9.天空の回廊、人魚の王子様との会話
「セイレーンに然り海神に然り、何故人魚が今の様な下半身魚の姿で描かれるのか。ルナ、貴女には分かりますか?」
天空を歩いているような高いビルの回廊は、左右が水晶の様なガラスばりになっていて外の景色が嫌という位に良く見える。その景色に目を奪われている間に、シャトラールがルナ、とこちらを呼んでそう微笑みかけて来た。その問いにルナはしばし考えてみた後に首を落として、良く分からないです、と小さく返した。
「海神…例えばギリシア神話に描かれる様なポセイドンの様に、神からイメージされたとおもいましたけれど…先程の執事さんのお話を聞いて、人魚はかなり昔から存在するんだって知りました。でもどうして下半身が魚かって言われると…」
シャトラールはああ、良いんですよと手を振って苦笑を返した後に、その歩みを止めぬまま口を開いた。
「確かに、半人半魚である人魚はギリシア時代の神話に起因しているとも思われます。実際には海神ポセイドンがそうとも言いますね。ポセイドンはトリトンと言う息子がおりましたが、彼はよく中世絵画や彫刻のモチーフになりました。海に嵐を巻き起こしたり沈めたりして父親を助けますが、人間社会からすれば「半人半魚」というのは好ましい事ではないのですね。異人的・あるいは異教的と見られたりしました」
そう言うと彼は少し眉根を下げ、困った様な表情を作ると立ち止まり、素晴らしいまでに磨かれた窓ガラスに左手をつけた。つられてルナも立ち止まり、シャトラールの方を見やる。
「人間として完全でない物は異質だった。この様な事から見るに、中世において祈りの場に装飾としても存在する人魚は、その姿を見る人に無言で訴えていたのです。信仰心が足りないとこのような姿に再生する、だからもっと信仰心を深めなさいとね」
「信仰をしないと罰が下るぞ、と言う事ですか?」
「そうですね。人魚は戒めだったのです。また人魚はセイレーンと同様に色欲のシンボルとしても宗教の布教の一端を担いました。何せ大昔は文字の読み書きもままならぬ人間も居た訳です。教誨に彫られたレリーフにより、人々はその姿を目に焼き付け、恐れ、そして祈った。我らマーフォーク一族は、人々の戒めると言う教えを今も護っている訳です」
「戒め…」
薄暗い空の隙間から一瞬稲光が轟き、大地を揺らした。シャトラールはハッと我に返ったように目を見張ると、ルナに向けて申し訳ない、と困った様な笑顔を向けた。
「無駄話が過ぎましたね、申し訳ありません。お疲れでしょうし、貴女のお部屋も間もなくですので急ぎましょう」
そう言って彼はルナの手を取り、優しく誘導を再開したその時。
「兄さん!」
まるで初夏を思わせるような爽やかな声が二人の前方から響き渡った。びっくりして二人同時に目を上げれば、目の前にはスーツ姿のこれまた細身の小柄な青年がこちらへやって来ている。髪の色はシャトラールと同じプラチナブロンド、瞳はマリンブルーだ。少年期を抜け出たくらいの、幼さと大人の妖艶さを入り混じらせたその青年は、先程の言葉からしてもしや弟なのだろうか。青年は自分達の前で立ち止まると、少し乱れた息をととのえ、その美しい美貌を、碧眼をこちらに向けた。
「ああ、」
シャトラールのどこか憂いを帯びた眼差しが向き、途端喜びに綻びた顔を見せる。客人に会う時とのその差に驚きはしなかったがひとまず目を丸くした。なんと美しい光景だろう。天使が2人も揃ってしまったかのよう。シャトラールがクルリとこちらに振り向いて微笑んだ。
「紹介しましょう、ルナ。我が一族、私の3つ下の弟、ロイ=マーフォークです。此度のパーティには参加いたしませぬが、貴女には特別ご紹介しましょう」
「はじめまして、ミスタ=ロイ。ルナです。今回のパーティに参加させて頂きます」
ぱ、と見つめ返してきたマリンブルーが深海の蒼の様で、一瞬にして淡い海に囚われてしまったかのように感じさせる、そんな瞳を持つ青年はにこ、と兄に似た優しい微笑みでこちらに返してきたのだった。
「はじめまして、ルナ。このマーフォーク家にようこそ。楽しんでいってね! 兄さんがいるから心配はないだろうけれど、何かあれば僕にも何でも言って!」
「感謝します、ミスタ=ロイ」
「もう! ただのロイでいいよ! 年もそんな変わらないだろう? 僕もそう堅苦しく呼ばれるのは似合わないし、あんま好きじゃあないから。代わりに僕も君の事ルナと呼ぶから。良いでしょ?」
「え、あ、はい」
「よし! じゃあその堅苦しい口調もなしね!」
「こらロイ。お客様を困らせるものではないよ」
はきはきとルナに語り掛けるロイにシャトラールがそっとたしなめる。するとロイはその頬を膨らませてもう、と拗ねたように眉を上げた。
「いいじゃない、だってルナみたいな子と話すのは本当に久しぶりなんだもの。兄さんにばっかりルナを占領されたくないもん」
「だからってお客様を困らせて良いものではない。ロイ、紳士という者は一方的な押し付けをしてはならない。それは己のエゴなのだから。いいね」
「……はぁい、兄さん」
「さて、お客様は長旅でお疲れだ。夕食には共にまた話が出来るから、ひとまずはお客様を休ませてあげよう。ロイ」
「…はぁい。じゃあルナ、また夕食の時にいっぱいお話しようね!」
「ええ、楽しみにしています」
名残惜しそうな背中に微笑みながら手を振って青年の姿を見送った後、シャトラールがさて、と申し訳なさそうな顔をしてこちらを見下ろした。
「…我が弟が大変失礼を致しました。悪気があった訳ではないのですが、なにせ活発な子故…ご容赦下さいますかルナ」
「そんな、迷惑だなんて思っていないです。お兄様思いの良い弟さんですね」
そう返すと、彼は口角を少し上げて、
「そうだと良いのですが…」
その困った様な表情で微笑む仕草も儚げで、今にも消え失せてしまいそうに柔らかい。これがマーフォークの当主なのか。弟の事を憂い、一族を思いやる若き青年。こんな彼をこれから騙すのかと思うと複雑な気分だ。考え込んでしまったルナを、疲れていると思ったのか、青年がそっと口を開く。
「ルナ、もうじきお部屋です。お疲れの所に加え、長話に付き合わせてしまって大変心苦しいのですが、今しばらく御辛抱下さい」
歩けますか。そう言って優しく微笑む若き当主の顔がこちらを見下ろしていた。ルナはハッと我に帰り、そんな青年の方に同じくらいの優しさを込めて微笑み返した。
「大丈夫です。お気を使って頂いてすみません」
そうですか、と申し訳なさそうな表情を崩さなかったが、シャトラールはでは、と手を差し伸べて道を示した。そんな彼の後についてルナは歩みを再開したのだった。
小難しい故にこの小説は近寄りがたくなるのが特徴です。ごめんな土下座。