8話 それは静かで酷く冷たく(2)
「あ、あぁ……」
無様にも、侯爵はフリードの放つ静かな怒気に萎縮し意味のなさない音を発するばかりだった。
「貴殿の声は詰所の外まで響いていた。外交の場以外では、随分と口が回るようだな」
確かにこの王宮の廊下は音が響きやすい。
侯爵は声の限りに叫んでいたので、フリードには早い段階から聞かれていたようだった。
「それで? 返答はまだか」
「そ、それは……この己の身分を弁えぬ女に、叱責をしたところでございます、殿下」
「そうか。彼女はどのような粗相を貴殿に?」
フリードが聞くと、侯爵は慌てて自分の肩と床に落ちている針を指した。
「ご、ご覧ください、殿下。この女は野蛮にも、私に武具を投げつけ、殺めようとしたのです」
フィアナは、殺そうとはしていない。だが針を投げた場所が場所だ。首を狙おうとして外したようにも見える。
「私が咄嗟に避けたからいいものの……なんと、恐ろしい」
優位に立ったことを確信した侯爵は急に胸を張り、白々しく身を震わせた。
ディルクと騎士たちはどうすれば良いか分からず、侯爵とフィアナを交互に見ている。
口を開こうとしたフィアナを、フリードが視線で制した。
「…………!」
鋭いが、侯爵から向けられるような悪意の類は感じない。
口を噤んだフィアナを尻目に、フリードは砕けて地面に落ちた肩章の破片を手に取って呟く。
「……頑丈な素材の装飾品のようだが、かなり激しく損傷しているな」
「ええ。あの野蛮な女は恐ろしい速さで投げつけてきましたから」
「そのようだな。……しかし、知らなかった」
抑揚のないフリードの声が、妖しく低められる。
「貴殿が、それを避けられるほど武術に長けていたとは」
「は……」
反対に侯爵が、やや上擦った声を上げる。
そして、それを取り繕うよう早口でまくし立てた。
「は、はい。そうです、実は幼い頃より剣術や馬術を嗜んでおりまして、いや、貴族たるもの当然なのですが、私は特に力を入れて取り組んでおりまして……」
「そうだったか。……ああ、そういえば。この前、馬から降りる際に鐙に足を取られ転倒したと聞いたが。大事ないか?」
「それは……!!」
「! ……ぶっ」
堪えきれず誰かが吹き出した。釣られて何人かが声を漏らす。
鐙とは乗馬する際足をかける部分である。なんという鈍臭い男だ。
侯爵は羞恥にわなわなと震えつつも、なんとか声を絞り出す。
「は、い……っ。お気遣い痛み入ります、殿下……」
「ああ」
フリードは淡々とした様子で頷く。
「……妹君の護身術の鍛錬に付き合って、掌底で歯を折られたのも記憶に新しいな。もう平気か? いや、弟君に肩を外されたのだったか? ああ、それから────」
「でっ、殿下! もうどこも、なんともございません! お気遣いいただき恐悦至極でございます!!」
慌てた侯爵の声はひっくり返っている。
確実に天然ではなく、フリードは怪訝そうな顔を作った。
「本当か? はっきりさせた方が貴殿の名誉のためにもいいのではないか。フィアナ・シルヴィアの針を避けきれなかったのは、昨日段差で躓いて顔を打ったのが────」
「なななななんともありません! ま、まあ彼女の暴挙は綺麗に水に流し忘れましょう! はははっ……」
侯爵は乾いた笑いを上げながら、これ以上の暴露を防ぐために強引に話を切り上げた。鼻が赤かったのはそういうことか。
侯爵のおもしろエピソードは水に流れず騎士団で語り継がれるだろうが、フィアナの件は不問になるらしい。
だんだんと落ち着いてきたフィアナは、己の短慮を呪う。
(やりすぎた……こんな男のせいで首が飛ぶところだった)
普段は気の長いほうだが、突かれる場所が悪いと途端に沸点が下がる。小さい頃からの悪い癖である。
特に〈祟りの森〉は、フィアナの地雷だった。
「許すか。寛大なことだな」
「ま、まあ、ハールマン侯爵家の当主たるもの、このくらいのことは当然です」
その言葉に、すっと気温が下がった。
いや、本当はそのようなことが起こるはずはないのだが、この場にいる全員がそう感じた。
原因もまた、皆が分かっている。フリードの纏う空気が、より冷たく鋭いものに変わったからだと。
「そうか……たしかに、ハールマン侯爵家たるもの、言動には常に気を張らねばならないだろう」
「は、はい……。その通りでございます」
「『異人たちも異人たちか。勝手に我が国に入り込んで生きながらえているのだから、勝手に死ねば良かったというのに』」
フリードは一字一句違えず繰り返す。
「……だったか?」
侯爵はなんとかカクカクと首を動かし頷く。
「た、確かにそう言いました……」
「ハールマン侯爵は随分と異民族を厭われているようだ。何か理由が?」
「い、いえ……。その、ですが、この者たちがいた集落の殆どは不法入国者や国に申請をせずに商売をしていた者たちです」
フェロニア王国で他国の者が商いをするには国の許可がいる。それは彼らも分かっていた。
(でもそれは!)
