彬 5
美乃利ちゃんとお試しで付き合うという1ヶ月が過ぎた。
互いにそのことに気づいていたのかいなかったのか、なんか特に何も言わないままその後も普通に会ったり出かけたりしていた。
俺はバイトとテスト勉強とレポート提出と、あと美乃利ちゃんとのデートで部室にはホントに顔を出さなくなっていた。
まずいなあと思わないでもなかったけど、俺にとってサークルは優先順位の最下位に近かったので、夏合宿の報せが来た時も躊躇なく不参加で返信した。
美乃利ちゃんはお嬢さんだけあって、勉強やレポート提出などは完璧にこなしているようだった。
でもまあ、お嬢さんじゃないけど未衣なんかその上にバイトして俺や今泉なんかにノートを提供して、本当にすごいなあと改めて思う。
未衣と話してると美乃利ちゃんに怒られる俺は、未衣に頼んでノートや資料をPDF形式に保存してもらってLINEに送信してもらい、KEEPに落としてからプリントアウトして使っていた。
いやもうホント有り難い。今年単位落としたらもう留年、みたいな講座もあったんで…。
テストが無事終わり、梅雨も明け、夏休みがいよいよ始まろうとしていた。
美乃利ちゃんは夏にコミックマーケットとやらいうイベントにサークルで参加するそうで、冊子を作るのに忙しいとかでちょっと俺にも時間ができた。
バイト前に久しぶりにちょっと部室に顔出すかなあと思い、部室に行って扉を開けてみると、未衣がひとりでいた。
なにかたくさんの本や資料を広げて、パソコンで熱心に何か入力している。
「コンコン。入ります」口で言って中に入る。
未衣はびくっとして振り返り「…ああ、彬かぁ、ビックリした~」と大きく息をついた。
「どうしたの?珍しいじゃない、部室に顔出すなんて。まだ皆、来てないよ」
「ってか、ここ暑いなあ。未衣、熱中症になるぞこれ」俺は窓を開けて「あっち!」と叫んでまた閉めた。
「相変わらずバカねえ、この時期、外の空気の方が暑いに決まってるでしょ」未衣はまたパソコンに向き直りながら言う。
「相変わらずは余計だろう?…何書いてんの?」椅子を未衣の隣に引っ張ってきて座る。
「あっつい離れろ」と未衣は俺をしっしっと追いやり、俺の方に顔だけ向けて「これはね、あんたが勝手に戦線離脱・敵前逃亡した秋の公演のスクリプト!」とでかい声で言う。
あっ…俺は思わず口元を手で覆った。
美乃利ちゃんとのことがあってすっかり忘れてた…
「ごめん未衣…俺すっかり忘れてた」俺は頭を下げる。
「そうでしょうとも」未衣はバカにしたように鼻で笑う。「可愛い彼女さんの前では、こんなもの霞か雲か?薄れて消えてしまうんでしょうよ」
俺はムッとした。「そんな言い方はないだろ。謝ってるじゃん」
「それで…どれくらい進んでるの?俺も何か手伝うか?」また椅子を近寄せて未衣の横からPCの画面を覗き込む。
未衣からいい香りが漂ってくる。あ、なんかすごく懐かしい香りだ。
未衣は「いいよもう。豊島さんに手伝ってもらってるし」素っ気なく言って「骨子はできたから、あとは肉付けっていうか、台詞の細かいところを部員の皆で決めて、あとは…ラストなんだよね」プリントした紙束を寄越す。
『第5稿』と書かれた脚本で、最終章の始まりのところに付箋が貼ってある。
5稿…俺は本当に申し訳なく思いながら、付箋のところを開いて読んだ。
俺、未衣の言う通り敵前逃亡した。1稿を二人で書きはじめたばかりだったんだ。
「今日これからまた豊島さんと話そうと思ってるけど。
豊島さんはその、第5稿みたいな感じのラストが好きっていうんだけどねえ…
どうも座りが悪いって言うの?落ち着かないのよね」
未衣はその前の原稿をめくりながら言って考え込む。
俺は最後まで読んで、未衣の言うことに共感した。
「これちょっと…無理矢理な感じがするよな。
ハッピーエンドである必要あるか?
謎は謎のまま終わってもいいんじゃないのかな…」
拳を唇に当てて、俺は考え込んだ。
「そう、そうなの!勧善懲悪の話ではないんだし、結局誰が悪くて、誰が悪くなかったのか?
判らないまま終わってもいいと思うんだよね。史実はそうなんだし。
解明してハッピーエンド、もあるかもしれないけど…」
「だけどそうするともう、最初から台詞や伏線、構成そのものを変える必要がでてくるだろ?
うーん。どうしたらいいかな」
「そうなんだよね。もう思い切ってこのラストに合わせてがらっと変えちゃおうかなとも思ってるんだけどね。
それにはちょっと時間が足りないの。夏合宿までには上げたいし」
未衣はため息をつく。
あ、夏合宿…俺は後ろめたく思った。
未衣は「彬は夏合宿どうするの?あたしはバイトで行けないんだけど」と急に振り向いた。
ちょうど未衣の横からパソコンの画面を覗き込もうとしていた俺と、未衣の顔が触れそうになる。
「・・・・・・!」
驚いて互いにのけぞる。
「なんだよ急に振り向くなよ!」俺は焦って言う。
ああ、ビックリした。
心臓がドキドキしてなかなか治まらない。
未衣も俺から顔を背け、胸をおさえている。
「ああ、えっと夏合宿?…は俺も不参加」とにかく話を逸らそうと話し始める。
「未衣のバイトってあれか、豊島さんの叔母さんのケーキ屋さん?
