26話 脳を侵す香り
半閑話です。
程なくして、執務室の扉が見えてきた。近づくと少し独特な甘い香りがする。
だがメイドの言う通り、感じるのは甘さだけではなかった。
(苦い……それと、これは)
注意して嗅ぐと、アンモニアのような微量の刺激も感じる。
だがそれは本当にほんの僅かで、悪臭ではない。メイドが気づかなくても無理はないだろう。
フィアナとて、この匂いを一言で表わせと言われれば『甘い』もしくは『甘苦い』香りと答える。しかし、
「…………?」
ひく、と鼻が反応した。
なんだろう、酷く嫌な予感がする。
フィアナは強ばった顔で扉を叩いた。
「誰かな~?」
聞こえてきたのは、オルフェの呑気な声。
フィアナは背筋を伸ばし簡潔に用件を言った。
「フィアナ・シルヴィアです。ご心配をおかけしてしまったとお聞きし、ご挨拶に参りました」
「フィアナちゃん!?入って入ってー」
カチャカチャという音が中から聞こえた。恐らくカップやスプーンを置いたのだろう。
「……入っても、よろしいですか?」
「……構わない」
二度聞いたのは、フリードに確認を取る為である。それを理解したフリードからはすぐに了承が貰えた。
「失礼致します」
(うっ)
部屋に入った途端、ぶわっ、と強い香りがした。
思えば、厚い扉を抜けて廊下でもあそこまで匂いがするのは紅茶にしては異様であった。
────フィアナの頭の中で、警鐘が鳴る。
オルフェがへらりと笑いかけた。
「ごめんごめーん。舶来品の紅茶なんだけど思ったより匂い強くてさー。フリードもさっきまでそんな顔してたよ。フィアナちゃんも、鼻きくんだね?」
フリードとオルフェはソファーに腰掛けていた。やはり匂いがきつかったのか窓は細く開けられている。
フリードはあまり気の進まない様子だった。カップを手にはしてはいるものの、持て余しているように見える。
カップの中では、赤みがかった色の液体が揺れていた。
(見た目は普通……。だが、本当にただの紅茶なのか?)
ざわざわと何かが騒いでいる。
「ご挨拶に上がったのですが……その前に、その紅茶は……」
言いながらも、頭では必死に記憶を漁っていた。
扉を開けてこの匂いがしたことが、きっと前にもあったのだ。
何年も前だ。
(やはり確かにあるんだ。いつだ……?)
フリードとオルフェに近づくほどに紅茶は強く香ってきた。
フィアナには飲む気の失せる匂いだが、それは師匠の度重なる異物混入行為が生んだ嗅覚のせいでもある。
珍しくはあるから新し物好きの貴族の興味を引くだろうし、クセのある物は人を選ぶがその分、はまる者にはとことんはまる。まず固定客ができて、そこから広まったのか。
「…………」
ただ、やはりフリードは飲みたくなさそうだ。
「二人とも顔酷すぎだって」
オルフェはそれほど苦でもないらしく、笑っている。
「……地下だったか……?」
フィアナが独りごちた。
換気のし辛い場所だったような気がする。
「何か気になるのか?」
「はい。具体的には思い出せないのですが……」
濁した答えにフリードがやや目を眇めた。
毒物などに詳しいはずのフリードでも知らないというのなら、これは危険なものではないのだろうか。
確信が持てず、フィアナの疑問が揺らぐ。
オルフェは光に透かすように紅茶の入ったカップを持ち上げた。
「見た目は普通だけどね」
「……はい。ですが……」
考え込むフィアナに、フリードが問う。
「日時、場所、状況で覚えているものはあるか」
「恐らく……三、四年は前だと思います」
「そのとき、お前はどの辺りに滞在していた」
(……そうか)
フィアナの場合それで場所を絞れる。
その時は確か。
「南大陸にいました」
「……オルフェ。この紅茶は」
「南大陸からの輸入品。フィアナちゃんもしかして飲んだことあったんじゃない?」
「そうなのでしょうか……」
少なくとも今は全く飲みたいと思わない。
当時はそれほどでもないと感じていたのだろうか。
「ねぇ早く飲まない? いい加減冷めるよ」
「……そうだな」
ずっと渋っていたフリードが頷いた。
観察するように紅茶を眺めていたが、大丈夫だと判断したのだろうか。
