5話 見えない防壁
カタン。
手から滑り落ちたペンが、小さな音を立てる。
数度目を瞬かせると、微かに残っていた夢の残滓も波が引くように消えていった。
続いて視界を支配した紙の山に、フリードはこれが現実だと確信する。
いつの間にか眠ってしまっていたようだ。少し根を詰め過ぎたかもしれない。
しかし、休んでもいられない。
視線を落とせば、いい加減うんざりしたくなるような文面が目に入ってきた。
今日一日で何度この文字の並びを見たことか。
『ただの騎士学校の生徒、それも女性の者を第三騎士団長になど、何を考えているのか。そんなことが許されるわけがない。直ちに考え直すべきだ』
この大量の抗議文の署名の大半は、古くから続く上流貴族。国の上層部との繋がりも深い古狸どもからだ。
王がフィアナを招喚すると言ったのはつい先日。
それに、第三騎士団長にすると正式な発表はしていないというのに、どこで情報を仕入れたのか。
連日連日『第三騎士団長にするなどと』と手紙を送り付けてきてご苦労なことだ。
しかしフリードからしてみれば「私に言うな」の一言に尽きる。
今回の件は完全に王の独断だ。元々破天荒が基本の王だったが、これに関しては暴挙と言えよう。
(何を考えているんだ陛下は……。半年後に叙任など、できるわけがない)
フリードとてフィアナを第三騎士団長にするのは反対なのだが、フィアナの忠誠対象がフリードとなるせいで、抗議文がこちらに流れてくる。
ただでさえ春を迎えるこの時期は忙しいというのに、全くいい迷惑である。
眠っていたせいか喉が渇いていた。
見ると、芳醇な香りを放っていた紅茶はとうに湯気を出すのを止め、渋みのある成分が底に沈んでいる。
思っていたより長い間うたた寝したようだ。
台無しになった紅茶を啜りながら、フリードは抗議文に記された名前を確認し、目を細める。
(面倒だな……)
その時、不機嫌な足音とともに荒々しくドアが開いた。
「フリード!」
「……騒々しいぞオルフェ。ここは王宮で、お前は第一王子の側近だ。己の立場を弁えろ」
入ってきたのは、四半刻ほど前に急用が入り部屋を出ていったオルフェだった。
鋭い目で睨まれるのも気にせず、ドン! とフリードの目の前に手をつく。
「弁えてないのはどっちだよ。勝手にこんなところに引きずり出された女の子に、何なんだよさっきの」
先程も散々それを言われたが、怒りはまだ収まらないらしい。
普段は飄々としている雰囲気だが、今は棘を隠そうともしない。
「機嫌が悪かったとしても、初対面の女の子にあんな態度とるなんて一国の王子のすることじゃないだろ」
フィアナが望んで此処にいるわけではないということも、被害者の彼女に対して酷い対応をしたことも、自覚はしている。
────しかし、あれが最善だとも思っている。
「おい、聞いてるのか!?」
黙ったままのフリードに、オルフェは苛付いたように声を荒らげた。
「……落ち着け、オルフェ。お前こそらしくもないな。今日会ったばかりの娘の為に何故そうも躍起になる」
「それは……」
オルフェは逡巡するように視線をさまよわせ、溜息と共に言った。
「……あの子さ、ほんとに初対面?」
「……無論だ。先程お前自身もそう言っただろう」
「そうだけど……会ったとき、お互い様子が変だったでしょ。本当は、知ってるんじゃないの」
世迷言を。
吐き捨てる様に呟き、フリードは不味い紅茶を口に含む。
「陛下には考え直してもらうべきだろう。上層部の貴族連中が受け入れるとも思えない」
「陛下にねえ……」
少し落ち着いたのか、机についていた手を戻しオルフェは苦い顔をする。
「いくら連中が騒いだところで陛下は気にしないでしょ。この度の反抗は簡単に予想できたことだ。その上で決めたんだろうし」
正論だ。しかし、王が何を考えていようとそれを言うつもりがないなら、こちらも黙って従う気は無い。
「それでも、フィアナ・シルヴィアを第三騎士団長にするのは簡単には認められない。今一度陛下と話さなければならないだろうな」
「そう……。ねえ、フリード」
ふと、オルフェが真顔で問う。
「今回の王の真意を、お前はどう見る?」
「……あの人の真意など、私には分からない。だが……あれでいて無駄なことはしない人だ」
今回の人事にも、何かわけがあるのだろう。しかし今回は、そんな経験則での予想だけで納得できるものではないが。
「ふぅん……じゃ、もいっこ質問していい?」
オルフェの瞳が一瞬、鋭く光った。
こちらの質問が本命か、と直感的に悟る。
「フィアナちゃんを部屋から出さないようにしてんの、お前でしょ。なんで?」
「……下手にうろつかれて王宮の品位を下げられても面倒だからだ。話はそれだけか?」
強引に切り上げ席を立った。
オルフェがそれを見咎める。
「どこ行くの?」
「陛下に呼び出されている。別件でな」
「東の治水のこと? それとも南の貿易関係?」
暫く前から東には騎士団数名を向かわせており、南の貿易では侯爵が王宮を訪れている。
「両方だ。話が終わった後、第三騎士団長について直談判するつもりだが」
護衛を伴い出ていこうとしたフリードの腕をオルフェが掴んだ。眇られた目と共に、掴む手に力がこもる。
「待って。フィアナちゃんを部屋から出さない本当の理由は? 陛下はすぐにでも騎士団の詰所に連れていけって言ってたよね? それに背いてまですることなの、さっきの」
「……いくらお前でも無礼だぞ、オルフェ」
腕を振り払い、フリードは背を向けた。
「フリード?」
しかし、フリードが向かったのはドアではなく、先程まで仕事をしていた執務机。真ん中に置かれたままの一枚の紙を取り、オルフェに押し付けた。
「これって……」
「……貿易の件で今王宮に訪れているハールマン候爵家からも、第三騎士団長についての抗議文が届いている」
「え?」
「無用な衝突は避けるべきと思ったまでだ」
そう言うと、フリードは今度こそ執務室を出ていった。
主のいなくなった部屋で、オルフェはぽかんとドアを見つめる。
ハールマン侯爵は現在王宮に滞在しており、自由に歩き回ることも許可されている。
フィアナの部屋は彼の入れない区画だが、騎士団の詰所まで行けば移動途中に会うかも知れない。
いや、鉢合わせることはなくともフィアナの姿は遠くからでもよく分かる。
ハールマン侯爵がフィアナの存在を知り、会おうと思えば探すのは容易い。
フィアナと接触してしまえば、彼女をよく思わない侯爵が必ずなにか仕掛けてくる。
「……つまり、フィアナちゃんが候爵に詰られるのを防ぐためってこと?」
答える者はいないが、長い付き合いがもう答えを出していて。
けれど、ならば何故フィアナにあのような態度をとったのか。
「……わっかんないなぁ……」
くしゃりと、オルフェは前髪をかきあげた。