未衣 8
部室を出て足早に歩きながら、あたしは早鐘のように打つ心臓にめちゃめちゃ戸惑っていた。
おかしい。なんでこんなにドキドキするんだろう。
急ぎ足でキャンパスを走り抜けるようにとにかく大学の外に出る。
駅の方へ向かい、駅前のドトールに飛び込んだ。
空調が効いている涼しい店内に入ると、汗が噴き出す。
アイスティーの大きいやつをオーダーして、窓際の席に陣取りタブレットPCを取り出しスクリプトを広げる。
部室での彬とのことは頭から締め出し、台本に集中する。
先ほど滝沢さんと彬と3人で話し合った事項の要点をまとめ、箇条書きにしてタブレットPCに入力していく。
部員の顔を思い浮かべ、オーディションの配役について考える。
豊島さんと大方の配役を当てはめながら台詞を書いていったので、読んだ部員たちは恐らく誰が誰か判っていると思う。
だいたいがそんなに部員が多いわけでもなく、それほど熱心に活動しているわけでもない。
あたしと彬が1年のころから中心になってやってきたところがある。
彬とは最初からなんというか、ウマが合った。
あたしも彬も出身は違うけど高校時代は演劇部で、入部当時に芝居の経験があったのはあたしと彬だけだった。
新歓コンパから意気投合して、いろんな芝居の話をして一緒に観に行った。
結構初めの頃から、何故か自然と呼び捨てだった。
適当でいい加減な彬と、ガサツでお節介なあたし。
一緒にいるととにかく楽しかった。笑ってばかりだった。
抱きしめたいとかキスしたいとか、そういう男女の面倒くさい感情は全く存在しなかった。
性別を超えた親友。あたしと彬の関係はこの言葉に尽きる。
互いに恋人という人ができて、こんなに変わると思わなかった。
嫉妬とか羨望とか嫌悪とか、醜い感情がすぐにあたしを支配し虜にする。
彬は美乃利ちゃんにキスもしていないと言っていた。
嫌われたくないから。
どれだけ大切に思っているかが判る。
彬にそれほど愛されている美乃利ちゃんが…羨ましい。
トライしてみたら?なんて焚きつけてしまった。
何であんなことを言ったのか、思い返してみると。
無体なことして嫌われちゃえばいい…という考えがあったのかもしれない、と思い当って自己嫌悪に陥る。
サイテーだ、あたし。
ヤったの?と訊かれて、すごい焦ってヤってない!とか言っちゃって。
別にいいんだけど…と軽く返されて傷ついて。
そうだよね、どうでもいいよね…
泣きたくなる理由が自分でも解らない。じゃあ訊かないでよ。
彬に頬にキスされて、あたしは怒るどころか嬉しかった。
あまつさえあたしも彬にキスしたかった。そして、してしまった。
こんなの友達じゃない。
半年前のあたしと彬が今のあたしたちを見たら、ぞっとするだろう。
戻りたい。あの頃に。
豊島さんのエスカレートする行為について、彬が言っていた言葉にヒントがあると思う。
『俺が、友人代表で豊島さんにちょっと話してやろうか』
彬の気持ちはとても嬉しかったけど、彬じゃダメだ。
豊島さんの感情を逆なでするだけだから。
窮状を訴えて、助けてもらおう。
あたしってホント、恋愛IQが低いな。経験不足か。
誰がいいか考えて、やっぱり真美ちゃん先輩が良いと思った。
あたしと豊島さんのクピドだし、豊島さんの友達だし。
真美ちゃん先輩は明後日のオーディション、来るかな?
スマホを取り出して起動し、LINEを立ち上げて真美ちゃん先輩に尋ねる。
すぐに『お疲れ様~ 明後日は行くよ!』と返信がある。
『豊島さんのことでちょっと相談あるんですけど』と入力して送信すると『り』と返ってきた。
『私も最近少し心配してたから。なんでも話して』と返信が来て、あたしはホッとした。
『よろしく』とスタンプを送る。
氷の解けかけた、薄いアイスティーをぼんやり飲んでいると、窓の外に豊島さんが来て笑いながらコンコンと窓ガラスを叩いた。
あたしは、昼食を一緒に摂る約束をしてたことを思い出して焦った。
彬とのことがあって急いで大学出てきちゃって、待ち合わせ場所を忘れてた。
「ごめんなさい、探しちゃった?」店に入ってきた豊島さんに、あたしが席から立ち上がって訊くと「いや?駅から出たらすぐに君が目に入ったから」と笑う。
「大学、暑くって。アイスティー飲みたかったから…」苦しい言い訳をしていると「窓際にいてくれて良かったよ。大学に行くより早く会えたし」と微笑んで、あたしの額にキスした。
急いでタブレットPCとスクリプトを片付けて外に出る。
「さて、どこに行こうか?」腕を組むように左腕を差し出してくる。
腕を組むのが豊島さんはいたく気に入っているようで、いつもそうして歩く。
別に嫌じゃないけど、特に嬉しくもない。くっついてると暑いし。
断る理由がないっていうだけの感じ。
「未衣ちゃんにリクエストないなら、代官山に行こうか。
ガレット・ブルトンヌが美味しいっていうお店があってね…」
と豊島さんが言いかけるのに「あ、行きたいところある!」あたしは言った。