HP見たよ、すごくお洒落だなあ」
「ああ、そう。パートさんの息子さんがオペでね、その間のヘルプっていうか。
夏休みの間だけっていう、いい条件だったから」
未衣は取ってつけたような笑顔で言う。
俺はちょっと違和感を覚えた。
「それより、彬あんた秋の公演は参加する気あるの?
夏合宿辺りでもういろいろ決めちゃうよ?キャストもスタッフも。
やらないならやらないって、早く言わないとみんな困るよ」
未衣はまたPCの方を向いて、ちょっときつい口調で言った。
俺は頭をかく。
そうだよなあ…
でも未衣と一緒に芝居やるとか言ったら、美乃利ちゃんなんて言うかなあ。
未衣はそんな俺の表情を読んだのか、固い口調で言った。
「あたしがいるサークルに顔出したら、彼女に何か言われるの?
ノートもレポートの資料も何もかも、LINEで送れって、ビックリしたわよ。
彼女すごい束縛するのね」
俺は思わず「何だよ、未衣は豊島さんが他の女の人といても平気なのかよ」と反論した。
「豊島さんだって、サークル内やクラスメイトで仲のいい女性とかいるだろう?」
未衣は表情を消して、俺の顔をじっと見つめた。
「…なに?」
と、俺は未衣の方へ身体を乗り出す。どうした?
「やっぱりおかしいのかな、あたし」未衣は俺を見つめたまま、呟いた。
「え?」
「あたし、豊島さんが他の女の人といても、全然平気なの。
むしろ、二人の会話を邪魔しちゃいけないかなって遠慮しちゃう」
うつむいて、両手で顔を覆う。
え?ちょっと…俺は慌てた。泣いてんのか?
「いやほらそれはさ、未衣が豊島さんの愛情を信じ切ってるって言うの?
絶対に豊島さんは未衣のこと裏切ったりしないっていう揺るぎない自信があるからじゃないのか?」
俺は未衣の肩に手をかけて、背をさすった。
「じゃあ、彬の彼女は、彬の愛情を疑ってるの?裏切るかもしれないって思ってるの?」
未衣は顔を覆ったまま、くぐもった声で言う。
「…いや、そういうんじゃない、かも。でも言われてみればなんでだろう、なあ」
厳密に言えば、未衣だけなんだよね、美乃利ちゃんがあれほど俺と接触するのを嫌がる女の子は。
アニ研に顔出して部員の女の子と話したり、谷岡さんと俺が二人でいても、それほどぶつぶつ言わないんだよ。少しは言うけどね…
「豊島さんは、あたしが自分以外の男と接触するのが嫌だっていう気持ちがあるんだって。
実際にはそんなことは不可能だってのは判ってるとは言うんだけど…
でもあたしがバイトする日、必ず一緒に来るの。誰かに声かけられたりしないか不安だって」
「ぅえ~マジ?」俺は思わず呻いた。
それもうストーカーっていわないか?
「あたしは豊島さんに対してそうは思わない。
だって豊島さんは豊島さんっていう一個の人間だし、あたし以外の、男性でも女性でも関係なく素晴らしい人たちと交わることによって、より人間性が深まったり影響を受けたりするわけでしょ?」
俺は椅子を引き寄せて座り、未衣の肩を抱いて、うん、と頷く。その通りだと思うよ。
「あたしはこの先ずっと、女性としか影響し合えないのか?男性っていう、世の中の半分を構成する人たちとまったく没交渉にならなきゃいけないのか?って考えると…」
そこで未衣は顔を上げて、涙を溜めた瞳で俺を見つめた。
「ねえ、彬。あたしっておかしいのかな?
彬の彼女みたいに、ヤキモチ妬かないのって変なの?」
俺は思わず未衣を抱きしめた。
豊島さんの想いと、自分の感情の間で苦しんでいるのが判って、不憫で仕方なかった。
「おかしくないよ。変でもない。俺も未衣と同じ考えだよ。
だけど、豊島さんの気持ちも解らないわけじゃない。
彼女は自分のものだけであってほしいと思うのも、解る気はする。
だから、時間をかけて。ゆっくりでいいから、判ってもらうしかないと思うよ。
俺自身もそう思ってる。
未衣は俺にとって大切な友達だってことを、美乃利ちゃんに少しずつでも理解して欲しいと」
「うん…そうだね」未衣は涙声で言った。
俺は身体を離し、未衣の涙を指で拭ってやった。
「頑張ろう?俺と未衣と美乃利ちゃんと豊島さんの4人で遊んだりできるようになるのが俺の夢なんだよ、最初から」
未衣は「変なの」と言って、ふふっと笑った。
俺は未衣の、まつげを伏せて微笑む顔にドキッとした。
未衣ってこんなに綺麗だったか?
「あ、俺もうバイト行かないと。
スクリプトの件、ホント申し訳なかった。
これからでもなるべく参加したい。相談して」
立ち上がり、未衣を見下ろしながら言った。
未衣は顔を上げて「うん、判った。…彬、ありがとう」と笑った。
その笑顔が妙に眩しくて、俺は目を逸らし「いや、まあ、お互いいろいろあるよな」と鼻の頭を掻いた。
身体が汗ばんでいる。部屋の暑さのせいだけじゃない。