「!」
再び、フリードがフィアナを制した。
「それは貴殿が調べたことか?」
「……はっ? いえ、それは……」
「確かに、彼らの入国記録は残されていない。……全て焼失したからな」
「!」
(何故、フリードリヒ殿下がそれを……!)
────彼らは正規の方法で入国した者達だった。ただ、入国直後に冷ダジボルグ帝国との戦が激化し、商売の申請が出来なくなり、さらに関所が閉鎖しフェロニア王国から出られなくなったのだ。
不運は立て続けに起こった。
フェロニアから出られずたたらを踏んでいる間に、入国者の記録を管理する機関でぼや騒ぎがあり、数十名の入国者の記録が焼けたのだ。
そして始末の悪いことに、そこの責任者がそれを隠蔽し、記録を最初から無かったことにした。そのせいで出国する際に入国の記録が無いと言われ、不法入国者扱いである。
入国の記録が無ければ、商いの申請もできない。フェロニア王国からも出られない。
フェロニアでこっそりと生き、こっそりと商売をするしか生きる道はなかった。
(あの集落にいた人たちの八割型はそうだが……何故殿下が知って……?)
フィアナと同じ疑問を、候爵も抱いたようだ。
震える声で尋ねる。
「し、失礼ですが殿下。その焼失したというのは、確かなのですか? 信頼できる者からの情報でしょうか?」
「私が調べた。それでも信用ならないか?」
半信半疑な候爵を一刀両断するように、フリードがあっさりと言った。
「フッ、フリードリヒ殿下が、御自らの手で、ですか!?」
「ああ。結局、時効だと有耶無耶になってしまったがな」
フィアナは信じられない思いでそれを聞いていた。
(……どうして)
何故、所詮異民族の集まりの貧困街などの為に、大国の王子殿下が動いたのか。
(……所詮は、異民族なのに)
八割は隠蔽によって止む無く国に留まらざるを得なくなった異人だと言った。残りの二割は。
ダジボルグとの戦によって被害を受けた者から、迫害された異人である。
戦によりたくさんのものを失い、行き場のない哀しみを持て余した人々は、憎きダジボルグ帝国と少しでも重なるものにそれをぶつけようとした。
まるで、全てお前達が悪いのだとでも言うかのように、ダジボルグから受けた傷を、近くにいる異人に返したのだ。
彼らは、フェロニア王国の人々が近づかない場所に逃げ込んだ。
フェロニアの領土内で最も多くの戦死者を出した場所。呪われていると恐れられる森の奥深く。
それが、〈祟りの森〉だった。
「彼らは被害者だ。そして責は監督不行届を犯した我ら王族にある。彼らを愚弄するのは許さない」
毅然とした態度を貫くフリードに、侯爵は気圧される。
彼に煽られていた騎士たちもまた、非難めいた目で侯爵を見ていた。
「っ、王子殿下は、本当に……」
四面楚歌の状態で、苦し紛れのように侯爵の口元が吊り上がる。
「その娘のことを庇われる。何か理由が?」
「…………」
フリードに凍えるような目で睨まれ肩を跳ね上げながらも、歪んだ口は言葉を吐き続ける。
「で、では、理由も肩入れも無いというのなら、私めがこの者を処分しても構いませんな?」
「……水に流すと言ったのは貴殿だが。易々と言葉を覆すのは貴族、特に貿易を生業とする家では好ましいことではない」
「ええ。ですが、王国でも名高いハールマン侯爵家たるもの、無礼を許していては他国に甘く見られ外交に支障が出ます。どうかご理解ください」
前言撤回の恥よりも、フィアナを処罰したい気持ちが上回ったらしい。フィアナのしたことと身分を考えると、首をはねられてもおかしくはない。
侯爵には、平民の罪をその死をもって償わせることが許されているのだ。
しかし、
「────認められない」
フリードが真っ向からそれを跳ね除けた。
咎めるように、侯爵が剣呑な声を出す。
「殿下。私にこの者からの屈辱を黙って受けろと?私たちの権利を否定なさるのですか」
「否定などしていない。もとよりそのような権利を貴殿が持っていないというだけのこと」
「……はっ? それは、どういう……」
侯爵の言葉を皆まで聞かず、フリードは突然フィアナへ振り返り、命じた。
「私の前に跪け」