彬が働いてるファミレス。今日もバイトあるからって、午前中に打合せを入れたんだ。
彬もあたしのバイト先に美乃利ちゃんを連れて来てくれたし。
そういえば一度も行ったことなかった。
「ああ、そうなんだ。どこ?」ちょっとビックリしたように豊島さんが訊く。
「桜新町のロイホ」とあたしが言うと、え?と更に驚く。
そーだよなー、豊島さんはいつもお洒落で女の子が喜びそうなお店をセレクトしてくれる。
王子様キャラだよね。
強引にキスしてくるけどね。
「彬がバイトしてるの。行ったことないから、行ってみたいと思って」
「ふうん…」
豊島さんはしばらく黙って考え込むふうだったが「じゃあ、そこへ行こうか」と、駅の改札を抜けた。
エアコンの効いている地下鉄の駅が有り難い。
豊島さんがぎゅっと肩を抱いてくる。
あっつい…
桜新町で降りて、ロイホに入る。
夏休みの昼時とあって子連れのママさんたち、それからお昼休みのビジネスマンみたいな人たちで混雑していた。
女性の店員さんに「お二人様ですか」と訊かれ「はい、あ、カウンターで」と豊島さんが言う。
ボックス席が満席だったと見て取ったんだろう。
店員さんもちょっとホッとしたように「こちらへどうぞ」と案内された。
「彬くんはどこかな?」カウンター席に並んで座ると、豊島さんが周りを見まわして言った。
「人手が足りなくて彬はキッチンもホールもやってるみたいだから…」あたしが言うと「へえ…そうなんだ」と言ってメニューを広げる。
なんか妙に身体を寄せてくるのが気になるけど…
メニューを決めてボタンを押すと、先ほどの女の子の店員さんがカウンターの向こうに来た。
豊島さんに見惚れているのが判る。
オーダーして、豊島さんが眼鏡を外して微笑んで「僕たち、ここで働いてる竹内彬さんの友人なんですよ」と言うと「あっそうなんですか~?」と店員さんはちょっと赤くなって嬉しそうに笑った。
「ねえ、豊島さんたまに、話すときに眼鏡外すよね?なんで?」女の子がキッチンへ入っていってから、あたしは常々疑問に思っていたことを訊いた。
小百合さんのお店で、女の子に話しかけられても大抵は無視してるけど、どうしても答えなきゃならないときは眼鏡を外してるような気がする。
大学の友達とかにはそんなことしないし、いつもじゃないんだよね。なんでだろう?
豊島さんはまた眼鏡をかけて、あたしを見て微笑む。
「見たいものだけ見たいから」あっさりと言った。
「だからコンタクトにもしないんだよ」
あ…そう。あたしはちょっと鼻白む。
結構、きっついよね、性格。
優しそうな顔して…
「おう、未衣。さっきはお疲れ。豊島さんもどうもです」声をかけながら彬がキッチンから出てきた。
コックコートとシェフハットが意外と似合ってた。首に黄色いタイを巻いている。
カッコいいじゃん。
さっきのことを思い出してしまって、少し赤くなってしまう。
豊島さんはあたしをちらっと見て、彬に笑いかけた。
「未衣ちゃんが行きたいって言うから。忙しい時間に声かけて悪かったね。顔出してくれてありがとう」
さっさと仕事に戻れと言わんばかりの豊島さんの言い方に、彬は苦笑いする。
「ごゆっくりどうぞ」と言って、また戻っていった。
「彬くんも演出だっけ?」豊島さんがあたしの額に汗で張り付いた前髪を、指ではらいのけてくれながら訊いてくる。
あたしは心持ち顔を引き気味にしながら答える。
「そう。滝沢さんが主の演出で、あたしと彬が演出補」
「滝沢…ああ、理学部の3年のあいつか。真美ちゃんは?」
「役者で出演すると思う」
なぜ、ここで真美ちゃん先輩の名前が?
「合宿に行くとは聞いてたから、まあ、出演はすると思ってたけど。
真美ちゃん、男装の麗人ぽくていいんじゃない?」
想像したのか、楽しそうにふふっと笑う。
へー、真美ちゃん先輩と連絡とってるんだなあ。仲いいんだ。
豊島さんを最初に飲み会に連れてきたのも真美ちゃん先輩だったし。
「豊島さん、真美ちゃん先輩と仲いいんだね」あたしが言うと「いや、同じ学部で共通の友達も多いし、気さくな人だから」と焦ったように言い訳する。
いや、別に…ヤキモチ妬いてるとかじゃないから。全然。
だから肩を抱いて頬にキスとかやめて欲しいな…
彬がホールにいなくて良かった。
良かった?…なぜ?
答えは出ない。
やがて料理が運ばれてきた。
彬(だけじゃないと思うけど)が作ったのかと思うとなんかちょっと微妙だったけど、まあ普通に美味しかった。
あたしたちに気を遣ったのか、さっき豊島さんに邪険にされて嫌だったのか、単に忙しかったのか、彬はそれから出てこなかった。
何か少しだけ、寂しかった。
もうちょっと姿を見て話したかったな…
豊島さんの主張に負けておごってもらって、外に出るとまた夏の日差しが照り付けてくる。
腕を組むのはさすがに暑かったのか、豊島さんはあたしの手を取りいわゆる恋人つなぎにして、あたしたちは駅まで歩いていった。




