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転倒、僕と君は

作者: 架空パンク

随分前に最後の恋人に捨てられてしまった。それがどれくらい前のことだったか、経緯はどんな具合であったのか、はっきりと語ることができないでいる。彼女のことを僕は惜しんでいるだろうか。わからない。彼女は(なにかしらの美の基準あるいは経済とでもいうようなものに照らし合わせる限りでは)別段美しいわけでもなかったように思われるし、今から思い出せば、彼女の言動や身振り手振りにはいやらしい女の現実感覚というものが透けて見えていたようにも思われる。僕は悲しいのだろうか。こうして彼女について気障たらしい書き物をものしていることからして、もう戻らない悲しく美しい思い出の平面的な影に浸っているだけのことなのかもしれない。僕にはわからない。


僕の夢見るような視線の向こうで、■■は反対側の歩道へと通りすぎて…


僕は彼女を愛していただろうか、僕は彼女を惜しんでいるだろうか、僕は彼女に捨てられた(本当に「捨てる」という他動詞の目的語は僕であり、その動詞の主語は彼女であったのか)のだろうか。僕は彼女について、なにも書くことができない。現在から過去へ投射される男の視線は彷徨ようばかりだ。僕の思考はただ、現在時制の言葉の海のなかでグルグルとネジ曲がった円を描き、留保し、先送りにし、送り返し、一枚の織物を成すことすらできずにいる。


一冊の書物のようなものを用意できるだけの時間をもったすべての人々を僕はうらやむ…


僕の思考はどこに向かっているのだろうか。いや果たして思考しているのか?気味の悪い言語の硬質な悪意を肌に感じる。僕、君、代名詞ふたつ。誰かが僕に初めてこの二語を聞かせたとき、その意味作用は誰に結ばれていただろう。僕の思考はどこへいく。いや、留保する、先送りにする、送り返す、僕が僕の思考を語るに用いた動詞三語、それすら所与のものではない。かつて与えられたものだ。かつて、かつて、かつて…。すべては過去時制に回収されていくのだろうか。僕はどこにいる。君は果たして…


■■、そこにいるのは君なのか、それとも、僕自身なのか、此岸のなかにも彼岸はあるというのは本当なのか……


君と出会うために僕はどうすればいい。死ななければならないのかもしれない。そうすればあるいは、君と僕は他の誰かの言葉のなかで、「愛する」という動詞の両端に置かれることになるのかもしれない。僕は君を愛していた。君は僕を愛していた。閉じられた死の円環のなかで、僕らは出会うだろう。


違う、そんなことをしたいのではない。僕は、君に…


一枚の写真。霧深い春の日の陽射しのなかで、君が笑っている。それはかつて、あった。煙草の煙が換気扇に吸い込まれていく。僕はいまここにいる。君がいない。紫煙の向こうに君がいたなら、もしかして僕の視界はこの写真と二重写しになったのかもしれないけれど。二重写し、それでも充分ではない。隠喩だけに支えられた紐帯はひどく脆い。僕は君に出会うためにどうしたらいい。まったくの不在。僕の過去からすら、君は姿を消した。


転倒。過去の映し絵であるのか、現在を運動する判じ絵であるのかが不明になるとき…


視界が崩れる。君の笑顔が世界の残酷にぐにゃりと歪む。いや、見えた、僕は君に… 出会い続けている。予言ではない。確信でもない。僕の世界、僕の世界そのものの構造のなかに、「君」は刻まれている。君が姿を変える。僕を、誰かを、なにかをとりこんで、それはなんだっていい、いまここにあるものかもしれない(つまらない味のタバコの煙、安物のコーヒーカップ、僕の吐息…)、いつかやってくるものかもしれない(僕は夢の大波のなかに、ひとつの未来形の個物を見いだす…)、ひとつの美しい異形を成す。君は美しい、僕は君を愛している、君はただ一人の運命の人だ。僕の愛、そうだ、 絶対に個で在りながら複数を変型し蠕動し続けるフィギュール、僕と君の愛。フワフワと飛んでいけ、肯定と否定の作用から離れて、ひとつに重なることもなく、溶けて離れていくこともなく、ただともにあるという不可能なその事実、生のままの真実と真実のあいだで永遠にたゆたうのだ。


霧、春の陽射し、ガラス細工、煙草の煙、換気扇、君と僕、一枚の写真…

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