらしい。
なんだか気の毒になってくるが、なんとなく羨ましくもある。
そんなふうに一人の人を愛してみたい。
未衣は偉いと思う。
逃げずにきちんと話すと言っている。
俺も、美乃利ちゃんと会って謝らなきゃな、ちゃんと。
千葉の南端近くにある大学の寮に着いて、まだ揃っていない人もいるのでとりあえず自由行動になった。
部長・副部長に滝沢さんと未衣と俺の5人で、この合宿の方針を決める。
部長はやたら喜んでいた。
去年の合宿は本当に遊んだんだけで終わり、稽古を見に来てくれたOBに何か言われたらしい。
大変だないろいろ。
来年は誰が部長になるのかな。
俺か未衣か…あとは神保か金井くらいか。
未衣と俺でやりたいな、とか思ったりして。
午後にはみんな揃い、部屋割り(あってないようなもんだけど。どうせ飲んだくれて雑魚寝だ)を決めて、早速稽古に入った。
脚本を読み合わせして、台詞をひとつひとつ確認していく。
役者の個性に合わせて言い回しなどを変え、場面のイメージを共有する。
舞台装置も大道具スタッフが中心になってみんなで考える。
暗転の時や場面転換はどうするか、照明との絡みも考慮して意見を出し合う。
まあ、今回は心理劇に近いので、あまり大袈裟なセットは組まずに済みそうだけど、なにしろ舞台が狭いので役者に負担をかけないようにしなくてはならない。
稽古が終わって、夕食も済ませるとお定まりの飲み会になった。
皆で分担して持ってきた酒がどんどん空けられていく。
初日からこんなんで大丈夫かよ…
俺は寝不足だからかいつもより早く酒が回ってしまい、少し酔いを醒まそうと部屋の外へ出た。
海が近いので、微かに潮騒と潮の匂いがする。
海の方まで歩いてみるか…星がきれいだし。
玄関へ行くと、未衣がいてスマホを弄っていた。
「未衣」
俺が声をかけると、未衣はびくっと身体を震わせて俺を見て「あ、彬」と少し笑った。
「何やってんの」
「豊島さんに、合宿終わったら会おうってLINEしたの。彬は?」
「ん…酔ったから散歩でもしようかと」
「あたしも行っていいかな」と言って靴に履き替える。
二人で寮を出て、ぶらぶらと海岸に向かって歩き出す。
「豊島さんと二人で会って大丈夫か?」俺は真美ちゃん先輩の言葉を思い出して訊いた。
「うん…渋谷かどっかの、カフェにでもしようかと思ってる」
未衣は胸の前でスマホを握りしめて言う。少し不安そうに見える。
「そうか…俺も店の中にいようか」
「悪いからいいよ」未衣はかぶりを振る。
「また。お前は何でそんなに他人行儀なんだよ。友達だろ、親友だろ」
俺は殊更に強調して言う。心配なんだよ、未衣が泣いてると。とは言えないから…
未衣は、ふふ、と笑う。
「そうね。じゃあ、ちょっと離れた席にいてもらおうかな」
「うん。それでよし」俺も笑った。
海岸に続く階段を降りていく。
暗いので未衣の手を引いて歩いた。
余計に酔いが回りそうに心臓がドキドキする。
海岸線に沿って歩き、放置してあるコンクリの波消しブロックに並んで腰かける。
未衣はしばらく真っ暗な海を眺めていたが、やがて静かな声で訊いてきた。
「彬こそどうしたの?