考えすぎだったか、フィアナが諦めたとき。
突然だった。
するりと、記憶が解けた。
(……四年前だ)
ある場所にあった重い扉を開けると、その匂いは押し寄せてきた。地下なので窓はなく、むせ返るようなそれはその場に大きな塊となって留まっていた。
(南大陸の、脱法酒場の地下室で)
思い出した。
この匂いは────。
「っ!!」
フリードは既にカップに口をつけていた。
それが傾けられる前に、フィアナは勢いよく腕を薙いだ。
「フィアナちゃん!?」
カップは叩きつけられ、床にしみを作った。
フリードの顔にかかりかけた飛沫はなんとか手で塞いだが、太股のあたりに熱い茶が零れる。
だがそれに構っている場合ではない。
フィアナは窓際に歩み寄ると大きく開け放ち、ついでに花瓶を掴んで花を投げ捨てる。
問答無用で花瓶の水をフリードに頭からかけたフィアナに、オルフェは唖然とした。
「えっそんなに嫌いだったの!?」
「そういうことでなく」
確かに嫌がらせにしか見えないし動機もそこそこあるが。
違うとフィアナは脱力した。
「……っオルフェ、カップを置け」
しかしフリードは落ち着いており、口の端を拭いながら言った。
「……毒の類か」
フィアナの行動の意図を正しく理解したようだ。
頷いて応える。
「恐らくトリシャです」
オルフェがぱかりと口を開けた。
その一言で色々と把握したらしく、人を呼ぶために部屋を出ていった。
「……私たちも出るか」
フリードが促す。部屋にはまだ甘い匂いが残っていた。嗅ぎ続けるのはよくない。
フィアナは残った水で手を洗い流し、執務室を後にした。
「……大変、失礼を致しました」
廊下に出て、フリードへ先程の無礼を詫びる。
緊急を要することだったので、かなり荒っぽい対応になってしまった。
「構わない。……飲み水は信用ならないからな」
テーブルの上には水差しもあったが、フィアナはそれを使わなかった。
二重に仕掛けられている可能性を考えてのことだ。
その点、花瓶の水なら飲むことは想定されていないので、何かが混ぜられる可能性は限りなく低い。
「それにしても、トリシャか……」
フリードは険しい顔で呟いた。
トリシャとは、南大陸の言葉で“快楽”を表す。
麻薬として世界的に禁止されているものを品種改良したものだ。葉と花を切り刻んだ混合物で、乾燥させた状態、または粉にした状態で服用される。
温暖湿潤な南大陸で栽培されているもので、それ以外の大陸で育てることは難しい。
向こうでは、嗜好品として日常的に摂取されているようだ。
(だが、西大陸では殆どの国で違法物)
改良されて急性中毒で死ぬことは殆ど無いとはいえ、人によっては急性の中毒性精神病を患う。
さらには幻聴、幻覚、過度の被害妄想などの症状が現れることもあるのだ。
他の麻薬に比べれば多少マシというだけで麻薬に変わりはなく、ここフェロニア王国でも禁止薬物に指定されていた。
献上品として贈られることなど、あってはならないものだ。
「フリードリヒ殿下!」
そのとき、バタバタと足音がして先日世話になった医師が走ってきた。
オルフェが呼んだのだろう。
恐らく紅茶は口に入っていないと思うが、念のため見てもらった方が良い。
しかしフリードはすぐには応じず、フィアナを手招きして口早に告げた。
「お前は別室で待機だ。オルフェが到着するまで待て。他の者に何を言われても、私に命じられたと言って従うな」
「それは……」
「お前は真っ先に疑われる立場だ。今連れていかれれば面倒なことになるのは目に見えている」
だから王宮で力の弱いフィアナは、オルフェに守ってもらう必要がある。
「分かったな」
「はい……」
小声での会話はこの辺りが限界だった。またすぐに他の官僚たちが集まってくる。
何か大事が起こったのだと使用人たちも悟り、現場は騒然としていた。
(大変なことになったな……)
まさかこの堅城に麻薬が入り込むとは。
しかも、イレギュラーな例とはいえ第一王子のもとまでそれが辿りついてしまったのだ。
ざわめく人々の中で、フィアナは小さく舌打ちをした。
甘く苦い香りが未だ鼻腔にまとわりついているような気がする。




