31話 救いか、あるいは
汗ばんだ指先が、うっかり書いたばかりの字の上を滑った。
インクが広がり、紙の上を汚す。
これは書き直しだ。
思わず舌打ちをする。
フリードは苛立っていた。
(早く、トリシャの件のカタをつけなければ……)
その為には、こんなどうでもいい、地位だけ高い老害の保身の書類にかける暇など無いというのに。
トリシャがこの王宮で見つかった。
必ず手引きした犯人がいる。
となると、地位だけ高い老害どもが考えるのは『疑われては大変だ』。それから『目障りな輩を消し去る好機だ』ということ。
犯人に関する嘘臭い情報や、己の身の潔白を証明しようと躍起になる文書。
馬鹿げたものばかりがフリードの元に届く。
全てまとめて窓から捨てたいくらいだが、先ほども言ったとおりあの者達は地位だけはある。無下にはできない。
(オルフェたちも動いてくれているが……進展は無しか)
現在、失踪したメイドを騎士団の総力をあげて追っているところだ。しかし見つかるかどうかは分からない。
もしこのまま見つからなかった場合、一旦騒ぎを収めるためだけの捨て駒、『犯人役』が必要になる。
さっさと首を飛ばして黙らせる為の犯人に白羽の矢が立っているのは、まず間違いなくフィアナだ。
処刑には勿論、フリードたち王族が大きく関与している。
しかし先代の王……現国王の父親のせいで、国が裁判にかけられる圧力は減った。
取り決めたのは現国王。
愚王であった先王の命令で、次々に罪のない者たちが命を落とした。
その為に、裁判を行う機関にはある程度の独立した権力を持たせることにしたのだ。
罪のない者を、王族という理不尽なまでの力から守るために。
しかし今はそれが仇となった。
逆に、フリードが庇いきれずに罪のないフィアナが向こうの独断で殺されるかもしれない。
(いや、このままでは、確実に……)
せめてフィアナが普通の平民であったのならまだ向こうも踏みとどまったのかも知れないが、フィアナはフェロニアの国民に迫害された者たちの生き残り。
国を恨む動機がある。
あとは、騎士学校に入学するまでは各国を放浪していたので、どこで何をやっていたか分からない。
そして、トリシャを知っていた上に匂いで判断できたことといい、およそ真っ当な生活をしていた者には分からない知識がある。
それを理由に犯人にされる可能性が高い。
(今は取り調べ中だったか)
もう三日経ったが、まだ終わっていないようだ。
いや、犯人が見つかるまで終わらないだろう。
器具を使うような本格的な拷問は行われていない筈だが、それに準ずることはされているかも知れない。
(一日に最低一度の食事は義務付けているが……。睡眠に規約は無い)
眠ることを許されず、断続的に言われのない罪を叫ばれ、罵られ続ける。
普通の娘の精神ではまずもたないし、それに対する否定しても無駄だとやがて無罪の主張を放棄するかも知れない。
もし一度でも罪を認めてしまえば、終いだ。
あとはなす術なく処刑台に差し出されるのみ。
「……それだけは」
それだけはさせない。
絶対に。
この国の汚職によって、または理不尽に憎しみの捌け口とされて。
身勝手な理由で、彼らはあの森に追いやられた。
この国の都合で全て奪ったというのに。
また、未だこの害悪が中枢に蠢く大国の都合で、今度は命まで奪うというのか。
(……それを防ぐのが、この事件を引き受けた私の役目だ)
どんな手を使ってでも守る。
それすらできないというのなら、己にこの国を背負うことなどできまい。
(まず優先すべきは、フィアナ・シルヴィアの精神状態のことだな)
平凡な町娘とは比べ物にならないだろうが、どのような扱いを受けているのかが分からない。一刻も早い保護が必要だろう。
できるならディルクやボリスからも意見を聞きたいところだが、生憎二人は謹慎中で接触が難しい。
最悪二人の立場を悪くしてしまう可能性もあるので下手に動くことができない。