今朝、尋常じゃなく顔色悪かったよ。2~3日眠れてないって、どういうこと?」
バレてたか。まあ、そうだよな…
俺は頭をがりがりかいて、ため息をついた。
「美乃利ちゃんが俺の部屋に遊びに来てさ、なぜキスしないの、美乃利のこと好きじゃないのって訊かれて。
…まあ、俺も我慢してた分、抑えが効かなかったって言うか…キス以上のことしようとしたわけ。
ひっぱたかれて、気づいたときには美乃利ちゃん泣いてて、泣きながら部屋を飛び出してった」
隣から、未衣のため息が聞こえる。
「ちゃんと追いかけて謝ったんでしょ?」
「…いや」
「えっ?」
未衣は息を飲んで俺の方を見る。
「じゃあ…そのまま?」
「そう。スマホの電源切ってる」
「それはダメだよ、判ってるんでしょ?」未衣の口調がきつくなる。
「判ってる。でも、俺の中でまだ答えが出ない」
俺は俯いた。
「答え?なんの?」
「…このまま、美乃利ちゃんとつきあってていいのか。
俺は、許してもらえるまで謝り倒して交際を継続したいと思うほど、彼女を好きなのかどうか」
言ってしまった。俺の偽らざる気持ち。
「もちろん、酷いことをしようとした件については、きちんと謝らなきゃいけないと思ってる。
謝罪をしたうえで、俺はどうしたいのか。
つきあい続けたいのか、…別れてもいいのか」
二人して黙り込む。
波の音が絶え間なく聞こえる。
見上げると星がきれいに見える。
未衣は波の音に紛れるような小さな声で言った。
「あたしは、彬は美乃利ちゃんのこと、すごく好きなんだと思ってた。
だからキスとかも我慢できるんだなって。
大切にされてる美乃利ちゃんが羨ましかった。
だけど…違ったってことなんだね」
「そうだな…俺は豊島さんよりもっと酷い男だよ。
豊島さんは本当に未衣が好きで、だからこそもっと近づきたい自分のものにしたいと思うんだろう。
だけど俺は…美乃利ちゃんの気持ちを踏みにじったようなもんだな」
自嘲気味に言う。
「人のこと言えた義理でもないけど…彬、酷いと思う。
美乃利ちゃん可哀相。あんなに彬のこと好きなのに」
未衣の声が涙を含んだようになる。
俺は腹が立って「彼氏の部屋に来て、キスだけで終わりってのもどうなんだよ。しかも美乃利ちゃんからキスしろって言ってきたんだぜ」強い口調で言う。
バカ言ってるな俺。酔ってるから許せ。
「そうだよね…そう言われても仕方ないんだね…」
未衣は涙声のまま言う。
「えっ?」
「あたしも部室とかに二人でいて急に抱きしめられて嫌だったって言ったら、千佳に怒られちゃった。
友達じゃないでしょ、彼氏と彼女でしょうって。
カマトトもいい加減にしなって言われた」
「カマトト…」俺は別の意味で絶句した。
「千佳ちゃん、昭和か」
未衣が笑いだす。
「そう、あたしもそう思った」
笑いを収めると、ため息をつく。
「その時、つきあうってそういうことも含まれるんだって、初めて判ったの。
バカだよね…でもやっぱりなかなか難しい。
豊島さんがすごい我慢してくれてるのも判るから、なおさらね…」
「未衣は、豊島さんが好きなんだろ?
何でそういうのダメなわけ?」
俺は不思議に思って訊いた。
過剰な束縛が嫌ってだけで、恋愛感情はすごいあるように見えるけど…
ハグやキスが嫌ってのは何なんだ?
ずっと海の方を見たまま未衣がぽつんと呟く。
「あたしも、彬と同じ。豊島さんのこと、本当に好きになれてない」
え…
俺は驚いて未衣を見た。
淡い月明りに照らされて、未衣の白い横顔が浮かび上がって見える。
頬に涙が伝っている。
「好きになろうと努力してる。
自分からキスしたり、頑張ってみてる。
だけど…判らない。心から好きってどうしても思えない。
豊島さんの真摯な溢れる愛情に応えられない自分が、人でなしに思えて辛いの」
「彬のこと責められない。
断る理由がないからつきあってるだけで、豊島さんに対してすごく失礼だと自分でも思ってる」
そう、だったのか…
俺は未衣の、今までの苦しみようが理解できたような気がした。
同時に、豊島さんの絶望的な苦しみと過激な束縛の理由も。
好きでもない男に自分への深い愛情を毎日見せつけられて、おまけに不安のあまり行き過ぎた束縛をされたらつらいよな。
未衣はそこで俺を見た。
涙が月明りを反射して、瞳がきらめく。
「彬、あたし合宿が終わったら豊島さんと真剣に話す。本当の気持ちを。
だから彬も。美乃利ちゃんから逃げないで、ちゃんと話して」
未衣の表情に見惚れていた俺は、迫力に気圧されて思わず頷いた。
そうだな…俺もちゃんと決断しなくちゃ。
美乃利ちゃんと話をするのはとてもつらい。
美乃利ちゃんを傷つけたくないと、未だに思っている。
だけど俺は、未衣が豊島さんを好きじゃないと言ったことに、妙に気持ちが高揚していた。
手を伸ばして、未衣の涙を指で拭う。
そのまま手を未衣の首の後ろに回して引き寄せた。
「寝不足の上に酔ってるから…一度だけ許して」
未衣の耳許で囁き、唇に口づけた。