(今浮かんだ中で、今すぐにできる方法は一つだけか……)
それも、できるならば避けたい方法だ。結局別の形でフィアナを傷つけることになる。
しかし、もたついていれば本当にフィアナが冤罪を認めてしまうかもしれない。一度処刑が決まってしまえばフリードでも覆すことは厳しくなる。
命より優先すべきことなど無い筈だ。
「……人を呼んで欲しい」
フリードは部屋の外に控えている臣下に、静かに声をかけた。長く息を吐き、その名を口にする。
「もう一度、ヨハネ・グーテルックを」
◇◆◇◆
陽の光の全く通らないこの部屋では、朝と夜の区別が無い。
強いて言えば、ここの番人が松明を一つ消したならそれは囚人の寝る時間だということ。
しかし、鉄格子の向こうの松明は久しく消えていない。
時間に関する情報は何も得ることはできなかった。
(……感覚で言えば、三日、か)
鍵の開く音に、のろのろと顔を上げる。
また人が交代したようだ。かける言葉は何も変わらないが。
「────お前がトリシャを用意したんだろう?」
「……違います」
そう発したフィアナの声は、僅かに掠れていた。
何度口にしただろうか。
何度この、意味の無いやりとりを。
がり、と石の床に爪をたてる。
体を動かす度、全身に出来た痣が存在を思い出させるかのように痛んだ。
フィアナがいるのは薄暗い地下牢。
取り調べが一通り終わった後、ここに移された。
「いい加減話せ。分かってんだろ?」
「……これ以上何を話せと仰るのでしょう」
「そうやって否定したって意味が無い。どうせお前は殺されるんだ」
ぐい、と前髪を掴んで顔を上向かされる。
倒れた椅子が部屋の隅に見えた。
「……っ」
無理な体勢に首に負担がかかる。
身をよじれば、いつか蹴られた脇腹が鈍く痛んだ。
切れた口の端にこびりついているのは乾いた血。
「なんとか言えよ。あ?」
男の口が歪んだ。
この男ははじめの取り調べのときからおり、フィアナを攻め立ててにやにやと悦に入っていた。
なるほど今はさぞかし楽しいだろう。
がしりと首を掴まれ、そのまま後方に弾き飛ばされる。
硬い石の壁に頭を強打し、フィアナは呻いた。
吐き気がこみ上げ、視界がぼんやりと揺らぐ。
意識が薄れかけたフィアナの髪を再び掴んで天井を仰がせると、男は真上から桶に入った水を叩きつけた。
「っ! ……っは、ごほっ、ごほっ!!」
気管に水が入り、無理やり覚醒させられる。
開いた瞳に、やはり不気味な男の顔が映った。
「苦しいか?」
「…………」
フィアナは無言で男を見やる。
睨んではいない。
そこにあるのは、冷ややかな侮蔑だった。
「くそっ、この女!!」
振り上げた拳が直撃する。
フィアナは今度は横方向に吹き飛んだ。パシャンと水が跳ねる音がする。
「自分の状況分かってんのか? ああ!?」
フィアナの反応が気に入らないようで、男は恐喝するように顔を近づけた。
怯えた様子が見たいのだろう。
「……分かっていますよ。尋問官の特殊な性的嗜好に付き合わされている、惨めな状況ですね」
そう答えれば、次は足が右肩を打った。
床の上を転がり、壁に背中を打ち付ける。
「てめぇ、いい加減に────!!」
男が怒鳴りかけた、その時。
「いい加減にするのは貴方ではないですか?」
とつぜん、場違いに穏やかで、どこか人を食ったような声が降ってきた。
男とフィアナが顔を上げれば、鉄格子の向こうに立っていたのはくすんだ金の髪に糸目の男。
服装からして城勤めの者ではない。
「な、なんだ貴様!! 誰の許しがあってここにいる!」
「あなたが、フィアナ・シルヴィアさんですね?」
男の叫びを綺麗に無視し、その糸目の男はフィアナに話しかけた。
「……はい。貴方は?」
フィアナの問いかけに、恭しく頭を下げる。
「これはこれは、名乗りもせずに失礼いたしました。私は《アイオロス》代表、ヨハネ・グーテルックと申します」




